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なぜ細田守は、インターネットの未来を肯定するのか? 『竜とそばかすの姫』に寄せて。

【『竜とそばかすの姫』/細田守監督】

とても強烈な信念に貫かれた作品である。

夏の映画興行を牽引する大規模な娯楽作品でありながら、鋭い作家性が際限なく炸裂していて、その物語のテーマは完全にディープな方向へと振り切られている。もしかしたら、『サマーウォーズ』的なる王道エンターテインメント作品を期待していた観客は、何重もの意味で圧倒されたかもしれない。



では、細田守監督が胸に抱く信念とは何か。結論から言ってしまえば、それは「インターネットの未来を肯定する」という願いや祈りにも似た想いだ。

細田監督がインターネットの世界を舞台とした映画を世に送り出したのは、今回が3回目である。2000年の『劇場版デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』は、インターネットが脅威の根源となるリスクを描きながらも、「あらゆる世界を繋ぐ」ことの意義や可能性を伝えてくれた。そして、同作をベースとして生み出された2009年の『サマーウォーズ』は、インターネット社会の本格的な到来を目前とした観客に、その希望的なビジョンを示してみせた。

しかし、どうだろうか。この十数年の間に、僕たちのインターネット観は大きく変容してしまった。より具体的に言えば、インターネットという言葉そのものに、ネガティブなニュアンスが滲んでしまうようになったのだ。

今から振り返ると、『サマーウォーズ』は牧歌的な作品だったとさえ思えてしまう。田舎町の大家族を中心として描かれた物語は、どうしようもなく人間味に溢れていて、そこには、インターネットと人類が共存する未来に対する温かな眼差しがあった。

それでも、僕たちが生きる2020年代の現実は、『サマーウォーズ』をはじめとするSF作品が描いてきた想像の世界を遥かに超えるほどに、痛ましく、残酷で、無慈悲なものである。

正義の名のもとに行われる誹謗中傷は、まさに私刑とも呼ぶべきおぞましい行為であり、一度でも標的として定められた者に対して、自らの匿名性を保ったまま言葉のナイフを放ち続ける行為は、現実の世界における暴力の恐ろしさを凌駕しているとも言える。

また、人間のダークサイドを表出させ、累乗的に増幅させてしまうインターネットの世界においては、いとも簡単に分断が加速してしまう。そして、そうした負の連鎖は、更なる閉塞と抑圧を生む。こうした流れは、当初のインターネットが掲げていた「あらゆる世界を繋ぐ」という理念と決定的に反するものである。

このように例を挙げていくだけで絶望的な気持ちになるが、こうしたインターネットに対するネガティブな認識や危機意識は、既にあらゆる世代の共通のものとなってしまっている。



だがしかし、細田監督の信条は揺るがなかった。この2020年代において、それでも「インターネットの未来を肯定する」ことを、彼は決して諦めることはしなかったのだ。それは、何故だろうか。言うまでもなく、その答えは、今作『竜とそばかすの姫』に込められている。

細田監督は、人を傷付け、惑わせ、分断するインターネットは、それでも、どこかの誰かの人生を救い得ると心から信じているのだ。

その救済の構図は、決してシンプルなものではない。細田監督は、そのメカニズムを表現するために、今作のストーリーテリングにおいて「美女と野獣」の物語のフォーマットを求めた。

詳細について言及しようとすると、物語の後半の展開に触れることになるため、ここからはあえて抽象的に書くが、「美女と野獣」の本質は、「真実の人間性」を追求する物語にこそ宿っており、それは、現実とインターネットの世界を対比しながら、自らのアイデンティティを模索する今作の物語と極めて相性が良い。

ただし、ここで強調しておきたいのは、その「真実の人間性」は、どちらか一方の世界にのみ表出するものではないということだ。今作は、2つの世界の自分が互いに作用し合うことによって、もともと規定されていた「真実の人間性」が更に磨かれていく可能性を示唆している。(今作においては「音楽」が非常に重要な役割を果たしていて、中村佳穂が演じる主人公・すず/ベルの歌は、お互いにとっての「もうひとつの現実」を生きる「もうひとりのあなた」とのコミュニケーションの回路となっている。)

そうした救済の形は、インターネットへの依存とは全く異なるものだ。あくまでも現実に足をつけながら、インターネットを通して手にした無数の選択肢をもとに、自らの可能性を開花させていく。もちろん、その道のりにおいては、迷うことや傷付くこともあるかもしれない。それでも、その輝かしいプロセスは、まさに今、分断や抑圧の中で、自らの可能性を信じることができないまま生きている数多くの人々を、きっと救うはずだ。

そう、細田監督が「インターネットの未来を肯定する」のは、もう一方の世界である、この現実を生きる人々の未来を肯定するためなのだ。それは信条というよりも、細田監督が抱く願いや祈りのようなものなのかもしれない。いつか実現することを信じたい未来を描くことこそが、映画監督としての細田守が秘める業のようなものなのだろう。

そうした鮮烈な肯定性は、これまでの過去作においても明確な作家性の表れとして描かれてきた。今作『竜とそばかすの姫』は、その一つの到達点へと至った作品なのだと思う。



この混沌とした時代において、インターネットの眩い可能性を提示してくれる今作が生まれた事実に、僕は計り知れないほどに大きな希望を感じた。

そして一方で、細田監督が今作に込めた願いや祈りが、これから先の現実へと結実していくかどうかは、この現実世界を生きる僕たち観客に託されている。

いつか振り返った時、この作品が、次のパラダイムシフトのきっかけとして語り継がれる未来を信じたい。





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