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コスメは語りはじめたVol.1「コスメとファッション」

コスメは語りはじめた

ずっと、コスメについて考えてみたかった。

ことのはじまりは2022年9月10日、批評家の伏見瞬さんと西村紗知さんが不定期で開催されているトークイベント<歌舞伎町のフランクフルト学派>に私がゲストで呼ばれた際の出来事にさかのぼる。その日「教えてつやちゃん!100の質問状」という企画で数々の質問に答え価値観と思考を丸裸にされた私は、「今後書いてみたいテーマはありますか?」という質問について「書きたいジャンルはたくさんあるけれど一番論じてみたいのはコスメについてです」と回答していたのだった。

トークイベントが終わり来場された方々と話していると、マリコムさんと名乗る女性がいらっしゃって「私はスキンケアオタクです。コスメ批評とか美容批評ほど、今まで存在せず論じ甲斐のある領域はないと思うんですよ」とおっしゃる。マリコムさんが批評誌『LOCUST』に寄稿されている方だと知ったのはその数日後だったのだが、同じ問題意識を持った人がいきなり見つかってしまったことに驚いた。私はコスメを愛しているが――物質的側面というよりも概念として――、女性を自認してはいないので、これまでコスメを語ることに躊躇があった。だからこそマリコムさんに対し一緒に思考していくことを提案し、議論の結果、ひとまずいくつかの対談を記事にしてまとめることになった。

対談にあたり、私はまず自分の中にあるコスメや美容についての問いを打ち明けた。

私は普段、いわゆる文化や芸術領域について書いたり喋ったりすることが多い。文化や芸術には、少なからず美的価値の追求という側面がある。この世に生み出されるもの、それがたとえ瞬間的に消えゆくものであったとしても、何かしらの問いを設定し価値観を注ぐことで半永久的な命を吹き込むことができるはずだと思っている。ゆえに、それは音楽も映画も舞台も食も衣服も、そして美容やコスメも同様だと信じて疑わない。

けれども、美の価値基準はますます固定化されてきている。美の多様性を叫ぶ声が近年聞こえてきているじゃないか、という反論があるかもしれない。まさか。現在のそれは、美がリニアなゲームとして異常なほど加速し続ける現状へのアンチテーゼとして発せられている。それらはゲームにより苦しめられている者たちからの慨嘆であり、社会の圧倒的多数が美容の資本主義ファシズムへ加担することに対する警鐘である。本企画は、もちろんそういった視点での問題提起も包括しながら、より広い射程で美についてオルタナティブな見方を提案していきたい。複数の視点を持ち、多様な視座からまなざし、コスメや美容についての距離感も遠近含め様々にはかっていきたい。

私は、マリコムさんのことをよく知らない。マリコムさんも恐らく私のことをよく知らない。私たちは固定観念に縛られたくないからこそ、よく知りもしない関係性のもと、いまだ世の中において語られ得なかったコスメと美容の可能性についてフラットに対話する。あらかじめ持っている答えはない。恐らくこの企画は、演繹と帰納を繰り返しながら生まれた貴重なヒントを拠り所に思考を重ねていくことになる。それは狭い可能性に閉じ込められ窮屈になったコスメを救うたった一つの手段であり、少しでも一歩を踏み出せた暁には、長い長い沈黙を経て、ようやくコスメは語りはじめるに違いない。

つやちゃん

絵画:ユササビ《デパコス》2018

空気をまとうファッション、密着するコスメ

マリコム(以下コム):私はファッションに詳しくないので、今回はインタビュアー的な立ち位置で色々とお聞きして行きたいと思います。「コスメとファッション」というお題はつやちゃんからの提案でしたね。なぜこのお題を?

つやちゃん(以下つや):今回一回目の対談テーマを考えるにあたって、いきなり微に入るよりも少し広い枠組みから話をはじめた方が良いのではと思いまして。つまり、「そもそもコスメとは何か?」という問いから入っていこうかと。そうなると、コスメに隣接する領域を置いて比べたり重ねたりしながらのアプローチが有効なのではと思い、割と近いポジションとして捉えられているであろうファッションを持ってきた次第です。

コム:隣接しているのは、両者ともに装飾的である点で、でしょうか。

つや:そうです。一見、身を飾るオシャレなものとしてファッションとコスメは近い位置で捉えられていると思う。でも、実際どうでしょうか。両者は全く相容れないものだという気もする。

コム:相容れない、というのは意外な感じがしますね。どのへんに反発しあう要素が見られますか?

つや:まず言葉の定義をしておいた方が良いですね。ここで言う「コスメ」とは、「スキンケア」と「メイク」を包括的に指すものとします。「ファッション」は定義が広範なのでひとまずここでは「各人のアイデンティティや時代ごとの流行を反映した衣服」としておきましょうか。そのアイデンティティや流行の起点として、ファッションには「メゾン」という得体の知れない存在がありますよね。そしてメゾンが作り出している仕組みとして、「モード」というものもあります。早速何が何だかという感じですが(笑)、要はファッションとは非常に強固なシステムによって成り立っているのだということです。さらに、メゾンの中心には各ブランドを象徴する「ロゴ」というものがあります。

コム:ファッションの中心は「ロゴ」なのですか。

つや:ブランドの語源が「焼印」にある通り、私はロゴというものの存在がファッションにとって非常に大きな象徴としてあるんじゃないかと思うんです。自分は2000年代にティーンを過ごしているので、どこか90年代のオルタナ的な残り香を嗅ぎながらもインターネットに夢を見ていた時代を生きた幸せな人なんですが、その感覚でいうとファッションとロゴってけっこう切り離されていたんですよ。ロゴはダサい、みたいな。ロゴ見せない奥ゆかしさがカッコいいんじゃん?っていう。でも、80年代消費社会的なロゴ幻想というのがここ数年でかなり盛り返してきている。田中康夫『なんとなくクリスタル』をはじめとした80年代の小説は、登場人物のファッションを細かく描写するのではなくブランド名を記号的なものとして羅列していきましたよね。近年、コングロマリット企業としてグローバル化を進めている巨大ラグジュアリーブランドは、その流れで顧客層も大きく変化させています。SNS上でブランドロゴにタグを埋め込み、まさにブランドを記号的に羅列していくことで80年代的な身振りをよりインスタントに行なう顧客層がかなり増えてきた。若年層と新・富裕層ですね。恐らく、両者は起業家に近いマインドを持っている点で共通している。新・富裕層というのは、伝統的な富裕層ではなくいわゆる東京カレンダー的な人たちと言えば伝わりやすいでしょうか。

コム:東カレ的、あるいはパパ活のパパ的な新・富裕層ですね。

つや:両者は、新自由主義のゲームに乗って上昇していくんだ、という気概にあふれています。そうなると、衣服のフォルムだったりブランドのフィロソフィーだったりという価値観はあまり重視されないんですよね。分かりやすく、ロゴに重点が置かれるわけです。しかも2010年代半ば以降、ラグジュアリーブランドとストリートが一緒くたになったことで、オルタナとしてのストリートの価値も無効化されてしまった。全てがフラットになって価値観も一つに集約されていった結果、荒れ地に残ったのはDIOR、GUCCI、CELINEのロゴだけという。でも面白いのが、コスメって意外とそうならないんですよ。コスメブランドにもロゴはありますが、見せびらかすものにはなっていない。今の時代タガが外れているので、ロゴの刻印されたリップをもっとアクセサリー的に見せていくようなムーブがあっても全然不思議ではないんですが、どうやらそんなことは起こる気配がない。

コム:コスメはファッションほどには単価の開きが無いから、ゲーム的には張り合いがない駒だとも言えますね。ファッションでは1000円なのか100万円以上なのかという開きが、コスメだと100円からせいぜい10万円のレベル。

つや:価格の違いはあるかもしれないですね。クレ・ド・ポー ボーテもゲランもせいぜいクリーム15万前後にとどめている。ラグジュアリーブランドがあれだけぶっ飛んだ価格設定をしてるところに、コスメはそのゲームに乗っているような乗っていないような、ちょっと曖昧さを感じさせます。

コム:そうした違いは確かにあるのでしょう。でも、つやちゃんから最初に「相容れない」という言葉が出てきたことが気になります。「違う」と「相容れない」はかなり違いますよね。どういうところで「相容れない」の実感が生まれたのかについて、もう少し詳しくお聞きしたいです。

つや:もうちょっと違う切り口で考えると、コスメが価格を釣りあげられない理由としては、ファッションが空気をまとっているからだと思うんです。これは広告ビジュアルとしての在り方を考えると分かりやすいですが、ファッションはそれ単体ではグラフィックとして成立しない。でも、コスメは撮れちゃうんですよね。その「撮れちゃう」というのは大きな問題です。ファッションは必ずモデルと一緒にシューティングされるから、そこに空気感が介在する。コスメもそれに憧れて、2010年代にシチュエーションカットのトレンドを起こしました。いわゆる「ビューティじゃなくライフスタイル風のムードで撮ろう」ってやつですね。色んなブランドが陽を浴び風にそよぐ商品カットを撮り出した。けれども、いまいちカッコよくなかったわけです。そもそも自然光を受けてフォトジェニックになるようにボトルがデザインされていないので当然です。やっぱりコスメはスタジオでバチバチに照明組んでブツ撮りする以外、カッコよくなり得ないんですよね。それって突き詰めると、ファッションは纏うものでコスメは直接肌に塗ったり浸透させたりする、という違いそのものなんじゃないかと思う。ファッションが衣服と肌の間に空気を漂わせるというのは決定的な強みだと思うし、だからこそ高級品として神秘性を醸し出せる。

コム:コスメにとっては、空気感よりも親密度のほうが重要ですよね。メイクでは、マスクで擦れても落ちない密着力のあるファンデーションに需要がありますし、口紅なんかは少し口に含んでしまっても健康上の影響が出ないように作られている必要がある。スキンケアは薬機法(医薬品医療機器法等)による表現規制がありますから、広告で「浸透」と言う際には「角質層まで」と注記する必要がありますが、それでも表皮の下部にある角質層にまでは浸透することが望ましいと考えられているわけです。確かに、「まとう」というよりは、もっと体に親密ですね。

つや:とんかつがなかなか高級料理にならず、天ぷらが高級料理になり得ることと似ています。天ぷらはとんかつよりも衣と具材の間に空気を介在させるでしょう。結局、それによって神秘性を演出できるんですよね。だから、私の理解ではコスメはとんかつでファッションは天ぷらなんですよ。とんかつの方が機能的だしね。

コム:なるほど。それで言えば、天ぷらの衣のような空気感をまとった軽い使用感のパウダーはあると思っていて、たとえばコスメデコルテのAQミリオリティはそうだと思います。しかし、あれはスキンケアの最後にはたくもので、要するにクリームなんかで保湿した後のペタペタした肌に密着させて初めて肌に空気感をまとえますから、やはり密着が前提となってしまうところはありますね。

つや:ファッションの天ぷら性という話だと、空気を纏い神秘性が醸し出されているからこそ、象徴としてのロゴを背負えるとも言えますよね。コスメが象徴としてのロゴをファッションほど背負わないのは、空気を纏っていないというのも関係しているかもしれない。ちょっとロラン・バルトっぽい話ですが。

コム:たとえば季節感は象徴的なものとは言えませんか?

つや:コスメにおける春夏秋冬の象徴のさせ方って、結局のところ春夏は美白、秋冬はエイジングケア、というパターンに回収されちゃう気がする。あとはクリスマスコフレとか。ファッションの季節感に見られるような複雑さと神秘性がコスメにはあまり見られないんじゃないでしょうか。「残暑の生気と秋のほのかに冷えた空気をストールで表現して」みたいな繊細な姿勢はないわけです。

コム:ファッションでは、リアルクローズではなく、コレクションとしてショーで輝く非日常性に価値が置かれる側面があると思いますが、コスメは実用から離れられないから、神秘性みたいなものとは距離があるということでしょうか。つやちゃんは、実用品としてではないコスメに興味がありますか?

つや:実用性ではない側面でのコスメ、というのはコスメを考える時の一つの大きな可能性だと思います。あくまで機能品で実用品であるというのはそうですが、もっと色々な視点があってよいのではないか。ファッションと比べると空気を纏うのが難しいし象徴的なものでもないかもしれないけれど、もしかするとそれはコスメに対するそれ以外の視点をこれまで我々が見つけられてこなかっただけかもしれない。近年のファッションにおいて、先ほど言ったようなネオリベ的ロゴ戦争が進み現代アート化のような風潮も強まってきている中で、一部のファッションは高級品として制度化されすぎているのではないか。それよりはもっと、語られてこなかったコスメの価値について今こそ語るべきタイミングだと思うんです。

一人称視点とパーソナル診断

コム:私、メナードのビューネくんは空気だと思っています。ビューネくんは、彼氏でも家族でも友達でもセフレでもソフレでもない、でも同時にそのどれでもあるような、何でも受けとめて受け入れてくれる存在です。だからヘテロ女性の欲望をご都合主義的に可視化したものであるという批判はできますが、一方でその関係の曖昧さが空気的であり、さらに彼は化粧品を擬人化したものであるというところが面白い。まだ関係に名前がついていない存在、それをビューネくんと呼ぶ。そんな彼は化粧品である。どうでしょう、神秘性がありませんか(笑)。

つや:「誰か」という他者を通して自分の肌を見る、という発想は面白いですよね。斎藤美奈子が『文学的商品学』(文春文庫)で書かれていた指摘を思い出します。曰く、日本の近代小説は和服の複雑さをつぶさに描写していく技術が面白いんですが、最近の小説は一人称が多いがゆえに朝着る服を選ぶタイミングくらいしか衣服の描写がなくて、しかも平坦でつまらないと。二人称三人称の小説は、誰かの視点を通して衣服を描写するという点で豊かなんですよ。これってコスメにこそ当てはまるんじゃないかと思って。自分に効くか?とか、自分に似合うか?とか、コスメはファッション以上に全部一人称になっちゃうでしょう。だから、ビューネくんはやりようによっては可能性を感じる。「ビューネくん推しボ総選挙」とかじゃない方向性で……。この薬用ビューネという商品は売れてるんですか?

コム:商品自体よりCMのほうが有名なんじゃないかな。でもビューネくんは昔からいます。初代は1999年の藤木直人だったようですね。

つや:そうなんですね。

コム:ちなみに、一人称的な閉鎖性ではなく、二人称三人称的な広がりとして、パーソナル診断を捉えなおすことは可能だと思いますか? 一見すると、パーソナルカラー診断や骨格診断は、可能性を狭める話でしかないような気がしますが。

つや:パーソナル診断ってなんであんなに流行ってるんですか?選択肢が多すぎて自分では選べないから他人に選んでもらおう、という人がたくさんいるということなのかな。

コム:でも、先ほどの第三者による衣服描写の話で言えば、肯定的に語れそうな気がしなくもないですよね。さらにファッションとコスメを繋ぐ話題でもある。

つや:確かにそうですね。どういう人がパーソナル診断を受けているんだろう。自分の周りには全然いない……。でもそんなのわざわざ言うような話でもないし、みんなやってるのかな。

コム:実用的な話になりますが、似合うものを見つけるための試着行為が足りないとき、その経験値の浅さを補ってくれるものではありますよね。背景としては、もちろんネット通販が関係していると思いますが。最近で言えばSHEINやアリエク(Ali Express)みたいな海外系の激安ECサイトが流行っていて、ああいう激安通販はたまにポップアップ店舗こそあれど、決まった店舗を持ちません。あるいはコスメでも、クリスマスコフレの一部はデパートのカウンターでテスターすら展示せずに予約を締め切ってしまうわけです。そこで試着機会の無さを補ってくれるものが、パーソナル診断であると。

つや:ECの隆盛は関係ありそうですね。結局自分のことって自分では分からないから、そうなるとニーズはやっぱり高いのか。

コム:ああいう診断って誰が指標を決めているのかな?

つや:みんな、何かしら資格を持っているということは言ってますよね。でも、自分は見ているといつも骨格診断の方が納得性が高く感じる。カラー診断は、やっぱり「そうは言っても好きな色着たいよ」という気持ちがあるからなのかもしれない。

コム:骨格は数時間あるいは一日二日で大きく変わるものではないと思いますが、カラーは時間や環境によって見え方が大きく変わるので、骨格のほうが安定的にルールを持てそうという予感もありますね。

つや:でも、「イエベ」「ブルべ」はそういう名前がついたから広まりましたけど、以前から考え方自体はありましたよね。BAさんが「お客様の肌は黄みが強いので……」ってファンデーション選ぶ時にアドバイスする、みたいな。もちろん「マイとヨーコの世界一分かりやすい骨格診断とパーソナルカラー診断」とかをYouTubeで見てると、色を起点にしたあれほどの細かい提案はなかったな、とは思いますけど。

コム:「イエベ」「ブルべ」という名前の有無は大きいですよね。名前がついたものに所属して安心したいという態度が透けて見えると、ダサいイメージになっちゃう。第三者の視点がもたらす自由度とは逆を指向するものになるから。

つや:そうなんですよね。第三者の視点で見ているようで結局は第三者の言葉を借りて自分で自分を見ることに帰結してしまう。せっかく第三者の視点を入れるなら、もっと枠を取っ払う手伝いをしてほしいし、自由になりたい。……そんなこと言っている時点で自分は骨格診断やパーソナルカラー診断は向いてないんでしょうけど。

コム:そう思います。ただ、そこでは記号化が起きていると思うのですが、小説の中での衣服描写も何らかの記号なんですよね。ある種の記号であるという点では同一というか。

つや:先の斎藤美奈子の書籍では、例として永井荷風『腕くらべ』の「横坐りに崩した膝からちらと見せた長襦袢、鶸茶に白く片輪車の絞りはまずゑり円の誂えと覚しい。帯はぐっと古風に幅狭く仕立てた独鈷の唐繻子、掛の端へ如源の二字を赤糸で縫わせたは大方浜町平野屋の品であろう」という描写を紹介していますね。ここまで来ると確かにすごい。あとやっぱり、絶妙に言語化できない外見の魅力というのもあると思うんですよ。例えば、「推し」についての形容は今とてつもない可能性があふれていると思う。この前見た例を紹介してもいいですか。「推し」が普段言わない冗談を言ってスベったらしいんですね。そのとき「推し」の目がくしゃっとなって、スベったという恥ずかしさから頬が赤らんで、それがかわいかったと。その表情を支えているのは、実はシャネルのチークのコーラルピンクカラーの赤みかもしれないし、そこに元々あまり冗談を言わないキャラクターの人が珍しくおちゃらけたという仕草があいまった結果「超かわいい!」という感情が沸き上がっているのかもしれない。分からないですけど、どちらにせよここでは内面=キャラクターと外見が交差して生まれた表情を「かわいい」と呼んでいる。単純に、造形的な美醜の判断で「かわいい」と言っているわけではないんですよ。つまり、愛する人の顔を語る際に、人は美醜の判断軸からごく自然に解放されるし、突然そこにキャラクター込みのかわいさが入りこんでくる。私は、ここに一人称じゃないコスメの語りについてのヒントがある気がするんです。

コム:他者として愛でる、ということですね。

つや:「推し」だからできるんですよね。無条件の愛を捧げることによって、そういうかわいさをキャッチするセンサーが起動するわけです。愛する人について描写したり説明したりする時に、人は無意識のうちに美醜の評価軸が一旦外される、というのは大事かもしれないです。コスメやビューティに美醜という判断軸以外の視点を入れたい、ということを私は常に考えているんですよ。そこを突破できる一つのヒントにはなると思うんですよね……愛から来るまなざししみたいなものが……。

コム:それって、モノとしてのコスメに対する人間からの愛の眼差しでしょうか? それとも、コスメを身につけることによって自分が美醜から解き放たれる、ということを言っていますでしょうか。

つや:どちらもあるし、それ以外の形ももちろんあると思います。

コム:つやちゃんがインタビューをしているような若い音楽家の方々は、既にコスメを不自由なものであるとは捉えていないような気もします。ただ、たとえば私が普段やっているようなツイッターの「美容垢」界隈は、美醜の判断が絶対的なパワーを持ち続けていると言って差し支えなさそうですが。

つや:基本的に、ポップカルチャーは価値観の更新において世の中の一歩先をいきますからね。美容垢界隈だと、最近成分語りが流行ってるじゃないですか。中国はもっと過激で、いわゆる成分党と呼ばれるKOLたちがマニアックにコスメの成分について日夜分析している。そういった美容垢たちの美醜の判断軸も否定はしませんが、それ以外にももっと多くの語りのアプローチが欲しいとは思います。なぜなら、語りの種類はあればあるほど美しさにバリエーションを生むから。優秀なBAさんは結局みんな「肌って呼吸していて感情を持っているんですよ」とかちょっとスピリチュアルなことを言いはじめる、みたいな話がありますが、それって実際そうなんですよね。肌は間違いなく、感情を持っている。だからこそ、その美しさというのは単一的なものになるわけがないんです。

コム:私はメイクアップアーティストの小田切ヒロさんが好きで、よくYouTube動画を見るんですけど、あの人は喋りが独特と言うか、めちゃくちゃおまじないをかけてくるんですよ。たとえば社会人メイクの回なんかでは、「完璧なメイクは完璧な仕事を作るの」とか、必ず決め台詞を入れてくる。もちろん何の証明もできない話ですよ。でも、あの技術力とあのスピード感でそんなことを言われると、本当にそうかも……みたいな気持ちになっちゃうんですよね。小田切さんが人気なのは、魔法をかけてくれるからなんじゃないかな。

つや:分かります。肌や化粧に、魔法は絶対かかるんですよ。でも、魔法がかからない前提で語られることが多すぎる。だからいつも成分とか美容医療の話になる。

美容医療という問い

コム:美容医療で思い出したんですけど、ちょっと愚痴っていいですか?(笑)

つや:どうぞ。そのテーマだといくらでも愚痴れます。

コム:資生堂のHAKUが以前「美容医療か。美白美容液か。」というキャッチコピーを打ち出しましたね。あれ、ちょっと引いちゃいました。だって内輪ネタじゃないですか。

つや:2020年のSSですね。あれは一線を超えましたよね。

コム:美容医療で確実に成果を上げたい人をターゲットとしているというマーケティングの部分はよく伝わってきましたが、逆に言えばマーケティングでしかない。私、マーケティングの成果にお金を出すつもりないです。プロダクトに対してお金を出したいです。

つや:分かる。そもそも、美容医療のゲームにコスメが入ったら負けです。そんなの勝てるわけがないから。

コム:万一勝ったとしても、マーケティングが成績を上げたという話に回収されてしまう。そんなのユーザには関係ないですよ。もちろん消費者にとってもメリットはあって、お金や時間がなくて美容医療を受けることができない人でもドラッグストアに行けば類似の効果をもたらすかもしれないものを手に入れられる。そういう間口の広さを獲得したと言えなくはないと思います。でも、それも結局、「コスパがいい」みたいな話に着地してしまうんじゃないかと。

つや:それだけ、コスメが美容医療を脅威と感じているわけですよね。でも効果以外の部分でコスメが美容医療に勝っている点なんてたくさんあるわけで……ラグジュアリーとか歴史とか香りとか、そもそも自らの手を使って触れられるものであること自体もそう。とりわけ、ファッションブランドを中心としたラグジュアリーの世界ではまだまだコスメは未開拓なところが多くあると思う。

コム:ファッションショーではどういうメイクがされているんですか?

つや:現状ではファッションの世界観に倣ったメイクであって、その点でファッションに従属的なものだと思います。例えばニューロマンティックだったりフューチャリスティックだったり、ショーのテーマに沿っていかにファッションを引き立てるか、という役割。コスメブランドもファッションに倣ってメイクアップアーティストやクリエイティブディレクターを置いたりしてますけど、ファッションがメゾンを持っているのに対して結局のところコスメはいちメーカーでしかないんですよね。逆は無いのだろうか?つまり、ファッションがコスメに従属的になることはないんですかね。「この服に合うメイク」とはよく言われますが、「このメイクに合う服」はないのかな。それがカラー診断?

コム:確かにカラー診断は、コスメとファッションのどちらかに優位性がある、というものでは無い気がしますね。色自体に優位性が生まれるパターンとしては「推し色」や「担当カラー」があると思います。「推し」のアイドルが青色担当だから、コスメも青パケじゃないと絶対買わない、みたいなこと言っているファンは美容垢界隈でも結構見かけますね。

つや:なるほど。ちなみにコスメとファッションだったら、マリコムさんはやっぱりコスメが好きなんですか?

コム:コスメ。ファッション興味無いですね。

つや:そうなんだ。実は、ファッションオタクであり同時にコスメオタクの人って出会ったことないんですよね。絶対にどちらかなんです。正確には、ファッションオタクとスキンケアオタクは両立しない。マリコムさんはスキンケアオタクですもんね。やはり両者は相容れないものなんじゃないか。ちなみに、なぜファッションには興味がないんですか?

コム:ファッションは、美や社会的地位、センスの有無なんかを宣言するものだと思っているからですかね。私には宣言するものは無いので、迷惑にならなければいいや、くらいに思っています。同じような理由で、コスメも、メイクアップは興味がないです。スキンケアは好きですね。スキンケアは、閉じられた自分一人だけの時間内にあるので、ファッションやメイクアップには無い自由がある気がしています。

つや:となると、先ほどのように二人称、三人称という視点がスキンケアに出てくると嫌になってしまう?

コム:先ほどビューネくんがスキンケアを擬人化したものだと言いましたが、それに類似して、たとえば美容垢界隈では「お守りコスメ」という考え方があります。お守りを持ち歩いたり、ぬいぐるみを抱いて寝たり、ビューネくんに励ましてもらったり……そういうものとしての二人称や三人称は全く嫌ではありません。

つや:そういえばファッションには「お守りアイテム」って無いですね。どちらかというと「勝負の日に持つバッグ」みたいな方向にいくというか。

コム:コスメは小さくて持ち歩けるからじゃないですか? ファッションでも、ジュエリーなどの装飾品は、歴史的にはもともと呪術に使われていた「お守り」ですよね。ただ、サイズ感に関しては、地域特有の宗教観みたいな限定的な話かもしれませんが。

つや:サイズの問題なのか。ちなみにマリコムさんの「お守りコスメ」は何ですか?

コム:美容垢界隈では色々なタイプの「お守りコスメ」があって、たとえば「これが無いと肌荒れしてしまう」という必需品的な扱いから、ぬいぐるみのようにモノとして愛でている場合まで様々です。私の場合は、「迷ったらここに戻ればいい」という指標のようなものとしての「お守りコスメ」がありますね。

つや:やはり美容液やクリーム?

コム:いえ、マルチスプレーです。先日、つやちゃんは雑談している時に「コスメのためだけの空間を作るからドレッサーは重要だ」と言っていましたよね。そしてデパコスの中には、そうしたドレッサーに置かれるに相応しい魔術的なコスメがある、とも。でも、私はお金持ちじゃないから、プチプラも置きたい。錚々たるラグジュアリーなデパコスたちの中に、ひとつだけプチプラを置いて、全く見劣りしないものは何だろう?とずっと考えていたんです。ありました。キュレルのディープモイスチャースプレーです。私の「お守りコスメ」です。

つや:意外なのが来ましたね!

コム:あれはマルチスプレーなので、顔にも髪にも体にも使えるのですが、その便利さを買っているというよりは、便利さゆえに災害用の備蓄として最適だと思っているんです。

つや:災害用コスメという新たな観点が出てきた。

コム:美や魔術といった観念的なステージとしてのドレッサー上で、プチプラが闘っていけるとしたら、それは実用的な生活の極限にあるもの、つまり命に近いところにあるものになると思ったんですよ。なので、デパコスが並んだドレッサーに、私はキュレルのスプレーなら置けます。

つや:なるほどですね……「命に近いところにあるスプレー」ってすごいインパクトがある。

コム:大仰に言いましたが、普通に使いやすいマルチスプレーですよ。花王が作った合成セラミドに、その働きを助けるユーカリエキスを配合しているので、そこそこ保湿力があります。成分中、DPGだけは人によっては苦手な方が稀にいますが、全体的にはシンプルな低刺激設計と言っていい。炎症を抑えるアラントインも入っていますから、たとえば心身が不安定で肌荒れしやすいような時にも比較的使いやすいです。ただ、エアゾール缶なので、捨てやすさや、SDGsの観点的には微妙かもしれません。そのぶんミストが細かくて使用感が気持ち良いんですけどね。無香料で、素早くシューッと広範囲にかけられるので、たとえば病床とか、小さいお子さんが動き回っているような時でも扱いやすい。色んな人、色んな機会、色んな場に開かれている、という意味でもマルチです。こういうタイプの美もありえますよね。

つや:なんだか欲しくなってきた(笑)。でも本当に意外でした。お守りコスメというと、どんな肌不調でも救ってくれる一発逆転アイテムみたいなものを想像していたので。ちなみに、メイク品のお守りはありますか?

コム:メイクって、ファッションと同じく社会的なものだと私は思っているので、社会の中で自分がどのポジションにいれば良いかがふとわからなくなっちゃうような時に「これを使っておけばとりあえず大丈夫」という、無難というか王道のようなメイク品をいくつか常備しています。それも「お守り」と言えば「お守り」なのかな。でもこういうものは愛してはいないです。つやちゃんは、ファッションでもコスメでも何でもいいのですが、身近なものに「お守り」はありますか?

つや:うーん……特にないですね……でもなぜか手首にヘアゴムをつけてはいる。かれこれ15年くらい。

コム:すごい。それは習慣ですか?

つや:無いと、なんとなく寂しいからかなぁ……。

コム:アクセサリーやジュエリーは元来まさに呪術的な意味合いが強いものだと思いますが、ファッションであるとはカウントしませんか?

つや:どうでしょうね。ただ、外から見えるアクセサリーと、鞄の中にしまい込んでしまうコスメとでは違いがありますよね。

コム:コスメは下着と近いのかな。下着も独特な世界がありますよね。見せるための下着もありますが、見られることを前提としない下着の需要もあります。

つや:なるほど。下着も、空気が介在するか否かという点ではファッションよりもコスメ寄りですね。

コスメオタクという存在

つや:ところで、ファッションオタクは減ってるけれど美容オタクは増えてるのってなぜなのでしょうか。強迫観念的な「キレイにならなきゃ」という意識が高まっているから、が理由だったら悲しいですよね。

コム:その現象が起き始めたのが何年頃なのかを知りたいです。

つや:自分の感覚では2010年代半ばから増えた印象ですね。美容誌でベストコスメ特集が組まれるようになったのが2000年代以降なんですよ。そこから徐々に美容オタクという存在が可視化されはじめて、数を増やしていった。ちなみに、日本にインスタグラムが入ってきたのは2014年です。

コム:まんまそれじゃないですか(笑)。

つや:でも、ツイッターの日本語版は2008年からあります。美容オタクはツイッターにも多いじゃないですか。

コム:自撮りが定着しなければ、美容意識の高まりはあり得なかった気はします。自撮りって、最初は、すごく恥ずかしいものだったんですよ。誰かが自撮りをツイッターなりインスタなりにアップしようものなら、「あの人、自分の顔をネットに上げちゃって、よっぽど自信があるのね」みたいに周囲が陰口を叩く。そういうものだったんです。

つや:そうそう。確かに、とても恥ずかしいことでしたね。でも、見た目に対する意識が上がったのならば、ファッションオタクも増えたっていいですよね。でもあまり増えているようには見えない。

コム:自撮り画像では素材や品質の良さまでは写らないですからね……。だからロゴの話になっちゃう。ロゴは写りますから。あとは定説になっちゃいますけど、コロナの影響も大きいですよね。外出しなくなったので衣服費がかからなくなって、スキンケアや美容医療にお金をかけよう、と。私自身をはじめとする、「美容垢新規組」はほとんどそのパターンでした。

つや:コロナで浮上してきた問いの一つに、「化粧は誰のためにしているか」という問題があります。昔は「異性のために」という価値観が根強かったと言われていて、そのあと「自分のため」という価値観が出てきたと。当然ながら、これは第三波フェミニズムの流れが大きいかと思います。

コム:個人的には興味が無い話題なのですが、ただ、「自分のため」って理由は謎だなと思っています。

つや:さっきの「スキンケアは完全に自由だから」という話から察するに、マリコムさんは確かにこの問いには興味はなさそうですよね(笑)。でも、単純にメイクによって自分自身の気分は上がりますよね。あとネイルとかも。

コム:それはわかります。物理的にも、マスカラをつけると目が開きますから、すっきりします。ただ、「気持ちが上がる」「気分が上がる」ということの中には美醜の問題も含まれていると私は思っていて。だって、メイクをして、すっぴんよりも自分がマシだと思える状態になると「気分が上がる」んですよね? それってつまり、すっぴんの状態を誰かから責められているように聞こえます。だから、「気分が上がるから自分のために化粧をする」っていう明るい言葉で、何か暗いものを隠そうとしているんじゃないかと。その胡散臭さが拭えないんです。言い方が悪いかな。

つや:「自分のため」と言いながら、結局は「他人のため」と変わらないのではないか、という指摘は分かります。ただ、美醜の価値基準というよりは、ある世界観を表現できたことによる喜びを「気持ちが上がる」「気分が上がる」と言っている場合もあるとは思う。たとえば、「今日は90年代のグランジの感じにしたいな」と思ってメイクをすることは、美醜の価値判断ではないじゃないですか。それは世界観の構築であり、自分を満足させることと言えるかもしれない。

コム:なるほど。自分が設定した自分だけの目標に向かって勝手に努力をし、勝手に達成して、そこに自己満足を得るみたいなことって、実はすごく大きいことのような気がするので、それを「自分のため」と呼ぶのはわかる気がしてきたぞ。あと、肯定的に語れる側面としては、「こういう化粧をしていないとダメだ」みたいな近い過去にあった社会的抑圧に対するアンチテーゼとして、「自分のためにメイクをする」という考え方もあると思います。まあ、界隈によっては、過去ではなく今も残っている抑圧だとは思いますが。

つや:そうですね。話は尽きませんが初回はこのくらいにしておきましょうか。コスメについての議論にファッションを持ち込むことで、有効な視点がいくつか見つかりました。今回見えたヒントを参考にしつつ、次回はもうちょっとライトなテーマで対話してみてもよいかもしれません。シーズン的にも冬本番ですし、次回はエイジングケアについて具体的なコスメを挙げて話していきましょうか。


all photos by maricom

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