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さよなら、Twitter。

10月の終わり、私は急にTwitterに疲弊した。
そして、その疲弊を自覚した数十分後には、Twitterアカウントを削除した。

私がTwitterをはじめたのは、息子を妊娠したことがわかった時だった。それまでは、もちろん存在は知っていたし、インターネット検索等で知りたい内容をつぶやいている人のTweetを見ることはあったが、アカウント作成には至らなかった。ただ、息子を妊娠したときに、喜びと漠然とした不安とが一気に私の脳をパンパンにしてしまい、これは何か気軽に口コミレベルの内容を情報収集できるツールが必要だと感じて、アカウントを作成した。

アカウントを作成してみると、"ママアカ" "マタアカ"と呼ばれるアカウントはたくさん存在していて、どれもその時の私が知りたい内容をつぶやいてくれていた。とにかく情報を収集したい私は、出産予定日の近い人、出産予定日が私より3ヶ月先の人、6ヶ月先の人を中心にフォローした。そして、妊娠中から産後つい最近まで、このアカウントでのTweetに本当に助けられた。時には、Twitter内でやり取りをして、アドバイスをしあったりすることもできて、本当に支えられていた側面が大きかったと思う。

なのに、だ。
それなのに、10月に入ったくらいから、私を助けてくれていたその場所が、突然ものすごく退屈で、開く度になんとなく重たい気持ちになるようになっていった。フォローしていたアカウントの人たちのTweetが変化したわけではないのに。むしろ、フォローしていた方々のTweetは、私がアカウントを削除する直前まで、どれも有益だった。それでも、どうしても、私はこのアカウントを捨てたくて仕方なかった。

多分、私は、飽きたのだと思う。
変わらないメンツ、変わらない話題、似たような状況におかれた人々の似たような気づき、そしてそれに対する反応。その全てに飽きた。
自分でフォローしておいて、本当に失礼というか、身勝手な離れ方だなとも思うが、仕方ない。私は、そのコミュニティに飽きた。

そして同時に、私は妊婦から母になり1年経って、きっとそれなりに成長して、自分なりの母としての立ち方や歩き方を見つけられたのだと思う。これは、間違いなく、Twitterのおかげ。
Twitterには、当たり前だけど世界中の人が存在していて、それだけの人が存在しているからこそ、もうありとあらゆる価値観が蠢いている。そういう価値観に触れるからこそ、自分が大切にしたい想いやスタンス、行動選択の基準を明確に見つけていくことができた。きっと、Twitterアカウントがないままに子育てをしていたら、私は今の状態になるのにもっと時間がかかったし、もっといろんな不安を抱えていたように思う。子どもの尊厳を守ることができている上であれば、どんな価値観も、他者に否定される理由はない。どんなポリシーを持っていても、自由だ。けど、それでも、「ああ、この考え方は私にはないな・・・私はこう思うくらいなら、こうしたい」と、他者の価値観の中に溺れる環境だからこそ、自分の中にある「こうしたい」が見つけられた。

それから、少し、Twitterの世界に疲れていたのもある。Twitterを開くと、どうしても、見たくもない攻撃的な文章が流れてきてしまうから。それは、その人の家族にだったり、その人の環境にだったり、政治にだったり、他者の価値観に対してだったりする。そういうものに対して、ものすごく感情的だったり、ものすごく意地悪だったりする言葉や文章で自分の想いを爆発させている。Twitterは自分の気持ちをつぶやく場所なのだから、別にそれ自体について何か言いたいわけではない。でも、わざわざ人の負の感情や、悪意に触れなければならない世界観は、私には疲れた。流すこともできるし、もちろんそうしてきたが、そうしてまでこの世界に身をおく必要性が私にはもう無い、と感じたのが、10月の終わりのあの日、だったのだと思う。

Twitterアカウントを削除して、スマホからTwitterのアプリも削除した。スマホを開く度に視界に入っていた、あの水色の鳥のマークを見ることもなくなって、数日が経った。今私は、全く不便を感じていないし、むしろ、不要な繋がりを手放したことで、すっきりした気持ちが継続している。雑音が消えた感覚。また、2年前までの生活のように、必要と感じた時に、必要な情報だけを調べて手に入れるシンプルな生活に戻ってくることができた。
ただいま、おかえり、私。

とはいえ、妊婦生活からこの間まで、助けてくれたTwitterには感謝している。
ありがとう。
もう、戻ることはない気がしているTwitterの世界。
さようなら、Twitter。

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