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森山未來らが死を幻視させ七尾旅人の魂の歌が生の高揚へとつなげる。人間の本質が刻印された傑作。『未練の幽霊と怪物―「挫波(ザハ)」「敦賀(つるが)」―』上演中。

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岡田利規が能をモチーフに、ドイツのミュンヘン・カンマーシュピーレで発表した『NŌ THEATER』のアップデートバージョンとなる、『未練の幽霊と怪物―「挫波(ザハ)」「敦賀(つるが)」―』が、6月5日(土)から、KAAT神奈川芸術劇場<大スタジオ>を皮切りに上演中だ。
本作は昨年、コロナウイルスの影響により、配信作品として届けられ多くの反響を呼んだが、舞台版として蘇る。
この舞台は、“夢幻能”の体裁を取りながら、建築家ザハ・ハディドをシテ(主役)に、彼女の過去の未練を描く「挫波」、高速増殖炉「もんじゅ」の想いを幽霊(シテ)が語る「敦賀」の2本を上演。「挫波」には、太田信吾、森山未來、片桐はいり、「敦賀」は栗原類、石橋静河、片桐が出演。いずれの演目も、七尾旅人が謡手、囃子に当たる演奏者を内橋和久、筒井響子、吉本裕美子が務める。そんな舞台を観ることができたのでレポートしよう。

文 / 竹下力

生者は死者の夢を見る

生者は死者の夢を見る。絶え間なく、そして唐突に。夢の中であなたは死んだはずの誰かと出会う。愛を交わした誰か。あなたの現実に現れた誰か。見たことない未来にいる誰か。出会う場所は、4月の中旬、東京・千駄ヶ谷、あるいは福井県の白木海岸かもしれない。彼らは死への後悔と未練を語る。慰めようとしても彼らとの対話はできない。生と死には断絶があるからだ。あなたはただ黙ってお話を聞いて彼らを見つめるだけだ。

目覚まし時計のベルが鳴り、ベッドから起き上がるとあなたは涙している。でも、何に涙をしたのかわからない。どうして泣いたのかさえ。感じるのは漠然とした死の香り、消えてしまう夢の欠片。生きているがゆえに感じることができない死者の世界。それをあなたは知りたいと願う。

多くの先人たちは不透明な現実から死という目に見えない世界を幻視してきた。死者を蘇らせること。彼らと語り、彼らに想いに馳せる。死者に魂に触れることは生きる人間にとっての飽くなき願望であり希望だった。もし、自分が死んでしまうのなら……それは自己の探求につながった。今作のカンパニーは、そんな表現を可能にする能の形式を取り入れながら、現代的な作品として提示した。今作が生み出した限りなく力強いファンタジーが織り交ぜられた本作は、今年度の演劇界において燦然と輝くだろう。

そしてとても危険な舞台だ。観客は安全ではない。なぜなら担保となる物語に観客は守られていないから。能の形式を揺さぶりながらも頑なにそれを守る禁欲的な姿勢はカタルシスを与えない。物語は定型を守るけれど徐々に逸脱し、カオスとなれば、お話の入口と出口を消失させる。だからこそ、観劇後に訪れるひんやりとした死への予感は、生への渇望と転嫁する。私は生きたい。けれど、あなたはいつか死ぬ。

「人間とはこうあるべき」という姿勢を拒否することによる生への懐疑が、死の世界を眼前に浮かび上がらせる。感動したのは、カンパニーで役割を与えられた人たちはみんな、有機的に絡み合い、やがて一筋の光を見せることで“生と死の境界線”をリアルに可視化してくれること。でも、その光はかぼそく、やがて消えてしまう。死を幻視しようとする誘惑は、発熱した絶望になるけれど、それを受け入れたとき、人間の生は肯定され、生きながら死んでいくことの確かさを実感できる。死に近づけば近づくほど生きていることを感じることができる。そんな複雑さが今作にはあるけれど、答えはひとつだけ与えられる。私は生きている、ということ。

森山未來の圧巻の身体性

悲運に見舞われた建築家のザハ・ハディドをシテ(主人公)に描く『挫波(ザハ)』から始まる本作。能でいえば本舞台の後座と思しき場所に囃手である内橋和久、筒井響子、吉本裕美子という演奏者が座る。観客席の右手、地謡座のような場所に謡手の七尾旅人。舞台は内橋和久が演奏するダクソフォンの音をバックに、ワキ(脇役)である観光客(太田信吾)が登場し、物語の背景を話すことで始まる。やがて、シテである日本の建築家(森山未來)と出会う。そしてアイ(進行役)である近所の人(片桐はいり)とのやりとりから、東京オリンピックのため、新国立競技場の設計者としてコンペに選ばれたのに反故され、間もなく死亡した建築家のザハ・ハディドの未練が浮かび上がる。彼らは、そこにあったはずの現実、ひいては起こったはずの過去を明らかにしていく……。

観光客役の太田信吾は、役を人形つかいのように操りながら、決して近づくことなく、遠くになることもなく、程よい距離感で演じる。ちょっとした願望の言葉を淡々と語り、舞台の背景を説明しながら、岡田演出特有の言葉の意味と一致しない身体の運動をゆっくりと披露する。やってきては去っていく記号性の高い人間として、さして意味もなさげにそこにいるのに、実在する感覚は確かにある。なんとなく佇んでいるのに、そこにはいないという塩梅が絶妙だった。

『挫波』『敦賀(つるが)』で近所の人役の片桐はいりは、どこにでもいる近所の誰かでしかない、匿名性の高い人物をユーモアたっぷりに演じた。言葉の抑揚はあるけれど、誰かに訴えているわけでもない。コミュニケーションはねじれながらメビウスの輪となって、生者も死者も答えのない迷路の世界へ迷い込ませる。彼女の身体性は言葉と行為が近接していて、登場人物の中でも異物としての役割を担い、死と生の世界が並列になった違和感を伝えながら、感情の起伏を丁寧に表現。役は無味乾燥としているのに、“片桐はいり”というシグネチャーは刻まれてしまう。いつ見ても手練れで上手だ。

シテ・後シテである日本の建築家およびザハ・ハディド役の森山未來は文句なく圧巻。死者として未練を語れば、寂しげな憤怒の舞を踊り後悔にふける。感覚を研ぎすまして感情を表現し、歌い、嘆き、死者の世界をメタフォリックに体現する様に悲哀のオーラが見える。骨格は歪み筋肉が隆起する。死に有機性を持たせる。彼のダンスは滑らかで、時にぎこちなく、コンテンポラリーであり、空間を塊として捉え、質量感があって感情が胸に突き刺さってくる。取り戻せない過去を喰らい尽くすように獰猛で猛々しいときもあるのに、現実を生きる人々の夢と同一化して儚くもある。悔恨と未練が同居しながらも、決して自己憐憫ではなく、役に近づきすぎず、己の言語と身体のみで死のありかを劇場の四方八方に撃ちまくる弾丸のような迫力ある芝居が素晴らしかった。

『挫波』は、運命に弄ばれ、翻弄された人間の生々しいまでの悔恨と、それでもそれを否定し、己の意義を肯定しようとするアンビバレンツな感情の揺らぎが波のように寄せては返す。死の世界は、条理もなく、ただの痛みでしかないと感じさせるのに、凝り固まった未練が癒される瞬間が訪れる予感を抱かせてくれる。死を感じることは生きることの贖罪でもあるのだ。

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石橋静河のメランコリックな美しいダンス

続いての『敦賀』では、アトムス・フォー・ピースの名の下、平和と無限の進歩の象徴として奉られたエネルギー、原子力の意味が問われる。1985年の着工以来、巨額の資金が投じられ、ついに一度も稼動することなく廃炉となった高速増殖炉「もんじゅ」。それを見学に来た敦賀の浜を訪れた旅行者(栗原類)と波間に佇む、波打ち際の女(石橋静河)との対話、そこに近所の人(片桐はいり)が加わることで、「もんじゅ」が自然化し、忘れ去られた即物的な“モノ”として描かれことよって、悲哀が生々しく劇場を支配し、過去と現在の歪みが露わになる。

ワキであり旅行者役の栗原類は、動機の意味性さえ薄れた現代人らしい若者を、役としてではなく、自然体に語っていた。役になるわけでもなく、役を引き寄せるわけでもない。現実にいる観光客としてそこにいる。私小説風の趣があったし、身体の動きを極力抑え、とりあえずの傍観者として屹立していたが、佇まいに清々しいリリシズムがあった。

シテ・後シテの波打ち際の女および核燃料サイクル政策の亡霊役の石橋静河は、空虚さを悲しみにコミットメントさせて、そこにいることの諦念さえ表現し、痛々しさも身体から滲み出している。彼女も役を演じているのではなく、腹話術の人形を操るように言葉を喋り舞う。『挫波』の森山とは違い、後悔の念よりも、忘れ去られた過去への郷愁さえ感じさせるメランコリックなダンスが美しい。怒りも後悔も通り越して、消え去ろうとするのに消え去れない、寂しい自分を茫洋と眺めている。瞬間風速的なインパクトよりも、普遍的な魅力を携えたダンスは素晴らしかった。一度、住み着いた亡霊は二度と消えることはないのだ。

『敦賀』では、本来あるべきはずの希望は潰え、残ったのは遺物だけという、生存の悲しさが舞台に漂っていた。感慨もなく時間だけが過ぎていく“死そのもの”が持つ息苦しさを劇場の中に押し込め圧縮し、死が持ちうる重力を観客の体に感じさせた。

七尾旅人の死者の言葉を生の道標にしてしまうファンタジックな優しい歌

囃手である内橋和久、筒井響子、吉本裕美子らの演奏は、ダクソフォンやエレキギターといった楽器を巧みに操り、ペダルを駆使してエフェクトをかけて音を歪ませ、プログラミングされたシンセの音も使いながら、能にある即興的で普遍的な音を再現しつつ、能へのオマージュを捧げながら本作ならではのドラマを作り上げた。幻想的で幽玄だけれど、メロディーというより劇空間に生み出されたテンションを音でつかみとる即興に近い音楽で、舞台を成立させる大切な要素として各々の楽器がきちんと鳴っていたし、テンションを操りながら時にはドラマティックに、静謐に表現していて見事だった。

謡手の七尾旅人の歌は筆舌にし難いものがあった。死者の後悔や未練を現出させ、答えなき感情として、観客の胸を揺さぶる。死者の声を現実という無限の荒野に解き放ち、生の道標にしてしまうファンタジックな優しさが横溢していた。声が揺らいだかと思えば張り上げ、観客の感情を動かしながらも、死という無限の静寂を表現する。
彼は、状況を説明する役割も、役の心情も、あらゆる役割を歌で表現し、舞台に深みと陰影を与えていた。森山とのデュエットには深い悲しみと悔恨が宿り、石橋のダンスを支える歌には、死してもなお消えることなく存在しているという悲しさを、美しいファルセットやスキットで聞かせてくれた。俳優に寄り添いながら、己の役割をまっとうする素晴らしい謡手。
後シテの舞を司る歌は、痛みの中に優しさ、憎しみの中に愛、醜さの中に美しさ、アナーキーの中に法を注ぎ込み、カオスを生み出し空間を占めていく。感情にグラデーションを与え続け観客の心を解き放ち、舞台に宿る根源的なリアリティーを抱かせてくれた。彼の作品の『911FANTASIA』『兵士A』で表現される歌は、無限大のファンタジーとして生を肯定するけれど、今作でもその感覚を存分に味わうことができる。

岡田利規の絶対値の大きさ

作・演出の岡田利規は、彼の作品に通底している語るごとに意味性を逸脱していくような脱臼した台詞、言葉と一致しない行為のズレから生じる絶え間ない“ダルさ”を使い、生と死の狭間のズレと重ねることで、見えない存在が見えてしまう境地に至る必然性を表出させ、生と死が混在するフィクションを目眩として表現した。さらに、固有名詞を多用しながら言葉に重きを与え、行間や字間にメタファーを込めて、力強いポエジーを生み出す。身体に、心に直接訴える、感覚的な舞台に仕立てた手腕に感動する。

岡田利規の絶対値の大きさに驚かされる。今作は、世に出てしばらくの間、すべての木々がなぎ倒され、あたりには草一本も生えていないのではないかという力強さに満ちていた。能の伝統を受け継ぎながら、創作の気力と、演出の力、作家独自の持ち味が極限のレベルで重ね合わさって、まさに「知情意」が揃った出来栄えとなっている。こんな舞台はそうそうお目にかかることはないだろう。今作は、能という構造や、生と死、そこに含まれる思想や現実を並列に並べながら、前人未到の宇宙的な空間に昇華した作品として今後も語り継がれるはず。

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あなたはあなたのままでいれば強くなれる

死者は何を想い、死んでいるのだろう? 死者は完璧なのだろうか? 死者はいつまで死んだままなのか? 死者は悩み、泣くのだろうか? 死者は語るすべを持たない。生は言葉を振動させて行為に結びつくけれど、死は言葉をひたすら沈黙させる。

それでも、舞台を通して蘇ったフィクションとしての死者の言葉は、生という行為に亀裂を走らせ、生きること自体をむき出しにする。それは生きることに対する批評であり、岡田自身の現代への批評でもあるからだ。
といっても、誰もが楽しめる要素があちこちに散りばめられているし、遊び心もある。そして力強いアフォリズムさえある。
「あなたはあなたのままでいれば強くなれる」ということ。死者を夢見ることを恐れないでほしい。そして死者の語るべき言葉に耳を傾けてほしい。そうすれば面々と受け継がれてきた歴史と悠久の時間の中に、あなたのための“居場所”があるはずだ。

我々の生きる現実は歪み、矛盾を露呈させながら、それでも正しさが求められ、間違いとして現れてしまう悲しい世界。そうして人はたえず揺らぎながら生きている。死してもなお揺らいでいる。だからこそ、その揺らぎのなかで、へこたれ、傷ついても、懲りずに前を向いて未来に広がる無限の荒野へ歩いていこう。そのポジティブなメッセージを受け取ったとき、あなたは柔らかくしなやかな人間の本質を、あなた自身のすべてを見つけることができる。

東京公演は、6月5日(土)から6月26日(土)まで、KAAT神奈川芸術劇場<大スタジオ>にて上演される。また、豊橋公演が、6月29日(火)から30日(水)まで、穂の国とよはし芸術劇場PLAT 主ホールにて上演。兵庫公演が7月3日(土)から4日(日)まで兵庫県立芸術文化センター 阪急 中ホールにて上演、千秋楽を迎える。

KAAT神奈川芸術劇場プロデュース
『未練の幽霊と怪物―「挫波(ザハ)」「敦賀(つるが)」―』

【東京公演】2021年6月5日(土)~6月26日(土)KAAT神奈川芸術劇場<大スタジオ>
【豊橋公演】2021年6月29日(火)〜30日(水)穂の国とよはし芸術劇場PLAT 主ホール
【兵庫公演】2021年7月3日(土)〜4日(日)兵庫県立芸術文化センター 阪急 中ホール

作・演出:岡田利規
音楽監督:内橋和久
出演:
能「挫波」:太田信吾、森山未來、片桐はいり
能「敦賀」:栗原類、石橋静河、片桐はいり
謡手:七尾旅人
演奏:内橋和久、筒井響子、吉本裕美子

オフィシャルサイト
オフィシャルTwitter(@kaatjp)

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