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魂開き(たまびらき)⑪ ~最終回~

このエッセイは、わたしが自身の魂をひらくために描いている一枚の絵について、それを完成させるまでの心の移り変わりを記録したものになります。魂をひらくための絵を描こうと思うに至った経緯については『魂開き(たまびらき)①』をお読み下さい。

いよいよ最終回です。絵の謎解きなども入っているので長くなりますが、最後までお付き合いいただけましたら幸いです。

4月2日、10日目の加筆。翌日いっぱい使っても終わらないかもしれないと思っていたのに、唐突に終わりが訪れた。

まだいくらでもイメージは浮かんでくるのに、急に手が動かなくなった。絵から閉め出されたような、呪縛から解き放たれたような、不思議な感覚だった。

こんなにはっきりと、それも突然、終わりが来たのははじめてだった。

正直、ほっとした。描いているあいだは終わりが見えなくて、もしかしたら3日を超えても延々と描き足してしまいそうな気がしていたから。

そして完成したのがこの絵。

達成感はあったものの、描き終えた直後はどちらかというと途方に暮れていた。

『一ヶ月間、筆を握っていない時間も含めて、全力でエネルギーを注いで作り上げたものがこれなのか。これでよかったのか』
『わたしは結局、何も変わっていないんじゃないか』

疑心が胸に渦巻く。ここからどこへ行けばいいのかわからなくて、しばらく放心したまま完成したばかりの絵を眺めていた。

ずっと同じ一点を見つめ続けたせいか、だんだん目に見える世界の色彩がおかしくなってきて、壁が光ってぐるぐる回ったり、絵が白く溶けたりし始めた。変性意識に入った時によく聞こえる耳鳴りに似た音も頭の中で響いてる。

しばらく起こるままに身をまかせていた。
気づいたら、胸のざわつきが消えて静まり返っていた。自分が壮大な物語の主人公になったようなワクワクした気分はなかったけど、心から一切の不安や焦りが払われた感じは、二月に『魂で生きる感覚』になった時と同じだった。

やっぱり、やっぱりこの絵にはちゃんと魂をひらく力があるのかな、と少し気を持ち直した。

よく観察すると、鏡うつしのように反射が止まらなくなるような絵だ。四方八方に飛び回る光を追いかけるうちに意識が引っ張りあげられる。

『理解などされてたまるものか。
わたし自身でさえ、人の意識を保ったままでは到底理解しえないのだから。』

ふいにそんな言葉が降りてきた。
先月、師匠的な方からいただいた「周りに理解されないくても気にしなくていい」という言葉が思い出される。

そうか、理解されなくていいのか。
人の理解の範疇におさまろうとするから、窮屈になって苦しくなるんだ。
そう思ったら魂が解き放たれた気がした。
誰にも理解できない、誰も知らない道を行くしかないのだ。この魂は。

誰だってその人にしか生きられない特別な道を行くものだけど、その中でも特に、わたしの生は、それを構成するパーツも組み合わせも何もかもが特殊すぎる気がした。
だから、基本的にそのまま参考にできるものがない。成功モデルみたいなものがことごとく当てはまらない。
自分でゼロから生み出していくしかない。よく、「無から有を生み出す人」と言われるのだけど、それがないと生きていけない設計になってるんだ。

少しずつ見えてきた。
この絵は魂で生きている時の私自身の姿をうつしたものなんだ。
だから、眺めていると本来の自分の在り方を思い出せる。

そういう目でこの絵を眺めるていると、やっぱりわたしは余白なのだな、それだけが確かな真実なのだなという気持ちになった。
余白とは、空間であり、空間はそこに入ってくるものによって存在の意味が変わっていく。商品が置かれればそこはお店に、作品が展示されれば展示会場に、お化けが入ればお化け屋敷に、何もない時はただの空間になる。

余白はあくまでも臨時の場所であって、ずっと何かで埋められるものではない。だから、時々、そこにあったものが取り除かれる。もとの何もない空間を思い出す瞬間がくる。

過去、わたしが迷うのはいつもそのタイミングだった。
それまで『これがわたしだ』と思って続けてきたものが、突然、取り上げられる。昨日まであった情熱が嘘のように消えて、心はもう次の興味に移っている。
だけど、ここでやめてしまったら実りがない。せめて何か実るまではこっちも続けていこう。そうやって、ただの空間に戻ることに抵抗するから、エネルギーが分散して、次の新しいものを受け入れる容量も減ってしまう。
もともと一点集中型なのに、エネルギーが分散させてしまうせいで持ち前の性質を発揮できない。

思えば、この三年間、そんなことばかりを繰り返していた。

だから、今、何かを変えるとしたら、『いつでもただの空間に戻れる土台』を作ることだと思った。

作家だと名乗ってしまったら、文を書かない時期のわたしは透明になってしまう。架空の神社の神主だと名乗っても、絵を描くことに集中している時にはその肩書きが合わなくなる。
ただの空間でいる時、切り替えの時、名乗り方がわからなくなってしまう。自分という存在を伝える言葉を失ってしまう。

だけど、魂の姿だけは変わらない。
わたしにとってはそれが『この世界の余白』だった。

三年ほど前、『わたしはこの世界においてどういう立ち位置なのだろう』と、それまでの自分をふり返った時に、降りてきたのがこの言葉だった。

その時から肩書のように使っていたのだけど、今になって、これはもう肩書の域を超えてわたしの魂の在り方そのものを表しているのだと気づいた。

『この世界の余白』という軸を打ち立てて、余白としての自分を伝えていく。それがわたしの生の基盤。
絵を描いていようが、タロットをしていようが、それは活動の一部にすぎない。
余白としての自分を伝えていけば、次々にやることが変わっても、相手の中でわたしという存在が途切れることはない。余白であるということだけは変わりようがないのだから。

これが、この絵を描き上げたことで得たもの。見つけたもの。回収したもの。

魂で生きる感覚を思い出する作業は、魂本来の生き方、姿を思い出す作業でもありました。

ここからは、余白としての基盤を整えつつ、しばらくは人の魂をひらく絵を描いていこうと思います。

一ヶ月間、絵が完成するのを見守ってくれた方々、ありがとうございました。

いつもサポートありがとうございます。 『この世界の余白』としての生をまっとうするための資金にさせていただきます。