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さようなら、ハーゲンダッツ

『古事記』の登場人物の中から一番友だちになりたい人を選ぶなら、ダントツでヨモツシコメを推したい。

死んだ妻イザナミから逃げ出したイザナギが髪飾りを投げるとぶどうが、櫛を投げるとタケノコが現れる。するとたちまち任務を放り出し、それらにかじりついてしまう、愉快な追っ手。それがヨモツシコメだ。
世の中には仕事(=イザナギを連れ戻すこと)よりも大切なことがある。

自分が大切だと思うことを大切にすることは、とてもとても大切なことなのだと、ぶどうを貪る彼女の背中から学んだような気がする。
ま、単に食い意地が張っているだけとも言えるんですけれども。

中学生くらいの時に『古事記』の現代語訳を読んで以来、私はすっかり彼女のファンである。
イザナミから厚い信頼を寄せられているにもかかわらず、それをやすやすと、しかも悪気なく裏切っちゃうヨモツシコメ。そのチャーミングな清々しさが、たまらなく眩しい。

私のとても仲のいい友だちのひとりに、「食べたい時に食べたいものを食べる」と思い定めている友だちがいる。
つい先日の土砂降りの日に、彼女は私の引越し祝いとして日本酒の一升瓶を携えて、しかもなぜか傘も持たずに私の家まで遊びに来てくれた。
お惣菜でも買おうと一升瓶を持ったまま二人でスーパーをぶらついていたのだけれど、彼女は「今は餃子の気分ではない」「唐揚げも、なんか違うかも」と言い、結局タレ付き肉だけ買って家で調理することに。
私にはできない芸当だ、と内心舌を巻いた。

彼女は食べたいものが思いつかない時、食事を欲していない時、平気で何食か抜くことがあるらしい。以前書いたことがあるけれど、一緒に暮らしていた私の従姉も、彼女と同じタイプである。

それにひきかえ私は、と振り返り呆然とする。

普段生活を送るなかで、心から欲したものを口にすることはいったいどのくらいあっただろう。
本当はヨモツシコメみたいに欲望に忠実に生きたかったはずなのに、私は自分の身体の声にあまり耳を傾けることのないまま食べものを食べたり、食べなかったりしているように思う。
朝が来ればなんとなく白湯を飲むし、昼になればあまりお腹が空いていなくてもとりあえずご飯を食べる。

夜中に空腹を感じても、その欲望を無視して無理やり寝てしまう。
そして基本的には毎日毎食、米・納豆・豆腐を食べ続ける。
そんな生活に取り立てて不満はないけれど、毎食を食うか食わないかというところから全神経を集中させて考える彼女たちに、強烈な羨ましさを感じる時がある。

とはいえそんな私でも、何ヶ月かに一度「今日は絶対に焼き魚が食べたい!!」「今こそハーゲンダッツを食べなくてはならない気がする!!!」などと欲求に突き動かされてスーパーに走ることが、ほんのたまにだが、ある。
ちょうど3ヶ月前が、そうだった。


3ヶ月前の私は、めちゃめちゃハーゲンダッツを欲していた。なんだかよくわからないけれど心身ともにどろどろにくたびれ果てていて、とにもかくにも栄養があっておいしいものを渇望していたのだ。
帰りの電車に揺られながら「絶対にハーゲンダッツを買って帰るぞ」と貧乏ゆすりをし、閉店ギリギリのスーパーに駆け込んでダッツを手に取った、ところまではよかった。
そこでふと、


「こんなでくのぼうが一丁前にハーゲンダッツなんて摂取してしまっていいんだろうか、いやいいわけがない


とむやみに反語を繰り出してくる卑屈な貧乏性が頭をもたげた。私にはダッツなんて、尊すぎる。
気がつけば私はハーゲンダッツ(バニラ)とスーパーカップ(紅茶クッキー。特売で69円)とホイップクリーム(同じく特売)が入った袋を下げていた。

私はダッツの神々しさを薄めるべく、適度にぬるまったそれらをボウルにあけて、「ねるねるねるね」よろしく練りに練った。ハーゲンダッツと、かの大衆的ラクトアイスと、植物性油脂の夢の共演。
今ひとつそそられない、悲しいトリオである。

そうしていい感じに安っぽくなったところで、自分の身体が本当に欲していたものから遠く離れてしまったことに気づいたが、もうどうしようもない。


そこそこ後悔しながらも、まぁ原料の3分の1はダッツだからと自分を慰め、どろどろの乳製品を恭しく豆腐の空き容器に移し入れて、冷凍庫にそっと収めた。

翌朝起きて冷凍庫を開けて少し迷って、まだ食べなくても大丈夫だと判断して、会社に行く。
深夜にまた覗いて食べようか少し悩んで、きっと今以上にこれを必要とする時が近いうちにくると思い、冷凍庫の扉を閉じる。

次の日も、その次の日もと繰り返しているうちに、私をどろどろに苦しめていた懸念事項は一応解決した。
するといつしか冷凍庫を開ける習慣もなくなり、そのまま3分の1ダッツは存在感を消していった。


そんな日々から、およそ3ヶ月。
またしてもどべどべに疲れた私は、会社帰りにスーパーに寄ってコンニャクをカゴに放った。
集中してコンニャクにうんと細かく包丁を入れることが、最近のストレス発散だからだ。
このコンニャクに、七夕祭りでよく笹に吊り下がってる紙飾りみたいになるまで刃を入れ尽くしてやろう。
ふふ、ふふふ。

とはいえコンニャク(税抜き39円)だけレジに持っていくのはさすがに気が引ける。ぶらぶらと普段足を踏み入れることはない高級アイスコーナーを通ったら、不意に3分の1ダッツの姿が頭をよぎった。
手帳を見返して、あれから3ヶ月もの月日が流れていることに呆然とする。

……食べなくっちゃ
かつての私が祈るように、拝むように、毎日開けていた冷凍庫を、久しぶりに開く。

3分の1ダッツは、6個もあった

豆腐とダッツとスーパーカップの容器に入った、豆腐でもダッツでもスーパーカップですらない、冷凍固形物。

小分けにすればするほどハーゲンダッツの神聖さが薄まると思ったのに。
何度も食べられてお得だと思ったのに。

今となってはその姑息な真似が忌々しい。なるべく早く、冷凍庫の風味が移らないうちに、食べきらねばならぬ。
とりあえずひとつ取って、スプーンを入れてみる。固い。

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仕方なく、折り紙で七夕飾りを作りながら溶け出すのを待つ。

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↑わりと気持ち悪い感じになってしまった七夕飾り


ようやく食べやすい柔らかさに溶けた3分の1ダッツを、ひと匙すくって口に運ぶ。

悲しいことに、ダッツにもスーパーカップにも似ていなかった。
なんかもう、ただの乳臭い氷だった。
とはいえハーゲンダッツらしき高級感のある風味は少しだけ残っていて、やはりアイス界の王者だと感心する。

ダッツへの執着が弱まった今となっては「この微妙さをみんなに伝えたろ」で済ませられるけれど、3ヶ月前の自分がこれを食べていたらたぶん本気で泣いていたと思う。
ダッツを冒涜してしまったことへの後悔と、自分のみみっちさが生み出したキメラがあと5つも残っていることへの絶望。
今がそんな精神状態でなくて、本当によかった。

これは己の食欲を蔑ろにすることが招いた悲劇だ。3分の1ダッツは、下手に日和って身体の声を無視した罰だ。

食べたい時に食べたいものを食べることは、それなりの覚悟と勇気を必要とする。

ヨモツシコメはイザナミにクビを切られたかもしれないし、友だちはいつか栄養失調で倒れるかもしれないし、従姉はUber Eatsの呼びすぎで破産するかもしれない。
けれど彼女たちは、自分の心から欲しているものを、いつも正しく見きわめている。

大きな代償を払ったものの、このアイスから得た教訓もまた大きかった。
もう二度と、ハーゲンダッツに他のものを混ぜたりしない。
そしてそれを、3ヶ月も放置しない。
一度溶かしたアイスは、もう同じ食感には戻れないのだ。

もう、ダッツの眩さに負けない
私だって、食べたい時に食べたいものを食べるのだ。



お読みいただきありがとうございました😆