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ゴキブリブギウギ

シャワーを浴びようと全裸で鏡の前に立ったら、鏡に映った私の背後に見慣れぬ茶色い塊が見えた。眼鏡はすでに外してしまっていたので、目をすがめて振り返る。

隆々と逞しき脚。せわしなく動く触角。

まごうことなきゴキブリだった。
このまま戦闘に突入するにはあまりにも無防備。さりとてゴキの存在を無視して風呂に入るわけにもいかず、とりあえずそっと浴室を出てゴキジェットを取り出した。ジェットを構えて浴室のドアを恐る恐る開けると、もうすでにゴキの姿はなくなっていた。
私はいつ敵襲があるかとビクビクしながら髪を洗い、いつ黒い影が目の前を横切るかヒヤヒヤしながら薄目を開けて顔を洗った。石鹸が目にしみてつらい。
そして身体を拭くのももどかしく浴室から飛び出しドアを勢いよく閉め、ゴキがついていないことを入念に確認してからバスタオルをかぶる。
よし。
一息ついて浴室を振り返り、愕然とした。

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換気のためか安全のためか、ドア下3センチほどが隙間になっているのである。ゴキを浴室に閉じ込めてやったと安堵した2分前の私はいったいなんだったのだ。
喜びが霧散した今となってはもうゴキ退治に力を注ぐゆとりはなく、そのまま静かに布団に身を横たえた。

これまで私は、三浦しをんや岸本佐知子、さくら剛に万城目学のエッセイから、地道にゴキ知識を積んできた。
日々の生活や旅先のホテルについての文章には、なぜかゴキがよく登場する。

追い詰めると飛びかかってくる、噛まれると痛い(けれど滅多に噛むことはない)、鳴く、髪の毛も食べる、水だけでかなり長時間生きられる、数億年前から地球上に存在する……。

そういえば「ゴキブリ」という濁点の響きがよくない、名が体を表しているとはこのことだと書いている人もいた。
その説明に納得しつつも、その理屈で考えると「ブギウギ」や「アボカド」だってなかなかに不穏な響きだと思う。
そんなことを考えていると、頭の片隅で「東京ブギウギ」に合わせてゴキたちがウキウキと踊り出した。これはちょっと……キモかわいい、かもしれない。
そうだ、この調子でゴキとの共存路線を考えていこう。

そもそもまだ発生から一年も経っていない新型コロナウイルスが「withコロナ」なんて共生の道を模索されているのに、人類誕生の時からずっと共にいるゴキに対しては一貫して「antiゴキ」なのはおかしいではないか。いつか「withゴキ」の時代がきたときに、私たちは自分たちのゴキに対する態度をガラリと変えられるのだろうか。そんな時代がくるのかは知らないけれど。

ひょっとしたらゴキ以上に嫌われていてもおかしくないような動物がゴキほどは忌み嫌われていないのも不思議だ。

足が異様に速くて、模様も妙ちきりんに派手で、食事シーンは人間から見ればかなりグロテスクなのに、「あたしチーター無理なの〜」という人に会ったことがないのはなぜだろう。

艶やかな甲羅とサルモネラ菌を持ち、餌と勘違いして飼い主の指にかぶりついたり(これがまたけっこう痛い!)、時折水槽から抜け出して洗濯機の下から急にぬっと出てきて我々を震撼させるミシシッピアカミミガメが「も〜、おばかさん♡」と溺愛されているのはなぜだろう。

他の生物と似通った特徴を持ちながらも、なぜかダントツで嫌われてしまう哀れなゴキ。
わいが何したっちゅーねん!」と泣き崩れる哀愁漂うテカテカの背中に涙を禁じ得ない。

十分に同情した私は、今ならリアルゴキを前にしても「嫌われもんはつらいのォ」と労えるほど慈愛に満ち溢れていた。
よっしゃ、もう大丈夫。
私は「Yes! withゴキ」と呟きながら身を起こし、アイスを取りに立ち上がった。

すると、いるではないか。冷蔵庫の真ん前に。まるで私の向けた憐憫の眼差しに応えるかのごとく、ゴキは凛と静かに佇んでいた。
私はそっとプラごみ袋から豆腐の空容器を取り出すと素早くゴキの上からかぶせ、その下にスーパーのチラシを差し入れるなり容器ごと勢いよく踏み潰した。

ごめん、ゴキ。ついさっきまで共存できるとわりと本気で信じていたのに。
この殺ゴキ衝動は、本能なのだろうか。
そういえば秋田県出身の不動産屋のお兄さんが初めて関東に出てきた時、ゴキブリを見てちょっと感動したと話していた。最初は気持ち悪いとも不潔だとも思わず「これが噂のゴキブリかあ」くらいに思っていたらしい。しかしゴキに怯える友だちを見ているうちに、いつのまにか彼自身もゴキを嫌うようになっていったそうだ。
私がいつからゴキを嫌いはじめたのかは記憶にないけれど、彼の経験から考えるに、きっと周りの声に大きな影響を受けたのだろう。

どんなにゴキブリブギウギを踊ろうともどんなにゴキの悲しみに思いを馳せようとも、一度染みついてしまった「antiゴキ」を「withゴキ」に塗り替えることはもう不可能なのだろうか。
別に積極的に「withゴキ」したいわけではないけれど、問答無用で殺生に走る自分に薄ら寒いものを感じることがある。
幸いにして、私はゴキに飛びかかられたことも噛まれたこともない。
目に見えて実害を被ったこともないのに「アンタの姿を見るだけで不快なんじゃ!」と相手を殺してしまうのは、ジャイアンよりもタチが悪いような気がする。
それでもいざゴキを前にすると、もういてもたってもいられなくなってしまう。
いったい、どうしたらいいんだ。

お読みいただきありがとうございました😆