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逃したロマンスカーは大きい

「10月は祝日がないんだねえ」
と思わずため息をついた9月半ば。
祝日がないなら、有休を取ればええやん!
と、世にも素敵な提案を高らかに放った彼氏と共に休みを取り、湯河原旅行に行くことにした。

せっかくだからロマンスカーの展望席に乗りたいと、少し興奮気味に彼氏は言う。
とはいえロマンスカーの前列は、10時ジャストに申し込んでも予約を取るのは至難の業である。
珍しく意欲に燃える彼氏は根気強く毎週金曜にサイトにアクセスし、前席を狙い続けた。
そしてついに、10月16日金曜の前列二列目の席をゲット。
こうして私たちの旅行計画は、まずまずの好スタートを切った。


出発5日前


雲行きが怪しくなってきたのは、出発5日前のこと。
突然LINEで、天気の週間予報のスクリーンショットと「祈りが足らんとちゃうんか?」とメッセージが届いた。

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普段クールな彼が今回の旅行をけっこう楽しみにしてくれていることにニヤつきが抑えられず、爆速でてるてる坊主を作る。

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褒められた。


翌日図書館で、夏目漱石の『明暗』を借りた。高校の時に現代文の授業で、湯河原が舞台と聞いたからだ。
未完の大作」、「絶筆」。
今までそうした文言が紹介に含まれている本を読もうと思ったことはなかったけれど、湯河原快晴の願掛けのために今こそ読まなくてはと思った。
正直私は、未完の本、それもけっこう分厚い未完の本がとても怖い。
同じく未完のドストエフスキー著『カラマーゾフの兄弟』も、あらすじすら知らない。
なんというか、いつ終わるのかわからない本を読むのって、すごく不安になりません?
もし物語の最終ページが「犯人は、あ」で終わっていてそのあと何事もなかったかのように解説が入っていたらどうしよう。
あるいは、

ここまでが著者による作品です。これ以降は僭越ながら、編集担当者が本作の展開から犯人を推理させていただきます。あくまで一案になりますのでご了承ください。また、より説得力のある結論を導き出した方がいらっしゃいましたら、ぜひ編集部までご一報ください。

とか注意書きが入って次のページから身もふたもない推論が繰り広げられていたらどうしよう。
そんな恐怖から、今まで手に取ることはできなかったけれど。
最終ページをバッと開いてしまいたい欲望を懸命に押さえ込みながら、ついに少しずつ読み始めた。
の話だった(ネタバレではない)。

出発3日前


彼が再び週間予報のスクリーンショットを送ってくる。
てる坊パワーも『明暗』効果もガン無視の、相変わらずの雨模様。

まぁ、あくまで私たちの目的は温泉だからと慰め合いながら、それでも諦めきれずに二時間おきに天気予報を調べ続けた。
頑として動かなかった傘マークが重い腰を上げたのは、旅行前日だった。
出発日の金曜が曇り、翌日は変わらず雨。
うっしゃぁぁ!
どちらか一日でも雨に降られないだけで、気持ちはかなり軽くなる。小躍りしながら荷物を詰めた。

当日1日目


そして迎えた旅行日、初日。
てる坊や『明暗』の真の力が発揮された。ピカピカに晴れていたのだ。
浮かれた私たちは空を見上げてはデレデレするという、そこはかとなくヤバい雰囲気を醸しながら新宿駅に向かった。

そういえば、ロマンスカーの乗車券を買わにゃいかん」と彼が言う。
ロマンスカーに乗ったことがないのでよくわからないのだが、ネットで勝ち取った特急券だけでは乗車できないらしい。
とりあえず案内所で聞いてみようと窓口に並ぼうとした時、「運休」という二文字が視界をよぎった。
ギョッとして急停止すると、「16日 本日のロマンスカーは運休です」と立て看板に走り書きしてあった。
なぬぃーー?
彼氏はものすごい形相でスマホを操っていたが、目が合うと泣きそうな顔で首を振った。
ダメ、らしい。

旅行の楽しみの半分がパァやないか…」と肩を落として彼が呟く。

仕方ないよ。次回乗ろう。

気持ちを切り替えて小田原・熱海行きの湘南新宿ラインのホームに並ぶべく、すっかり石化してしまった彼の手を引く。

せめてもの贅沢でグリーン車に乗ろうと彼が言うので、グリーン券を追加で購入。

渋谷、大崎、横浜とビル街を抜けて大船で観音像を拝み、茅ヶ崎、平塚を過ぎる。このあたりから民家や田畑が増えていく。

実家に住んでいた時は毎日通っていたお馴染みの景色なのに、彼氏と二人で、しかも初乗りのグリーン車の窓から眺めると、とても新鮮に映った。
国府津、根府川、真鶴と、どんどん景色は自然豊かになっていく。

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真っ青な海を写メろうとするたびに真っ暗なトンネルに入るor蔦が絡まったもっさりした木々が視界いっぱいに広がるため、スマホの画像フォルダには闇と緑の写真がどんどん増えていく。
そして新宿からおよそ2時間、私たちは湯河原駅に着いた。

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めっちゃ木でできてるー!

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手湯もあるー!と駅に対する雑な感想をしゃべりながら坂を下り、不良たちがよからぬ密談をするのにうってつけな雰囲気のアメリカンレストランでステーキランチを食べる。おいしい。

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そのまま坂を下って、「赤い帽子」や「もえぎの」でお馴染みのちぼりスイーツファクトリーで何組かの親子に混じって工場見学をした。
黙々と働く人たちにアフレコしたり、コンベアーを流れるクッキーの気持ちを代弁したり、顔はめパネルに顔をはめて遊ぶ。

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怖い。


そして地元民御用達風のドラッグストアで酒を買いバスに乗って、「理想郷」という名のバス停で降り、

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異様に横幅が広い老舗宿に荷物を置いたのち、不浄の滝を見に行く。

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わぁ〜流れてる〜!」「流れてんな」(滝周辺で交わした唯一の会話らしい会話)と水の激しく落ちる様を淡々と喜び、老男女がひしめく滝下の茶店を横目で見ながら、来た道を帰る。
滞在時間、およそ20分。

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途中で猫に会ったり、コンビニに寄ったり無人の店を覗いたりしながら宿に戻り、いざ温泉へ。

身体を洗っている際に年配の女性たちから声をかけられ、帝王切開の痕を見せられたり夫の悪口を聞いたりしながら一時間ほど湯に浸かり、暖簾前で彼と落ち合う。
見た目ほど熱くなかったな!」と、我々にとっての最大級の賛辞を述べ合いながら部屋に戻り、懐石料理に舌鼓をうつ。
食べたことのない味の料理がたくさん出てきて楽しかった。

ひと息ついたところで、彼を異変が襲う。
暑いのか寒いのかわからんくなってきた
自律神経が乱れているらしい。なぜか彼は、旅行に来るたびに体調を崩す。
45分間借りられる貸切露天風呂までまだかなり時間があったので、彼は小刻みに震えながら布団に入り、しばらくして寝息を立て始めた。
私は彼氏の安らかな寝顔を肴に、ビールを開け、秦野産の日本酒の小瓶を開けた。

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そういえばハワイに行った時は飛行機の寒さで腹をやられ、一昨年行った日光では空気の乾燥で喉をやられていた。
こんなに旅行が好きなのに、こんなに旅行が向いていないなんて。
かわいそうに。

正直私たちは、旅の下準備の段階でそこそこにくたびれていたのだと思う。普段やらないことを一気にやったことによる疲れが、今どさりと押しかぶさってきてしまったのかもしれない。
ロマンスカーの予約やホテル・行き先の選定、天候の確認(担当:彼氏)、てる坊の作製や未完の長編小説への挑戦(担当:私)。

……いや、わたし全然仕事してないわ。ごめんなさい!!!


貸切風呂の予約5分前になったので彼に声をかける。
乗りたかったー…」とまだ呟く。
ちくしょう、罪深きロマンスカーめ。
しんどかったら部屋で寝てなと言うと、彼は「置いていかんでくれ」と大儀そうに身体を起こした。

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貸切露天風呂も、見かけほど熱くはなかった(うれしい)。外もそれほど寒くはなく、ほどよく冷気が肌に当たる。
ちょうどいいな」「ちょうどいいね」と感想を交わし、部屋に戻って布団に入る。

当日2日目


そして翌朝、予報通りの雨だった。
昨日と打って変わって、凍える寒さだ。大浴場で身体を温めて部屋に戻り、荷物をまとめていたら、あっという間に朝食の時間に。
昨日に続いて、部屋にご飯が運ばれてくる。

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アジの干物にあさりのお味噌汁、ネギトロ、かまぼこ、ひじき、お漬物、しらす、そして温泉卵。

米に合うもののオンパレードに大はしゃぎして3杯もお代わりしたら、あとで少しだけ苦しくなった。
宿を辞してユンケルを買い、再びちぼりに向かう。
クッキー食べ放題(一時間605円。ワンドリンク付き)に挑戦してみたかったのだ。

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子どもたちやカップルたちを尻目にまずは全種類を2枚ずつ奪取し勝ち誇って席に戻ると、彼は冷めた目をしていた。

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「お前なぁ…おいしいものはおいしいと思える範囲に留めておくことが、おいしく食べる秘訣なんやぞ
ごもっともです、ごめんなさい。
胸焼けと戦いながらなんだかんだ一時間を食べ抜いて、会社や近々会う予定のある友だちにアウトレット品を買い込み、電車に乗る。

住み慣れた一人住まいに1日ぶりに帰ると、足先から髪の毛の先まで、ぶわっと安堵感に包まれた。

帰ってきたど〜〜〜〜!!!

家を出た時そのままの、卓袱台の上に出しっぱなしの本が、敷きっぱなしの布団が、とても愛おしい。
もしかしたら私は、旅自体ではなく、旅から帰ってきた時の喜びのために旅に出ているのかもしれないとすら思う。
無事に日常に戻ってこられたことが嬉しくて、部屋の匂いが無性に懐かしくて、張り切って家事に取り掛かる。

まずは部屋着に着替える。
2日分の衣服を放り込んで、洗濯機を回す。
床を水拭きする。
玄米を炊く。
芋をふかす。
冷蔵庫に入ったぬか床をかき回して、ゆで卵をかじる。
そして家族や友だちに買ってきたお土産を仕分ける。

ああ、日常だ。勝手知ったる我が家だ。
居心地のよさに身を浸しながら、ひたすらに家事をこなす。
黙々と手を動かしていると、普段は億劫に思っている掃除や洗濯にさえ、不思議な安らぎを覚える。
そんな折に彼氏から「身体はもう大丈夫」と連絡が来て、ホッと胸をなでおろして芋を食べた。

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こんなに家が素晴らしく感じられるなんて、たまには旅行もいいものだ。
しみじみと喜びを噛み締めつつ、てるてる坊主をそっとカーテンから外した。

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お読みいただきありがとうございました😆