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8月だョ! 全員集合

祖母の妹のことを「大叔母(おおおば)」と呼ぶのだと知ったのはまさに私の大叔母にあたる、ひろ子おばさんが亡くなった昨年の8月14日のこと。
その数年前に亡くなった母方の祖母と同じく、すい臓がんだった。余命半年と宣告されてから2年4ヶ月を生ききったおばさんは、お盆で帰ってきた祖母と一緒に旅立つことにしたらしい。それほどに仲のよい姉妹だったのだ。

「大叔母が亡くなった」と説明するとその仰々しい単語の響きのせいか血縁図で見た離れ具合からか、職場や友だちから「あまり近い関係ではないのね」みたいなことを言われる。たしかに一般的にはやや遠い親戚に当たるのかもしれない。
しかし生まれ故郷の秋田からふらっと埼玉に出てきた祖母は、同じくふらりと千葉に出て居を構えた妹家族をとても頼りにしていた。主に遊び相手として。

長期休みに入ると祖母は大叔母や私たちに召集をかけ、庭で花火をしたりデパートでウインドウショッピングを楽しんだ。祖母とおばさんは、一緒に富士山に登ったこともあったらしい。
そんなわけでこの不思議に密な姉妹の付き合いに、私は生まれた時から巻き込まれていた。大叔母は私にとって母方の祖母と父方の祖母と並ぶ、第三の祖母のような存在だった。

顔立ちやしゃべり方は似ているのに、二人の性格と趣味は反対のように見えた。真面目で倹約家で、ショッキングピンクやオレンジなどの明るい色を好む祖母と、「仕事なんて適当くらいがちょうどいいのよ」とか「お稽古もなんでも、楽しくなかったらサッサと辞めちゃいなさいな」と飄々と言ってのけ、シックでシンプルな着こなしを好むおばさん。
二人とも三越が大好きで、三越に行く日は二人とも対極を極めたお洒落をしていたのが無性に愉快で、微笑ましかった。


私が最後に対面したとき、おばさんはかなり元気そうに見えた。
みなさん集まってちょうだ〜い♪」と祖母が生前の口癖を言いながら夢で呼びに来た話をし、「“姉さん、私はまだそっちには行けないわぁ”ってちゃんと断っておいたのよ」と笑っていた。
一度はほとんど抜け落ちてしまった髪もだいぶ元どおりの豊かさを取り戻しつつあったし、よく喋り、よく食べ、いつも通り手厳しくテレビに茶々を入れていた。

そんな様子だったから、すっかり私は油断したのだ。
体調が許せばぜひ見に行きたいと言ってくれていた小岩でのちんどんに来られなくなったと連絡が入ったあたりから、おばさんの容体は急速に悪化していった。ついに入院せざるを得なかったこと、鼻に管が入ったこと、全部母からのLINEで知っていたのに、結局会いには行けなかった。
死ぬ前に会っておきたい、そう思うのは元気な側のエゴかもしれない。私だったら、弱った姿で人に会いたいとは思えない。私自身おばさんの弱った姿は見る勇気はなかったし、向こうも見せたくないだろう。

そう思うとどうしても動けなかった。
第一私は、死期が迫っている人に対して「すぐによくなるよ」的なぬけぬけとした言葉を言うのがとても苦手なのだ。そういうぬけぬけとした言葉は、そういった言葉がぬけぬけしているとは微塵も思わない人、あるいはそのぬけぬけ感を感じていながらも自分の心を押さえつけられるような強靭な心を持った人にこそ、勇気を持ってぬけぬけと発されるべき言葉だと思う。

ぬけぬけと、そんな空虚な言葉はかけられない。

そう思ってしまった時点で、私はぬけぬけに負け、ぬけぬけ側に立つことのできない人間になってしまったのである。
結局おばさんが行きたがっていたちんどん当日には、叔母が我々の演奏姿を動画を撮り、おばさんに送ってくれることになった。

が、いざ動画を撮る段になっても無駄に勤勉な弟はビラをもらってくれそうな人を目ざとく発見し「どうも〜!夏祭りやってます〜」と駆け出してしまうわ、従姉は「あちぃ~」と手で顔を仰ぎながら木陰でしゃがみ込むわ彼氏はふらふらとどこかへ歩いて行こうとするわで「動画撮るっつってんでしょうがぁぁ!!全員集合っ!!」と私が叫び、苦笑しながらぶらぶらと再集合する彼らの太鼓に合わせて東京音頭を吹く、そんなグダグダな動画になってしまった。

おばさんは動画を観て笑ってくれたと叔母がのちに言ってくれたが、彼女の目に映った最後の私がブリブリ怒っているところなのは、少し悲しい。

そして8月14日、水曜日。
会社でお弁当を食べていた時、母からおばさんの訃報を知らせるLINEが入った。
呆然としつつ仕事を進め定時で上がり、まっすぐ帰る気になれなかったので最寄駅のブックオフへ入った。
フジモトマサルの『二週間の休暇』の新装復刊版が売っていて、おおっ、と思ったものの帯に入った「フジモトマサルが遺した名作漫画」というコピーの「遺」の字にうっとなにかがこみ上げてきて、結局買うことができなかった。
ぼんやりと棚を眺め歩いていたら、哀川翔『俺、不良品。』が目に飛び込んできて、なぜか「わはははは」とその場でしゃがんで爆笑してしまった。

いまだにこのタイトルがそんなにおもしろいかはわからないし、正直哀川翔の顔を思い浮かべようとするとサンドウィッチマン伊達さんのモノマネが浮かんできてしまう。Vシネマに出ていた大御所で声が高いらしいこと以上の情報を私は持ち合わせていない。
それなのに気がつくと私は『俺、不良品。』を携えて家のドア前に立っていた。あれから一年経ったものの、まだ開いたことはない。

通夜、告別式までの数日間、事あるごとにおばさんのことを思い出した。
その週の金曜ロードショーは『千と千尋の神隠し』だった。会社近くのコンビニで働くインド系に見えるカップルが、二人の間に携帯を置いてワンセグでロードショーを食い入るように観ていた。

おねいさん、ハクみたいだね?」と声をかけられて、正直おかっぱしか共通点ねえよと言いたかったもののあまりにもキラキラ見てくるのでなにかハクの決めポーズ的なものをした方がよいような気がしてきた。しかしながらあいにく血を流してのたうちまわっているイメージ(龍の姿ver)かおむすびを差し出すシーンしか浮かばなかった私は、苦肉の策で塩むすびをレジに持っていき「まじないをかけたんだ。お食べ」(セリフはもちろんうろ覚えである)と言った。

彼らのけたたましい笑い声につられてふっと笑みを作った瞬間、まるで千尋が乗り移ったかのようにボロボロと涙が流れ落ちた。

ああ、おばさんはスタジオジブリの名作『千と千尋の神隠し』の金曜ロードショーに間に合うことなく逝ってしまったのか。

それが非常に惜しいものに思われたけれど、私はおばさんが映画を好きかどうか、ジブリを好きかどうかさえ知らないのだった。案外「長時間テレビの前にいなくちゃいけないって飽きるわよねえ」なんて言いそうな気もする。
でもそれをおばさんに聞く機会は、もう永久に失われてしまった。
いきなり泣き出した私に、インド人カップルは半分ほど使われたトイレットペーパーをおろおろと差し出してくれた。

一度スイッチが入ってしまうと、それを戻すのは至難の技だ。それからの日々は、外にいてもうちにいてもおばさんと過ごした記憶を強制的になぞらされているような毎日だった。
駅前のケーキ屋を通れば、不二家のちょっとチープな二色のモンブランを食べていた嬉しそうな笑顔が蘇る。
タンスを開ければ「100円には見えない!買い物上手ね~」と褒められたリサイクルショップで買ったワンピースが登場し、通勤途中に吉野家が目に入れば、牛丼やうな丼を持ち帰り従姉と私が暮らす家で騒いだ楽しい休日が不意に顔を出す。
そういえば皇族好きなおばさんを連れて、弟の通う学習院大学で学食を食べたこともあったっけ。

そうした、本格的に体調が悪くなる前の思い出ばかりが、思いがけないタイミングで私の記憶から飛び出してくる。私は必死になって、そこここに見つけたおばさんの生きた痕跡を書き残し続けた。

通夜と告別式で、私と従姉は連日受付を任されることになった。
葬式会場は一歩間違えば結婚式になってしまいそうな、予想外の演出が凝らされていた。子どもの頃や娘時代、ごく最近の旅行の写真などおばさんの生涯を振り返るようなスライドショーが祭壇の両脇に置かれたスクリーンに映し出され、エレクトーンの生演奏が流れるなか喪主であるおじさんは挨拶をし、式のあと私たち親族は棺桶と遺影の前に並んでなぜか集合写真を撮った。

比較的声が大きくハッキリ喋りがちかつ身振りが大仰になりがちな我々親戚連中とは対照的に、葬儀屋の人たちは声量、滑舌、身のこなしすべて、ほどよく暗く、静かだった。いかにも「ご愁傷様です」や「この度はお悔やみ申し上げます」的な言葉が似合う慎ましやかな態度に私と従姉はすっかり感服し、受付中暇ができると彼らの私生活を勝手に推測してコソコソ盛り上がった。

受付業務を無事に済ませた私たちはやや遅れて宴会に参加し、中華テーブルに置かれた大量の寿司や揚げものを囲んだ。
帰り道はパンプスの窮屈さに耐えきれず100均でビーサンを買い、喪服にビーサンという異様な格好で二人並んでペタペタと帰った。

やっと家に着くと、ドア前でGが待機していた。
こんな日ぐらい、空気読んでくれよ。
動転した私は本来ならば我が身に振りかける清めの塩の大半をGに注いでしまった。しかし奴はビクともしない。リアルに敵に塩を送ってしまったことにひとりツボっている間に、従姉はGの存在に気づかぬまま虚ろな顔で香典返しをぶらぶらと振り回しながら家の鍵を開けた。彼女の意図せぬ攻撃に怯んだGは夜の闇へと消えていった。

通夜の際にはるばる秋田から車でやってきたおばさんの妹夫婦が、自宅で作ったという大量の野菜を保冷バッグごと手渡してくれていた。
帰宅後にバッグを開けると半分以上が潰れかけたトマトといくつかのミニトマト、それからパキッとした黄色のパプリカがすっかり常温になった保冷剤とともに入っていた。

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潰れたトマトは食べられる部分と黒くなっている部分を分け、パプリカや生姜、コンソメと一緒に煮込みガスパチョもどきを作った。深夜にスープをかき回していると、心が穏やかに凪いでいく。
市販のものが軟弱に思えるほどしっかりとした皮に包まれたミニトマトを齧ると、切なくなるほどみずみずしい、生命力に満ちた味がした。

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その葬儀の翌日おこなわれた告別式は、おばさんの踊り友だちや遠方からの親戚がさらに集まった。
クライマックスには蓋の開いた棺に皆が群がり、花を棺に入れたりおばさんの顔を撫でたりしていた。私はおばさんが好んだ生姜黒糖飴をひと摑み、口元に置いた。
お疲れさま
そう母がおばさんに声を掛けた。余命を大幅に更新し、最期まで生ききったおばさんにかけるには、その言葉がぴったりな気がした。

「そうだね。おばさんには“お疲れさま”がぴったりだよね」
叔母も力強く言い切った。だから私たち親戚一同は、「ひろ子さん…ありがとう…」と目に頬にハンカチをあてているおばさんの友人たちの向かいで、「おばさん、お疲れ!」「お疲れさま! がんばったよ!お疲れさま!」と口々に、賑やかに、ねぎらった。

霊柩車におばさんの棺桶を乗せる際にも、みんなで棺桶を囲み持って霊柩車に乗せるというちょっと陽気なイベントがあった。
胴上げというか御輿というか、そういう「みんなで一つのものを持つ」という行為には、どことなく愉快さやめでたさが宿ってしまう。
太りすぎてボタンが留まっていないズボンを履いていた祖父は「なんだかこれ、楽しくなっちゃうなあ」とはしゃいで半分ほどズボンがずり落ち、慌てて引っ張り上げていた。

そんな送別会から、はや一年。たった一年で、日本も世界も信じられないくらい大きく変わった。
自由に見舞いに行き、マスクもせずに号泣し、最後はワイワイ送り出せたなんて、今では信じられないくらい充実したお別れじゃないか。

地球や日本の混乱をよそに、今年も死者たちは帰ってくる。祖母とおばさんも、きっと手を取り合って帰ってくる。いつか三越に着ていった、とびっきりのお洒落をして。

お読みいただきありがとうございました😆