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曖昧が生み出す、すれ違い

相変わらず、色々考え、悩み、動き続けて生きております梅崎です。


最近また読書をしています。
月何冊!とか目標立てるのもいいんだけど
今は読みたくなったら読むっていうペースで楽しんでやってます。
面白い本はちゃんと読む時間作るし、これくらいがよい感じ。

はい、そして
今日のテーマは「言語化」。

先日、美容院に行った時にふと気づいたことで
カットやカラーのオーダーの伝え方がまあなんとも下手なこと。
今に始まったことではないんだけど、イメージをそのまま言葉にするのって難しいですよね。みんなどうしているんだろう。できているのかな?
私はなんとな〜くを感じ取って欲しいと誠に勝手ながら願いつつ、美容師さん任せになるのがほとんどです。最後は投げやり。


言語化が全然できていないことの象徴に

「〜な感じ」「的な?」「なんか」


っていう曖昧ワードで逃げる癖がある。

これもね、ちょっと前から気づいてはいたんだけど。よく使ってるな〜って。
仕事の時もそうだし、友達と話していても、こうやってnoteを書いている時も。
質問したいけどどう質問していいのかわからなかったり。

美容院での話は極端な例かもしれない。
色は混ざり合っていたり、光の具合や人によって見え方も変わってくるし、一言で言い表せない特に難しいシーンではあるんだけど
そこでズバッと一言じゃなくても、
ニュアンスだけでも言葉にできたら自分もスッキリするし、美容師さんも私の気持ちを汲みやすくなるんだろうなって。
でも、今自分の頭に浮かんでいるイメージが言葉として浮かんでこない。

そんなことありませんか?

そんな時は
伝えるときに“色“や“形“そのものにフォーカスするのではなく

こんな風に見られたい。とか
こんなシーンにこうでありたい。とか
具体的な真似したい人の固有名詞を出すとか?

色々な角度で伝えられたら、相手もイメージがしやすくなるのかなって。
そう思ったときにそれを伝える能力って、結局


知識次第だな、と。


それらが上手にできる人はやっぱり知識や経験が多い人だと思う。


知識や、言葉の引き出しが多ければ多いほど一つの事象に対して、複数の関連ワードが浮かんできてさらに相手に合わせて、選択までできる。


よくテレビとかで見る「食レポ」なんかがわかりやすい例ですよね。
ただ「美味しい」では伝わらないから
「香りが豊かでおいしい」「歯応えがしっかりしている」「まるで宝石箱や〜」なんてね笑食レポが上手な人は、慣れている人。慣れている人は、知識と経験が豊富。「あの店のあの味に似ている」なんてみんなが知ってる味で言われたらもっとわかりやすい。それも結局知識ですよね。

あとは例えが上手なフットボールアワーの後藤さんとかね笑
具体的なワード一つで受け取る側の人間の想像力が100倍くらいに変わってくると思ってる。


ただボキャブラリーが増えればいいってわけでもないし
知識だけ豊富にあればいいってわけでもない。


思いやりだったり、その人の人間性だったり、説得力が必要ならそれだけのストーリーだったり。もっともっと必要な要素はたくさんあるんだけど言語化が下手な私に今一番足りないのは、知識や経験。それが最近はっきりわかったんです。

「知行合一」という言葉を最近教えてもらったんだけど、知識も行為も分離不可能なわけで、どっちかが欠けてもだめ。どんな知識も行動が伴っていなければ意味がないし、知っているのにやらないのは知らないのと同じ。
そんなことも意識するようになったから、より自分に足りないものがはっきり見えたんだよね。

伝えたいことを、言葉にする。できてそうで、全然できていない。
私は言葉を扱う仕事をしているわけではないから
ラーメンで色々な想いが伝えられたらそれが最高なことなんだけど、


普段から言葉を使っているし、今の時代SNSで発言することも多々あって。
人の使っている言葉を目にして、嫌な気持ちになることってありますよね?
でも、それもきっと本人に悪気はなかったりする場合もあって、誤解の場合もあると思う。だけど、誤解されないための対策もできるはずなんだよね。
そこで肝心なのがそのボキャブラリー。知識。
言葉が出てこなくて、なんか適当に誤魔化したら、すごい失礼な感じになっちゃったりとかあるんだよねえ、、、。

(ただ人間性が露呈されてる場合も、もちろんある。)
(会ったこと無いけど、無意識で出ちゃってるな〜この人。っていうのもある。)


あとは、実際現場でメンバーと仕事をしていく中で
一言で伝わる、わかりやすい言葉が使えないと前も話した通りテンポや間が悪くなるし、良い仕事ができない。だから簡潔に伝える技術が必要だったりする。

ただ、ラーメン屋さん。感覚で覚えることもたくさんあって

例えば麺の茹で時間。

スタッフに指導するときにうちの麺の茹で時間は「2分」と教えられれば教育の仕組みとしては素晴らしいんだけど
麺も生きてる。全く同じ麺を打てたとしても、その日の状態によって茹で時間が変わるわけで、それは感覚で掴んでいかなくてはならない部分だったりする。
でもそうはいっても後輩に教えていかないとずっと一人でやれるわけではない。

じゃあどんな状態のときに、お湯からあげればいいのか。それが時間ではなくて、言葉で少しでも伝えられたら。
そのときに必要なのも、知識と経験。

毎日麺を茹でながら状態を目で見ていたら、
毎日見ていない人より上手に伝えられるのは明白でしょう。

そうそう。私の好きな映画「イミテーションゲーム」のワンシーンでこんなセリフが出てくるんです

「暗号は秘密じゃない。誰でも読めるけど、“鍵“がないと内容は不明だ。」

このセリフにロマンを感じました。逆に言えば、鍵さえあれば誰でも読めるもの。暗号=秘密ではない。この言語化の話にもちょっと通ずるんじゃないかなって。言葉や知識が備わっていれば、正しく伝わる。この場合、知識が“鍵“なんじゃないかなってそう思ってます。


海外の方に接客をするとき、
あ〜これが英語で伝えられたらもっと喜んでもらえるのに、、、
と歯痒く、悔しい思いをしたことが何度もあります。
つまりそういうことなんです。

ただ、そこから必死こいて英語を勉強したというわけでもないという、この記事の説得力が皆無になったところで今回はおしまいにします〜〜〜〜〜。(逃げ足)

今回も読んでくれてありがとうございました〜〜〜〜!

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