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宛て先のない手紙


「自分の〈ことば〉をつくる」(細川英雄 ディスカバー携書)

「活動あって学びなし」は
アクティブ・ラーニングが叫ばれるようになって、言われてきており、
現在でも高校の「総合的な探究の時間」などで実際に起こっている現象だと思う。

高校生の文脈で言えば、
1 活動だけして振り返りが無かったり、
2 教員や指導者に振り返りのスキルが無かったり、
3 振り返りをするにも言語化力がなくて、言葉にできなかったり
っていう現象全体のことであると思う。

そして、もし3の場合は、解決するのはかなり大変だし、一歩ずつやるしかない。令和4年度から2つの高校で、感情ベースと活動ベースの振り返りを1枚のシートで行っているが、それも上記の課題意識を踏まえている。

そしてそれは、僕の分野から言えば、アイデンティティ問題とも直結しているように思う。

「自分」と「社会」と「未来」のあいだにプロジェクトをつくる。
それを他者に説明、つまり「自分」と「社会」と「未来」の言語化をしなければならない。
そんな時にこの本はいいかもって。

~~~以下メモ
オリジナリティは、はじめから「私」の中にはっきりと見えるかたちで存在するものではなく、他者とのやりとりのプロセスの中で少しずつ姿を見せ始め、自分と環境の間に浮遊するものとして把握されるからです。

もっとも問題なのは、この「客観」は、個人の外側にあると思われていますが、具体的にどのようなものかははっきりしないものであるという点です。これは、いわば宛先のない手紙のようなもので、だれに向けてのどのような客観なのかがはっきりしないのです。

本来、評価というものは、評価する人がいて、評価される物・人がある/いるという関係で成り立つものです。

しかし、「世の中ではこうだ」とか「みんながそう思っている」という漠然とした評価になると、その評価主体の立場とその基準がどこにあるのかがわからなくなります。

近代の学校教育は、そうした宛て先のない権威性に気づかせないような制度となってきたのかもしれません。この制度の中でいつの間にか評価の行為主体は、自らの責任を取らないことに無自覚になってしまったということになります。

オリジナリティとは、はじめの「なぜ」からはじまって、「~だから」を経て、「~と考える」に至る、全行程の中から自然と滲み出てくるものだと考えるのがいいでしょう。

「こころ」は、感覚・感情による情緒の部分と、筋道をたどる思考による論理の部分との統合されたかたちで、あなたの中に内在しているのですから、これを外側から見ることができないのは当然のことでしょう。

この内側の「こころ」の一部が、「かたち」としての「ことば」となって他者に伝えられるのですから、他者には自分の「考えていること」のすべてが伝わるわけではありません。「こころ」のほんの一部が間接的に伝えられるに過ぎないのです。

このように考えると、「こころ」だけを追求したところで何もわからないし、「かたち」だけをターゲットとしたところで本質は明らかにならないことになります。両者が相互的な関係にあり、相補的な状況の中でしか問題は解決できないということになるわけです。

自己完結的なエッセイのような文章を「主観的」とし、論文のような検証を必要とする文章を「客観的」と定めてしまったことに大きな問題があると言えるでしょう。

論点はむしろ、主観・客観の問題なのではなく、テーマに関する他者の存在の有無なのではないかとわたしは考えます。
~~~ここまでメモ

「オリジナリティ」と「評価」と「客観」と「こころ」と「かたち」

なかなかのキーワードだなあと。
学校っていうシステムは、いわば「宛て先のない手紙」の訓練ばかりさせられているんじゃないかと。

「評価」を前提にしているにも関われず、評価主体は、その責任を取らない。こうしてその「評価」を得るために、「宛て先のない手紙」を書き続ける。アクティブ・ラーニングや探究的学びの落とし穴は、そこにあるのではないか。

「主体性」や「探究性」などを客観的評価をするというコンペの結果、それに適応していつのまにかそのプロジェクトは宛て先を失う。宛て先を失った個人のプレゼンは、誰にも届かない。そんなスパイラルが起こりつつあるのではないのか。

自分のことばをつくる。
「なぜ~」「だから~」「~と考える」を繰り返すこと。「こころ」を認識し、その一部を言葉という「かたち」へとアウトプットすること。

社会的インパクトのあるプロジェクトなんかよりも、ひとつのプロジェクトに対して、ひとつひとつていねいにことばをつくっていく、紡いでいくことが特に「自分」を知るためには大切なのだろうな。

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