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自律社会のエンジンは心のテクノロジー


半世紀前に予測していた「自律社会」

 このコラム「みらいのミカタ」の背景には、SINIC理論という未来予測理論がある。その未来ダイアグラムでは、今年までが「最適化社会」という世界大転換、そして2025年からは「自律社会」、工業社会以降これまでの社会発展ルートの延伸とは価値観を異にする時代が始まると予測されている。
 では、この予測を打ち立てた60年代末、彼らは自律社会をどのように描いていたのか。プロジェクトメンバーの一人で、当時立石電機の中央研究所長であった山本通隆氏の記事には、以下のように記されている。

この社会に生きる人間は真の変容を遂げていなければならない。ということは、これまでの人類は長年3つの闘争すなわち、自然との闘争、人と人との闘争、そして自己との闘争(B. ラッセル)に対するすばらしい反抗力に負ってきたので、生存のための真の闘争がないような秩序ある世界において人間は哀弱しきってしまうかもしれない(D. ガボール)という危惧があるからである。
超心理学の高度の発逹によって、個人は社会というコントロール・システムからの制約を受けずに、すなわち自律的に行動することが可能となる。価値は新しいものの創造のみに存し、個人は寿命を超越して生きることができる。また超心理現象の鮮明が人間能力の飛躍的な増大をもたらす。そしてより高次の次元の社会として自然社会(natural society)が人類全体の理想境として追求されていく。それまでに超心理現象に対する超技術の技術革新による革新(イノベーション)の一時的混乱が克服されてゆく。また個人間のコミュニケーション(face to face communication)は高度に発達し、以心伝心的なレベルにまで達する。新しい人間革命によって、無知と貧欲に支配された悲惨と残虐の暗黒の世紀から、人間の英知と善意による平和と生命の尊厳の世紀へと大きく変容を遂げ、いわゆる自律社会が実現されるのである。
(原文)

人間の真の変容はあり得るか?

 この記事が寄稿された1969年は、藤子・F・不二雄がマンガ『ドラえもん』の連載をスタートした時期だ。

ドラえもん公式サイトより

 22世紀の未来からやってきたネコ型ロボット・ドラえもんと、勉強もスポーツも苦手な小学生・のび太が繰り広げる日常生活を描いた作品が子どもたちの前に現れた。テクノロジーの助けによって、人間社会には明るい未来が実現するという勧善懲悪のSFストーリーだ。
 自律社会は、人間が真の変容を遂げて、ドラえもんとのび太が遭遇した苦悩が一掃された、悪者不在の社会となっているという仕立ては、本当に来るのだろうか?現状の世界では、そこここで紛争が収まらぬどころか深刻化している。貧富の差も拡大していくばかりだ。
 この自律社会は、思い巡らすことはできても実現しないユートピアではないか。人間の「真の変容」の可能性はあるのだろうか?

「自己超越」へのトランスフォーメーション

 欲求五段階説でよく知られるマズローは、五段階の頂上に「自己実現」を位置づけた。しかし、彼の晩年の主張では、さらにその先に「自己超越」というメタレイヤーを設けていることが興味深い。「自己実現」から「自己超越」へとジャンプすることが「真の変容」ではないかと考えるからだ。
 確かに、SINIC理論で言えば、最適化社会における人間は、高度情報ネットワークとそれらを活用した人間拡張技術のもとに、一人ひとりの希望や適性を踏まえて、個々の欲求の最適な充足を実現できると説明されており、まさに「自己実現社会」の到来が予測されている。

マズローの欲求段階説

 現社会でも、まさにそこに向かいつつあることへの共感は大きく、ここ最近の急激なSINIC理論への高い関心につながっている。
 そうなると、予測時期には多少の誤差が生じたとしても、規範的な未来予測としての「自己超越」に向かうことは、あながち妄言とは言えない。現に、世の中はDX、SX、AXなど、〇〇トランスフォーメーションというネーミングが大流行だ。”X(トランスフォーメーション)”の時代に入っている。

心の理(ことわり)テクノロジー?

 そうなると、「自律社会」も現実味を帯びてくる。「精神生体技術」、さらに「超心理技術」、これらの新技術領域の発展が、次の社会「自律社会」へのイノベーションを駆動するという見立てが現実になり始める。
 では、それらのこころの技術とは、どのようなサイエンスから立ち上がるのだろう。やはり、脳神経科学、認知科学などの領域が注目されるのは間違いない。BMI(Brain Machine Interface脳機械インタフェース)や、VR(Virtual Reality仮想現実),AR(Augmented Reality拡張現実)、ニューロフィードバックなどのテクノロジーに期待が集まるのは確かだ。
 しかし、ルネッサンス以来の近代科学や産業革命の基盤である「物理(もののことわり)」は、意識や情動を扱うサイエンス領域に、そのまま入っていくのは難しそうだ。「心理(こころのことわり)」へのサイエンスのコペルニクス的転回とでも言えそうである。
 そこで、私の学生時代以来の疑問が頭をもたげる。じつは、私は学生時代から心という対象に理を持ち込めるのか?に興味があった。そして、産業心理学の講義に臨んだが、結果は期待に反してとても残念なものだった。
 それが、ずっと尾を引いていて、特に実験系の心理学には批判的な気持ちが離れない。人の心の動きは、理(ことわり)通りになるものだろうか。心の動きとしての心情科学とか感情工学、情緒科学なら、まだいいが、心の理と言われると「はて、そんなものあるか?」となる。心が置かれる環境は様々だし、心の動きも様々だし、理論になり得ないのではないか、それこそ「無理」の世界ではないかと。

人とテクノロジーは一人称複数We 関係に向かう

 また、人とテクノロジーの相互関係(インタラクション)において、これまで両者は独立して「間」が確保されていた。つまり、人間にとって、テクノロジーは三人称(They)に始まり、二人称(You)へと近づいてきた。
 人と隔たる場で作業を代替する設備から出発し、人の近くで協調や補完機能を果たすに至る、これまでのオートメーションの歴史のとおりだ。
 しかし、心のテクノロジーの登場は、両者の「間」を曖昧に融かしてしまうだろう。人とテクノロジーの「融和」だ。そうなると、人とテクノロジーは、二人称の関係から一人称(We)、すなわち「わたしたち」という関係になる。その時、これまでの人とテクノロジーの主従関係も崩れて曖昧、もしくは同志の関係になる。

ヒューマンルネッサンス研究所 作成資料より

倫理工学へのニーズ

 このとおり、これから四半世紀くらいを見通すテクノロジーと人との関係は、かなり新しく劇的に変わってくる。
 心の理を究明していく中では、倫理と道徳の問題も避けて通れない。倫理と道徳は似ているようで違うようだ。ちなみに、哲学者の池田晶子さんは、両者を以下のように区別している。

道徳と倫理の違いとは、単純明快、強制と自由との違いである。「してはいけないからしない」、これは道徳であり、「したくないからしない」、これが倫理である。「罰せられるからしない」、これは道徳であり、「嫌だからしない」、これが倫理である。

(池田晶子『言葉を生きる』ちくまQブックス)

 この他にも、道徳と倫理の違いについてはさまざまな解釈があるが、上記の定義に照らせば、心のテクノロジーにしやすいのは「道徳」。一方、自律社会には「倫理」をテクノロジーにすることが必要と考えられる。
 人間の倫理的な思考、行動への変容を促すような意識のテクノロジーとも言えるだろうか。

心の理とテクノロジーへの期待

 このような自律社会を迎えるための心のテクノロジーは、まだまだコンセプトの定義すら叶わない状態だ。しかし、社会のメガトレンドからすれば、潜在的なニーズは急速に高まっている。
 従来の物理テクノロジーとは異なる発想が必要なことから、開発には社会的な抵抗や障害も少なくなかろう。「スピリチュアル」と呼ばれる怪しさも解消、克服しなくてはならない。しかし、人類が社会発展を持続するには、「自律社会」の方向に進むことが必須であるのもよくわかる。
 先日、東京大学駒場リサーチキャンパスという、研究公開イベントを訪ねた。その中で興味深かった研究開発テーマの一つに、富士通と東大先端研によるVRメディテーションシステムがあった。ゴーグルを装着させてもらったが、いきなり視界は波もなく無限に広がる水面に蓮の花が浮かぶ世界だ。自分自身はその蓮の花の一つの上に乗っている。さらに少し経つと、斜め前方から光輪が立ち上がる。

東大駒場リサーチキャンパスで体験中の筆者

 怪しいと言えば極めて怪しい景色だ。しかし、ゲームの世界ならば既に日常化しつつある景色かもしれない。この少し前には、VTuberねむさんと京都大学の塩瀬隆之さんらのフォーラムに参加して、VRの社会実装化が進んでいる様子も実感していた。
 こういうVRテクノロジーに対して、数年前まではまともに目を向けていなかった私だが、最近の急激な進展と解像度の向上を体験しながら、AGI(汎用人工知能)が不可能と思っていたのに、生成AIの進化で一気に近くなったように、心のテクノロジーへの実体化の可能性を感じつつある。Web3の社会化を遂げるには「利他」の心が必要であり、その手段としてVRメディテーション開発を位置づける様子は、まさに自律社会への精神生体技術としてとらえられる。
 これまでは、心の理を考えるのも物の理と同じ土俵で考えようとした結果、それは人間工学など、計測データに基づいた方向を目指していたのかもしれない。しかし、心の理は、物の理とは、まったく異なる「理」として、心情工学、感性工学、情緒工学、倫理工学のような、法則性とは次元の異なる世界から生まれるように感じる。精神生体技術、そして超心理技術の動向がますます楽しみになる。そこに、新たなWell-being産業が生まれる。

ヒューマンルネッサンス研究所
エグゼクティブ・フェロー 中間 真一


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