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Twitterで荒ぶる娘の顔は真顔

文章を書くのは自分のため。

岸田奈美さんの記事を読んだ。キナリ杯を開催した本当のわけを書いたもの。そこでは文章を書く理由について語られていた。

・キナリ杯をはじめようと思った、ほんとうのこと
https://note.kishidanami.com/n/nc3b926e4e440

岸田さんの文章に力強くうなずいた。文章っていうのは面白く書こうとすると途端に面白くなくなるっていうのを私は何度も経験してきた。

とはいえ、私は別に文章を書くことを生業にはしていないし、しかもその面白くない文章を作り出してしまった経験って、ほとんどTwitter。でも開き直ってTwitterで書いてきた文章について考えてみるね。

私はTwitterが大好き。つぶやきを見るも好きだが、どちらかといえばつぶやくのが好きだ。推しを愛でずにはいられないときにつぶやく。推しの推せるところを自分の中に留めておくには温度が高すぎて、Twitterに吐き出さずにはいられない。Twitterに吐き出さなければ、おそらく社会的な立場は守られたもんではない。推しの活動情報を電車の中で知ってしまった時、仮にTwitterがなければ確実にその場で気持ち悪い声が出てしまう。

推しが尊い。その感情が湧いたときいつでもどこでも自らの情動のまま10秒後に叫べるのがTwitterだ。もしその感情を推しを推しとしない人にぶつけてしまったら、それはただの時間の搾取であり、処理されてしまう。いやだよそんなの〜。相手も私も無碍にしたくないし、されたくないよ〜。そんなときの、Twitter。愛しているよ、Twitter。誰かに見られているかはわからないが、この文章は確実に社会に公開されている。私にとってはその実感が気持ちいい。推しを推す人としての自尊心が満たされる。

もちろん推しが尊い以外の感情も持ち合わせている。私は自ら感受性が豊かだと自負している。感情で心がぶれる人間だ。だけど、人前で泣いたり叫んだり、にやけたりするのは恥ずかしい。強くいたい。ややこしい。普通のことだけど、これが結構ストレスなんだよな。

そんな時に助けてくれるのは文章。文章を書くことは、にやけること、叫ぶこと、泣くこと、どんな激しい情動にも対応してくれる。

あの感情的な文章をTwitterで書いている時、私は真顔です。今も真顔です。みなさんだいたいそうだよね。真顔の社会でも、文章を書けば熱すぎる感情は熱すぎるままでいられる。ありがとう文章。

そして、話は戻るけど、面白いこと言おうと思って書いたものより、情動の処理のため、真顔で生きるために書いた文章の方が自分も好き。面白いね。

これからは、noteも、もっと感情で書こう。いいと思ったものを、感じたことを、すぐ書こう。岸田奈美さんありがとう!私は自分のために書くよ!真顔でね!

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