見出し画像

画家の言語の概念について

『endless 山田正亮の絵画』

論考
田野倉康一 
282貢『言葉はただ、歪むしかない。ー山田正亮と言語について』を読んで、

思考は言語なくして存在するのだろうか。
人はものを考える時、意識していなくても言語を使用している。考えるというのは思うことと違い、理由や経緯を必要とし、筋道を立てて客観的に分析、判断を行うことだ。思うというのは感覚的で曖昧なものなので考えとは又、別のものである。「こう思った」と断定的に言葉にするのは、自分がどう思ったかを考えた結果であって、思うこととはまた違い、それでも同じ思うという言葉を使用するのが難しいところで、そう述べながらも、この文章内で幾度も"思う"と使っていしまうのがなんとももどかしいが、この場合の思うは考えた結果を意味する思うであるので、そう受け取ってもらいたい。
田野倉康一のいう山田正亮の言葉の歪みというのは、ノートに書いてあることを"考え"として捉えるのか"思う"こととして捉えるかによって変わる。山田正亮のノートの面白いところは考えと思うことが分別できない状態で大量に残されているところだ。そのため、本人以外が後からそのノートを読んでも理解、判断が不可能なものが残っている。残すためには言葉にしないといけないのだが、思うというのはあまりにも感覚的で曖昧なため、それをいくら言葉に変換したところで誤差がうまれ、空気や水を無理やり握るようなものなのだ。
田野倉康一は詩人であり言葉を熟知した人間だ。それ故に山田正亮の言葉のズレや歪みを考察することができた。むしろ本人にはできなかった彼の言葉自体を考えるということができたのかもしれない。詩というのは感覚的で曖昧なものを最大限に言葉で伝えられる方法だと私は思う。しかしだからと言って言葉が最大限に使われているわけではなく、限られた言葉や、むしろ最小限の言葉の出力で受け取る側に渡している場合もある。山田正亮のノートの言葉は一見詩的だ。しかし、それは紛れもなくただの言葉で、詩ではないのである。彼は伝えたいのではなく、書き留めただけなのだ。メモなのだ。のちに人に読まれるなどということは一切考えていなかったのだから当たり前かもしれない。
言葉を熟知する田野倉康一からすると山田正亮の言葉は迷路のようでより一層面白く感じられたのではないだろうか。
山田正亮は詩人がどうやって詩を書くのかに興味を示したというが、田野倉康一は画家が残した意味を超えた言葉に興味を示し魅力を感じているように思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?