[クリエイター向け講座]シェアード・ワールドと「2次創作」の違いと利点と欠点や問題点

現在の自分がやりたい事は、最終的な目標は、
・自分が原作者となって「2次創作」許可を出すプロジェクトで、「初音ミク」や「東方project」のような、「2次創作」文化と同程度の「2次創作」可能な著作物を自分で新しく作ろうというプロジェクト
なのですが、現在の自分の進捗状況が、
・自分の「【何かラノベ的な雰囲気の自作小説】用の世界感設定資料」ができた事で、背景設定がしっかりしてきた事で、今までは、イメージが湧きづらかった自作小説ネタが、現在、「プロットネタ案」が大量にできる状態になっている段階に入ってきている。
このように、自作小説をゼロから作り出す場合には、最初はなかなかアイデアができないが、自分のイメージボードにある「世界感設定」が完成してくると、一気に、イメージが膨らみ始めるので、アイデアが大量に出てくる段階に入ります。
一方で、今の段階の自分の状態で前に進むためには、「無秩序に進むと危険」であるので、現在、自分は、いろいろと著作権関係の法律の文書やクリエイター関係の文書を読んでいる最中です。
そんな中で、
・シェアード・ワールドと「2次創作」
というわかりやすい考え方が、Wikipediaに書かれていたので、これを理解していこうと思います。

(参考資料)
(<Wikipedia>シェアード・ワールド)
https://ja.wikipedia.org/wiki/シェアード・ワールド

シェアード・ワールドと「2次創作」について


シェアード・ワールドと「2次創作」文化は、似ているようで少し違う側面もあるが、共通する概念もあります。

(共通概念)
・複数の人物で、1つの物語の世界感を共有して、ストーリーやいろいろな物を作っていくという、クリエイターの手法。

(違う部分)
「違う部分」を説明する事は、「シェアード・ワールド」が形成してきた人類史の歴史を見ていくのがわかりやすいです。
「その時代にある技術」などの違いで、時代ごとに少しずつ変化していっています。

シェア・ワールドの歴史


「シェア・ワールド」は、「1つの世界感をみんなで共有している」状態の事。

(1) 最も初期の人類史の「シェア・ワールド」というのは、「口承伝承時代の神話」だったようです。
ファンタジー世界では、「口承伝承時代の文化」の名残として、「吟遊詩人が歌って語り継ぐ」というイメージとなっている。
ちなみに、「意識まで複数の個体が共有している」ような状態にまでなると、昆虫に多い「ハイブマインド」という行動パターンを取るようになる。
昆虫の「ハイブマインド」までいかなくても、「意識や思想まで複数の個体が共有している」と、人間社会だと「戦争が起きる」
「個々の個人が自分の意見を言えない状況」の事を、「同調圧力」と言います。

(2) <近代>ユニバーサル・モンスター・シリーズ(1931年から1951年)
1920年代から50年代にかけてユニバーサル・スタジオが製作していたホラー映画・スリラー映画・SF映画シリーズの事。
ここから近代史の「シェアード・ワールド」という文化が発展していったようです。
「テレビ」という新技術が作られた当時の、最初期のテレビ業界の問題点は、「制作コスト」、「アイデア不足」な中で、視聴者の要求を満たすために、番組制作ノルマがあるみたいな状態でした。
そこで、ユニバーサル・スタジオは、「ユニバーサル・モンスター・シリーズ」という、「1つの共通の世界感でいろいろな作品を作っていく」という、「世界感共有」という発想を思いついた。
それで、生み出されたのが、『ノートルダムのせむし男』、『オペラの怪人』、『魔人ドラキュラ』、『フランケンシュタイン』、『ミイラ再生』、『透明人間』、『狼男』、『大アマゾンの半魚人』だったようです。
これは、現代の言葉で言えば、「ネタ使い回し」ではあるものの、「シェアード・ワールド」という新しい文化を誕生させた。

(<wikipedia>ユニバーサル・モンスターズ(Universal Monsters))
https://ja.wikipedia.org/wiki/ユニバーサル・モンスターズ

自分は、中の人が辞典学者なので、
・「なぜ?神話が神話となっていったのか?の言語学」
とかも考えているので、最近ずっと不思議だった、「神話の伝説上の生き物」とまったく人類の意識の中で、共通把握しているような位置に、「ドラキュラ」、「狼男」、「フランケンシュタイン」なんかの「近代小説の化け物」まで混ざっているのか?ずっと疑問だったが、これは、
・「神話」は、「シェア・ワールド」という概念なのだ!(自分の考えなので、正しいかはわからないが)
と気がついた事で、ようやく理解できた。


辞典学者という人のお仕事は、実は、
・単語の調査と収集と解析
なのです。
ですから、例えば、日本だと、「学習研究社(学研)」という小学生向けの学習教材や、辞典なんかを多く出版している出版社が、なぜか?「実は、ムーとか、学校の怪談とか、オカルト本をたくさん出版している理由」ともなっていて、要するに、

・辞典学者から見ると、「単語の調査と収集と解析」をしている関係で、どうしても、「辞典」に含められないオカルト関係の単語がたくさん集まってしまう!
だから、要するに、辞典になれなかった「ボツ本」としての、オカルト関係の情報も、辞典学者には、実は、勝手に大量に集まってきてしまうのです!
それで、近代の辞典学者の、辞典になれなかった「ボツ本」として、最近では、「都市伝説」まで増えてしまった。
さらに、ネットの無かった時代の「都市伝説」と違って、最近では、ネット後の「都市伝説」といって、人々の言語文化が少し変わってきている。(「都市伝説」の他に、「陰謀論」まで加わったから、ややこしくなった時代という事)

とかのいろいろな調査報告ができるわけです。
基本的に、「噂」は辞典に含められないので「ボツ」だが、ボツデータばかり大量に集まってしまう。というのが、現代なわけです。
それで、最近では、「都市伝説」の他に、「陰謀論」まで加わったから、ややこしくなった時代という事なのですが、一方で、

・辞典学者から見ると、「陰謀論」の主張している内容は、「ただの未来における未来社会学の思考実験やSFである事が多く、未来の危険性を警告する事もSFの役割の1つである」事から、自分の目からすると、「意味深い文章」、「含蓄のある文書」であるので、安易に削除するべきでは無いと考えている。
ただ、陰謀論者の書き方だと、感情的になっている事から、「自分が、きちんとSFとしての未来社会学や思考実験としての部分だけを抜き出して、『メタSF(メタデータ(脚注)の大量に含まれたSF)』という、フィクションとノンフィクションの狭間に入ってしまった「失われてはいけない知見」部分が多く含まれる、多くの人が見過ごしてきた情報を、自作SFファンタジーとして書こう」と思った背景なわけです。

通常、『メタSF(メタデータ(脚注)の大量に含まれたSF)』は、普通の人が書くと「陰謀論」になりやすい事から、通常、このジャンルで書く事はやめた方がいいですが、今の自分の辞典学者の力量ならば、十分こなせるだろうという事で、ギリギリ陰謀論にならないラインと、どちらかというと、「SFとしての未来社会学(先端技術で法律が存在していないから起きてくる未来の未知のトラブル予測をする)や思考実験」をメインに書く事で、ジャンルとしては、SFなので大丈夫だろうという判断です。

『メタSF(メタデータ(脚注)の大量に含まれたSF)』に近い事を過去に、「メタ・ノンフィクション」あるいは、「メタ・フィクション」という事をおそらくしていたと分類していい過去の作家に、「司馬遼太郎」、「小松左京」がいて、『メタSF(メタデータ(脚注)の大量に含まれたSF)』を安全なラインで書けるのは、「司馬遼太郎」、「小松左京」位の博学の学識が最低限必要になると思われるが、今の自分は、辞典学者になった事で、できるラインには入ってきているという感じです。

(3) 1961年に、アメリカンコミックの「マーベル・コミック」が、新しい事を始めて、「自社のマーベル・コミック内で起きている出来事の世界感を、複数の提携作家で共有しよう!」という事を始めた。
これも、近代史の「シェアード・ワールド」という文化が作られていった時代の始まりだったようです。

(4) 「世界感共有、共同執筆」という新しいスタイル
『ロードス島戦記』を書いた水野良ですが、これは、もともとは、「テーブルトークRPGのゲームマスターが話していた物語」の事で、みんなで、ボードゲームを遊んでいる状態なので、「グループSNE」という「テーブルトークRPG」で遊んでいたメンバー共有の世界感でした。(1986年頃)
それで、この大まかな世界感設定の方を考えるのは大変なので、のちに、「フォーセリア」という共通の世界感で、同じグループメンバーが、「世界感共有、共同執筆」という新しいスタイルをするという、新しい文化を作って、執筆者は違うが、世界感は共有しているという独特の執筆スタイルを作って、『ロードス島戦記』、『ソード・ワールド』、『クリスタニア』という別の小説ができたが、これらは、「世界感共有、共同執筆」という新しい執筆スタイルだった。
ラノベという単語すら無かった時代に、すでに、「ラノベ」を書いていた『ロードス島戦記』とかは、まだ、グループメンバー内の「世界感共有、共同執筆」という新しいスタイルではあったが、のちの世の「2次創作」文化につながっていくような、「世界感共有、共同執筆」という新しいスタイルをやり始めていて、未知の未来を切り開いていた、クリエイターのイノベーターだった。

(5) 「版権」買い取りにより、事態がややこしくなった時代
次に、
・「版権」買い取りにより、事態がややこしくなった時代
がきてしまい、
「スター・ウォーズ」シリーズの尽きない人気や、続編を求む声から、メーカー側が、「版権」を買い取って、独自に、執筆者を揃えて、「市場や製品」として利用、収益を上げたいみたいな状態になって、ビデオオンデマンドによる番組コンテンツ不足もあって、「テレビアニメーション版スター・ウォーズ」とかを作ってみたものの、「ファンから何か違う!」とかクレームが増えて、結局、ジョージ・ルーカスは、「自分が作った「スター・ウォーズ」シリーズを正史とする」という感じになった。
このように、
・「世界感共有、複数執筆者」手法は、問題も多く抱えている。

(6) 「シェアード・ワールド」方式のより資本主義化した新しい手法の「メディアミックス」、「スピンオフ」の時代

近年の高度経済成長期の時期になると、「シェアード・ワールド」方式のより資本主義化した新しい手法の「メディアミックス」、「スピンオフ」の時代がきて、より商業的な性質が強くなったと同時に、「メディアミックス」というのが、CMやマーケティング部門も巻き込んだ事で、世間での作品の認知度が爆発的に増えたり、「シナジー効果(相乗効果)」も発生して、「シェアード・ワールド」方式の当たり方式になって定着していった。
「Wikipedia」によると、「1973年の小松左京の小説『日本沈没』のあたりの時期には、すでに、「メディアミックス」手法が開始されていた」事はわかっているが、最初の時期や事例はわからない。

(<Wikipedia>メディアミックス)
https://ja.wikipedia.org/wiki/メディアミックス

『日本では、1973年に小松左京の小説『日本沈没』の刊行直後から間髪を入れずに映画、ラジオドラマ、テレビドラマ等様々な形態で相次いで制作され、それらが相乗効果を生んでベストセラーとなったケースが大規模メディアミックスの嚆矢といえる』

<Wikipedia>メディアミックス

次に、「スピンオフ」という別の「シェアード・ワールド」方式の「世界感共有」による新しい手法の作品も増える時期があった。
「スピンオフ」は、「派生作品」の事で、主に、元の物語の脇役だった人物のストーリーをメインで追うような「スピンオフ」作品と呼ばれるものが増えた。
この近年の「メディアミックス」、「スピンオフ」という手法は、「シェアード・ワールド」方式として経済的にも成功を収める手法として定着した。
この近年の時期には、他にも、ギリギリ「シェアード・ワールド」方式として見ていい手法に、「コラボ」という手法が、「世界感共有」方式で非常によく成されるようになったが、これは、主に、「メディアミックス」の「シナジー効果」や宣伝意味合いの強い、「課金ゲーム」に多く使われる手法となって、とりあえず、「世界感共有」はしているものの、あまり強い意味合いは無い。

(7) 著作権切れコンテンツにより、「世界感共有」が増えた時代
現在の時期では、中世ヨーロッパ時代のルネサンス期の文豪がたくさん出た時代とか、その後の誰でも知っている著名な名作の著作権が大量に切れる時期にあたり、
・著作権切れコンテンツにより、「世界感共有」が増えた時代
に当たります。
この現象が起きたのは、主に、
・『不思議の国のアリス(作者ルイス・キャロルが1898年死去なので、1948年で著作権が切れ)』
・『OZ(オズの魔法使い)(1900年5月出版。1956年にパブリックドメインとなった)』
とかで、いろいろな映画監督なんかが、独自解釈を加えたり、続編のエピソードを考えたりしています。
・原作者の死後に追加された「エピソード」はどうなの?
みたいな疑問が残る問題が別に生じた。
これは、「スター・ウォーズ」シリーズ正史問題と同様に、「原作者の著作物が正史」となるだけです。

(8) 原作者が死亡しているのに、なぜか?続きのエピソードを他人が妄想できる不思議な現象(生み出されたキャラクターはすでに人格や自我が発生している問題)
ここら辺の話は、
・フランスの言語学者のエミール・バンヴェニストの「イストワール(histoire)とディスクール(discours)」という概念を言っていた事について、後の言語学者の議論や論文で、いろいろと議論されている。
ここら辺の論文の話を大まかに説明すると、自分の理解の範疇なので、完全に正確に合っているのか?は不明だが、

『フランスの言語学者のエミール・バンヴェニストは、「なぜ?テキスト文字で書かれた歴史は真実が書かれていないのか?」の原因について、言語学の方に問題があるのではないか?と指摘して、「イストワール(histoire)とディスクール(discours)」という概念を述べて、きちんと、言語学的に問題が生じないようにするべきだ。
・「イストワール(histoire)」は、「客観的叙述」で書けるから「歴史」の記述に適している。
・「ディスクール(discours)」は、「主観」を中心に述べたり、読者がいる事を想定した書き方になっているから、読者の受けがいいように、事実改変されやすいから、「歴史」の記述手法にはよくないのではないか?
と主張したが、他の言語学者から反論があって、
・「イストワール(histoire)」は、「客観的叙述」手法だが、「物語」も書けるだろう。
・「ディスクール(discours)」は、「主観」を中心に述べてはいるが、だからと言って、全ての「ディスクール(discours)」手法の記述が、真実を書けないわけではない。
みたいな状態になっていた。
そこから現在に到るまで、いろいろな学者がこの件について論じていて、
・「客観的叙述」形式の文体は、主語が誰なのか?とか、誰に対して語っている事を想定して書かれた文章なのか?とかの言語学的な特徴に注目しだして、次に、
・文章というのは、「物語る」わけだが、この話者は、「文章自身にすでに内在されているのではないか?」
つまり、「文章となっている段階で、文章自身が、語り部になっているわけだから、言語学的に、「語り部は自我を持っている可能性があるから、だから、ウソが発生する」
みたいな議論になって、
・「テキスト文字として書かれた瞬間に、その文章は、すでに、自我を持っている可能性がある」
みたいな、ある意味、とんでも理論かもしれないし、ロジックや数理論理学や、人工知能の学問では、正しいのかもしれない真実なのかもしれない指摘がされ始めた』

みたいな辺りの言語学の論文を読むと、この辺りの詳しい議論がわかります。(学者が議論しているだけで、誰も何が正しいのか?はわからないのが現状)
少なくとも、
なぜか?はわからないが、「ある一定量以上を越えた情報量を持っている物体」は、ある一定の「自我」を読者側の人間は感じている。
という事だけは正しい。
だから、原作者が亡くなろうがどうしようが、「1度テキストで生み出されたキャラクターは永遠に死ななくなり、広義の神話、伝承、都市伝説の存在の方に組み込まれていってしまう」というのが、自分の解釈と考えです。

(9) 「ナラティブ
この(8)の現象が起きる背景が、「ナラティブ」という問題で、日本語に無い考え方の単語だったので、当時は、この単語をどのように把握して、日本語で言えばいいのか?もの凄く議論があったが、現在では、
・「ナラティブ」(読者の心の内側に広がっている物語の世界感)
・「ストーリー」、「プロット」(作者側の頭の中にある物語の世界感)

で、この2つは、大幅に異なっている。
これは、作者自身の文章を書く力量が足りなかったり、読者側が博学だったり、読者自身の趣味で知っている知識が多かったりして、読者の脳内妄想力がはるかに豊かだったりするから起こる現象。
なので、「作者の脳と電脳共有する」以外には解決方法は無い。

ですから、多くの著作物や絵画などのクリエイトされた作品というのは、

・「作者のプロット」+「ナラティブという、読者の心の内側に広がっている物語の世界感」の両方が合わさった時に、複雑な感情が発生し、「作品は完成する」

という哲学のような状態で、クリエイトされた後の作品の状態は完成しています。
神学とかだと、このように、「人々の複雑な感情が混ざり合った状態で、魂のように広がって蓄積されていく」事で、人類史の文化が紡がれていくみたいな状態になっているとか解釈されたりしている。

(10) 「2次創作」文化の誕生
「初音ミク」や「東方project」のような、「2次創作」文化が誕生した背景には、
・技術的に、「Podcast」辺りから始まった「SNS」などの「個人発信文化」が技術的に可能になった当時の社会背景があった。
とか、いろいろな相乗効果があって、「初音ミク」や「東方project」のような、「2次創作」文化が誕生しました。
これは、
・旧来の「シェアード・ワールド」文化手法だと、「同じメーカー内でしか共同執筆できない」
・著作権が切れた作者の死後、かなりの相当年月が経った後に、「ようやく発言権が許される」という、これは、ある意味、かなり強烈な言論統制の仕方に似ている欠陥があった。
のですが、
「SNS」などの「個人発信文化」が技術的に可能になった現在の段階では、「初音ミク」や「東方project」のような、「2次創作」文化発生に伴って、
・ようやく、「作者や原作者が生きている内に、一緒に騒げる時代になった!」
というわけです。
ですから、「2次創作」許可を出すのは、個々のクリエイター自身の判断なわけですが、
・自分は、もともとが、「VOCALOID」系のクリエイターだった事もあり、「初音ミク」や「東方project」のような、「2次創作」文化の中で育ってきたクリエイターなので、自分が今度は著作者側になった時には、「2次創作」OKにしたいという活動方針なわけです。

(まとめ)
まとめると、
・シェアード・ワールドと「2次創作」は似ているが、少し違う。
「シェアード・ワールド」方式だと、「世界感共有、複数執筆者」手法の欠点で、次第に、物語の齟齬(そご)の食い違いが出てきておかしくなってくる欠点がある。

・「2次創作」文化の方は、「原作」の方の世界感は原作者が作り上げているので壊れないが、「2次創作」を共有したい人は、自由に、自分の頭の中に想像したイメージのまま、イラストを描いたり、3DCGモデリングを作ったりしてダンスさせたりと、かなり自由にやっても、原作の世界感は保持されている。
みたいな、かなり大きい違いがある。

また、最近では、
・新しいネット時代文化として、「シェア・ワールド」といって、共通の世界感の中で、複数の人達が活動しているような、少し違う文化も出てきてはいるが、「共同創作プロジェクト、SCP財団」のように、だんだんカオスになっていく傾向がある。
この辺りの「共同創作プロジェクト」という、メインの作者を持たない執筆手法は、もともとは、ツイッターとかの遊びで、誰かが、最初のお話の出始めだけを書いて、「後は想像して誰でも続き書いていい」みたいな遊びが流行っていた時期があった。
ここら辺の「共同創作プロジェクト」は、SNSネット時代の新しい遊び方や文化発生とは思われるが、「著作権管理が不可能に近くなっていく」ので、そこら辺に問題点がある。
こんな感じの事が現在わかってきたので、
・「共同創作プロジェクト、SCP財団」は、自分の著作物とは関係ないので、こういった「共同創作プロジェクト、SCP財団」と自分の「2次創作」物は、極力混ぜないように配慮願います。(「共同創作プロジェクト、SCP財団」は、もう「著作権管理が不可能に近くなっていく」ので)

(続きの記事)
・「シェアード・ワールド」、「2次創作」という概念は、いつ頃からある概念なのか?
という事が気になって調べた事は次の記事に書いてある。


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