辞典学者が解説する、「ら抜き言葉」は「言葉の乱れ」なのか?「言葉の進歩」なのか?

(「ら抜き言葉」について)
自分は中の人が辞典学者ですが、一般の辞典学者と違って、
・「ら抜き言葉」は現代語の進化
の方に分類しています。
その関係で、自分の自作小説やブログなどでは、「意図的に、「ら抜き言葉」を使っている」ので、これらは誤植ではありません。

今回の記事は、簡易の「ネット掲載論文」と思ってもらっていい。
「ら抜き言葉」は現在でも、基本的には、「国語の乱れ」の方に当たる事が多いです。
日本政府は、「国語審議会」というものを昔は行っていたのですが現在は廃止してしまっており、ここの判定は曖昧になったままです。

(「ら抜き言葉」の例)
(正しい日本語)「食べられる」
(ら抜き言葉)「食べれる」

わかりやすい例が上の例で、日本語では、「可能、受け身、尊敬」を全部、「食べられる」で表現しています。
辞典学者にも、いろいろな立場の人がいて、「古典」を大事に考える人、「言葉の表現の模索」こそが言語文化の進歩だと考える人達など、いろいろな考え方があって、それらを尊重する姿勢から、日本政府は、「国語審議会」というものを現在廃止しています。
自分のタイプの辞典学者の方がむしろ珍しく極少数派なので、自分の真似をして、「意図的に、「ら抜き言葉」を使っている」事はあまりお勧めしませんが、きちんとした論考や意図や考え方がしっかりとあるのであれば、むしろそれは文学表現だと認めていいはずです。
「言葉というものは、時代と共に、より使いやすいように変化していくもの」です。
私達は今、日本語の古典語を話していないように、どんどん「使いやすいように変化していくもの」であり、それは、世界中の言語で昔から起きているものです。
自分の考えでは、
・「食べられる」(受け身、尊敬)
・「食べれる」(可能)
という「言葉の使い分け」に、一定の機能や利便性がある事から、自分の判断では、これは、「言葉の乱れ」ではなく、ロジカルを重視する「近代語」への変化だと捉えています。
もう1つの自分の判断の理由は、「日本語の特徴として主語は基本的に書かない事が多い」という特徴があるので、ファンタジー小説なんかだと特に、
・「食べられる」
とだけ書かれてあった文章があった場合に、意味が正確に伝わらないなど、ここが、ロジカルを重視する「近代語」への変化と考えた方がいい箇所です。
言葉は、「使いやすいように変化していくもの」であり、「使いづらいものの方が廃れていく」というのが自然な流れで、そうやって今私達は、「古典の日本語」を話していない。
一方で、「日本語の伝統文化や価値観、人々が、どのようにして物事を捉えていたのか」については、
・「食べられる」(可能、受け身、尊敬)
の1つの使用法のみに徹底する旧来からの伝統的な日本語の方が利点を見いだせる文章のケースもあります。(奥ゆかしさとかが出る事がある)
要するに、ここの判断は、自分の書きたい文章に適した手法を選べばいいだけという話になります。
自分は、
・「食べられる」(可能、受け身、尊敬)は、ファンタジー小説ではむしろ使いづらく誤解を与えかねない、非ロジカルな表現になるので使っていない。
・「寝られる」(可能、受け身、尊敬)は、可能の意味で使ったのに、「受け身」と同型なので、「寝取られる」ようにも意味が取られて嫌なので、「寝れる(ら抜き言葉)」(可能)を使う。
など、「言葉の乱れ」というよりも、それぞれの人達が、いろいろと考えて、その言葉を選んで意図して使っていると思われる。
後、ラノベ小説だと、「口語調」で書かないとむしろ変になっていきます。
最もわかりやすい例が、
・「可能」の意味で、「このペンは書かれるよね」と表現する人は、現在ほぼいないでしょう。
日本語の文法としては、「このペンは書かれる(可能)よね」で正しい日本語だったのですが、現在、誰でも、「書ける」を使うように変わっています。
昔も、
・「ら抜き言葉」は「言葉の乱れ」なのか?「言葉の進歩」なのか?
みたいな議論はあって、当時は、
・「書かれる」(可能、受け身、尊敬)
・「書ける」(可能動詞)
という議論で、結局、
・「書ける」(可能動詞)
は定着した日本語とするように変化
しました。
日本語の語尾のつながりの関係で、「可能動詞」となれない単語がいくつかあるので、結果的に、「ら抜き言葉」となっているだけで、自分の判断では、「ら抜き言葉」は、「可能動詞」と同じなので使ってもよい。という判断です。
ただ、この判断は、自分のような前衛的な辞典学者が少数派として言っているだけなのが現状という事で、特に、就職活動や受験などがある現代社会の現状では、あまり真似はしない方がいいです。
もし、「ら抜き言葉」は「言葉の乱れ」だ。という人がいたら、その人に対して、「このペンは書かれる(可能)よね」のように、「可能動詞」というものを一切使用せずに話しかけ続けてみれば、「ああ、ら抜き言葉は、言葉の乱れではないのか」と納得させられるはずです。
「それは、可能動詞だろ」とか中途半端な言語学の理解で言う人がいたら、その人は、未来に、「それは、ら抜き言葉という正しい表現だね」と言っている事でしょう。
何しろ、「可能動詞」は昔はイレギュラーな方でしたから。
まずは、そうやって、「実践して見せて」から、「ああ、「このペンは書かれる(可能)よね」だと使いづらいんだな」と実感と体感をさせた方が、「なぜ?言葉が時代の流れと共に、使いやすいように変化していくのか」という言葉の歴史の流れを実感させる事ができるでしょう。

誤解を避けるロジカルな近代語への変化

(1)
学生が、「ら抜き言葉」の方をむしろ自然な発想で使用していくという変化は、言語学としてはむしろ普通の流れです。
・「来られる」(可能、受け身、尊敬)
というのが1番の原因だと思われますが、学生は受験や就職活動の時に、何度も念を押されて、「尊敬語、謙譲語」という考え方を叩き込まれるわけですが、基本的に、「言語は脳が処理している」わけなので、「文法よりも、心理的感情も影響します」

学生は受験や就職活動の時に、何度も念を押されて、「尊敬語、謙譲語」という考え方を叩き込まれる時に、
・では、「自分自身の可能表現として、「来られる」を言葉として使用するように、自分自身の脳の感情を持っていく事ができるのか?」
というと、正常に成長した感情を持つ子供であれば、
・「ああ、自分自身に対して、尊敬語は使ってはいけない!」と自然に、脳にブレーキをかける方が「感情として脳を制御する」場合には、正常に発達した脳であると考えられるので、それで、
・自分自身への「可能」の表現には、「来れる(ら抜き言葉)」を謙譲語ではないものの、1つ自分を低めようとして、その言葉を選ぶしかない。
というわけで、自分の解析では、この
・学生は受験や就職活動の時に、何度も念を押されて、「尊敬語、謙譲語」という考え方を叩き込まれるから、自分自身に対して、尊敬語は使ってはいけない!」と自然に、脳にブレーキをかけるから、「ら抜き言葉」という言葉の文化が発達したと考えています。

(2)
・「見られる」(可能、受け身、尊敬)
現代人にとって、「見られる」とだけ聞いた場合には、ほぼ100%「受け身」の意味でしかとられないでしょう。
・「先生が下着を見られている」
という文章があった場合には、本来は、「先生」という尊敬の対象が入っている文章なので、大学の言語学の先生ならば、
・「先生が下着を見られている」(尊敬)
の意味で、ただ単に、「先生が自分でショッピングしている最中なだけ」な事がわかりますが、最初にそう判断して思う、大学の言語学の先生はいないと思う。
ほぼ100%この文章を見た人が最初に感じる意味合いは、
・「先生が下着を見られている」(受け身)
のはずです。

「人工知能」と「プロンプト」の時代になると、『誤解を避けるロジカルな近代語への変化』は非常に大事になってくる。
例えば、先程の
・「先生が下着を見られている」
をGoogle機械翻訳で英語にすると、「日本語の主語や目的語なんかを大幅に削除して表現して、相手に忖度させる言語文化」の影響もあって、
・「先生が下着を見られている」→(Google機械翻訳)「Teacher is seeing my underwear(先生が私の下着を見ています)」、「Teacher is looking at my underwear(先生が私の下着を見ています)」(機械翻訳だと、「先生が(私の)下着を見られている」のように単語を機械が憶測で補っているようです)
というように、間違ったニュアンスで翻訳される。
画像生成AIなんかで、「プロンプト」を入力する場合には、「曖昧性が言語文化の中に深く内在している日本語の言語文化」は注意しないと、「人工知能全般の使用結果はかなり間違った結果を生み出す」

このように、
・『誤解を避けるロジカルな近代語への変化』の結果が、「ら抜き言葉」であると判断できるので、自分の判定では、「ら抜き言葉」はかなり近い未来には、「可能動詞」と同様に「正しい日本語」の方に変化していくだろうと判定している。

また、もう1つ指摘して書くと、「尊敬語、謙譲語の強要は、奴隷や封建社会の名残として、コンプライアンスやパワハラの流れのある現代社会があるので、だいぶ先の未来には、「尊敬語、謙譲語の強要の禁止」が成されると自分の判定では未来の流れを読んでいる」ので、美徳文化(封建社会が「美徳?」なのかは不明だが。少なくとも、「尊敬」表現は正常でも、「謙譲語はパワハラにあたる」と判定できる)や、古式ゆかしい表現としては残っていくだろうが、ビジネスの場面では、「丁寧語」のみの使用になっていくと思われる。(自分は現在の段階でも、基本的に、「丁寧語」しか使いません)

特に、現在の段階でも、「外国人に対しての、ビジネスの場面での、尊敬語、謙譲語の強要は、奴隷や封建社会の名残や、隷属関係の強要に当たる」と判断されかねないので、「美徳文化や、古式ゆかしい表現として、尊敬語、謙譲語を外国人に対して教える事は構わないが、使用を強要した場合には、奴隷や封建社会を廃止していく現代社会の流れの中で、大きなパワハラ裁判になりかねない」危険性がある。
この判断は、自分がかなり前衛的な辞典学者なので、そう判断しているが、正しい判定と思われる。

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