「気持ちを偽の笑顔で隠すのは何故か?」


小学生の頃は良く「いつも笑顔で悩みなんかなさそうでいいね」と言われていたように記憶している。

しかしながら多分家族の人間関係で、
一番自分を殺していたのは小学生の頃であったと思う。

とは言っても親に虐待されていたわけではない。たぶん。

母親が病弱であったのと、
父が趣味に没頭するため父は土日など家を顧みる時間が少なかったというのが事実ではないかと思う。
(今文章を振り返ったら母には「親」がついていて父には「親」がついていなかった…)

当時、自分は学校から帰ると母の、
父に対する愚痴をよく聞いていた気がする。
それは自分が長男だから。
また、それを聞いてためになるかと言えば愚痴は建設的ではない。
さらに小学生だから反論する言語は出てこない。
母親から言われてたことに反応するだけ。
愚痴はディベートの機会を与えない。意味もなくただ吸収すするだけ。

そもそも子供に愚痴を言うこと自体がどうなのかなと思う。
大人になってから聞いたが
妹の場合は「それ聞いたことあるから」と言って聞くのを遮っていたらしい。

ひたすらそれらすべての愚痴をきくことで、そこに溜まった見えない何か…は言い方悪くすると掛けられた呪文のよう。

その呪文は何かといえば「お前は世間で発言する資格はない」というもの。
「要は、お前は黙って聞いていろ」ではなかったかと思う。

人に自分の気持ちを伝えるとか、
わからないことをきくとかがそのころからすごく苦手になって気がする。

世間は自分に愚痴ばかり言う。
それが当たり前の世間に生きていて
他人に対する信頼を自分が世の中にどのように求めたらいいのだろう。
それがわからなかった気がする。

だから自分でできることは自分で解決した。
でもわからないことは所詮わからない。

高校時代は勉強がわからなかった。
同級生を信頼できなかった。相談できなかった。

結果として大学受験は苦労した。

また大学時代に初めてつきあった彼女のことで苦しいことがあっても
相談できる人はいなかった。

その当時いた友達が悪いわけじゃないのです。

あくまでもその時の自分がどうするかという態度が問題。

その問題を当時の自分は解決できなかった。

そのなにもできない態度はどこで形成されたのか。
自分は幼少のころではないかと思っている。
自分が生まれた時は未熟児で保育器に入っていたらしい。
生まれて時は首の筋肉が固まっていたらしく場合によっては首が曲がったまま生きていたかもしれないらしい。
親は一生懸命病院に通院してくれたらしい。
でも残念ながら記憶にはない。

親にそこまでしてもらっていても世間に仕方なく生かされている。
そんな思いをどこで受け止めてしまったのか?

これは語弊を招くかもしれないけど、
実はあまり親から愛されたという記憶はない。
でもそう思ってしまうのはなんでかなと思う。みんなもそうなのだろうか。普通が知りたくなってしまう。

まあでも、今の自分は嫌いなところもあるっちゃあるが、
結果としては気に入っていたりもする。
だって、だれも好きになってくれないのなら自分が好きになるしかない。

そう、自分の嫌なところが億千万あっても
自分が自分の事をスキであるなら
きっとそれでいいのだと自分は思うのです。

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