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生徒とのお別れに際して教員は何を話すべきか

3月,別れの季節になると学校では別れや進級にあたっての節目の行事が行われる。代表的なものは卒業式だが,卒業学年でなくとも必ず年度末には集会という形で,進級にあたっての心構えや,1年間の振り返り,そして学年の教員が生徒に向かってスピーチをする機会がある。

恐らく,教員という職業は政治家に次いでスピーチの機会が多い仕事ではないかと思う(個人調べ)。人前でほとんど話をしたことのない大卒の若者が教員になった途端,数百人の児童生徒を前に,突然スピーチしなければならない,なんて場面は仕事をしていると無限にあるからだ。

そしてこのスピーチが曲者である。
中には座布団を無限に差し上げたくなるほどに「うまい!!」と思わされる名スピーチもあるが(確率的には10年に1回くらい出会えるか出会えないか…)申し訳ないけれど聴くに耐えないような,生徒にとってはひたすらにその時間を耐えねばならないような内容のものもある。
体感としては後者の方が圧倒的に多い,というかここ最近ものすごい勢いで増えてきている印象を受ける。

改まって生徒の前で話をしなければならないという時,特に経験の少ない若手教員ほど「自分の学生時代の話」をする。
そしてこの話,オチがあればまだいいのだが,なんとなく
「自分も昔は辛かったけど,それを頑張って乗り越えてきたから今がある,だから君たちも頑張れ」
という展開になるパターン。
さらに言うと,その「昔は辛かったエピソード」が客観的に聞いても
「そんなの大して辛くないだろ」と言うようなものが大半を占めているからタチが悪いのである。
例えば,受験に落ちた,部活で顧問にしごかれた,
とかそんなエピソードは当事者にとっては一大事だったのかもしれないが,他人からすればなんの汎用性もない面白くもない話である。

そして教員の習性の一つ。
一度話し始めると長い。
初めはじっと姿勢良く聞いていた生徒たちが次第に苦悶の表情を浮かべ始めるまでに大した時間はかからない。
 
そしてもう一つの問題は,
目の前にいる大勢の生徒たちに向けて進級・卒業の花向けの言葉を贈る場面にも関わらず,なぜスピーカーが「自分」にのみフォーカスを当てているのか,である。

スティーブ・ジョブズが大学の卒業式で行った伝説のスピーチにも,本人の過去のエピソードが紹介される場面はある。
しかし当然のことながら,あんな風に感動的な内容にはならない。

大切な人に向けて大切な話をしたい。
できれば本質に迫るような内容で話したい。
こういう時,自己に意識が向けば向くほど,本質からはどんどんと遠ざかっていく。

「自己を希釈すればするほど,自分に出会え,世界に出会える。」

これはかつて私が尊敬している友人からもらった言葉であるが,自意識過剰系教員がどんどんと増えていく昨今,この言葉をスピーチに悩める多くの先生方へ贈りたい。
 
では,そうしたいわゆるお別れの場面でスピーチを求められた時に何を話すのか。答はシンプルである。

生徒の今置かれている状況や心情をめいっぱい想像し,
彼らと過ごした濃密な1年間の日々を思い出し,
未熟であった自分もまた,
あなた方との生活の中で沢山の学びがありました。
心から感謝しています。
どうかこの先また環境の変化はあれど,
新たな場所でも困難に負けずに頑張っていってほしい。
ひとときでも貴方と関われた1人の人間として
これからもずっと応援しているから。

とでも言えれば充分じゃなかろうか。
というかそれ以外に伝えなければいけないほどの大切なこととは?

教員としてではなく,
多分親として我が子に声をかける時だって私だったら同じことを話すだろうと思う。

 


 

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