「集中すること」瞑想の基礎

集中についてまとめておこう。

集中するというと、ピーンと張り詰めたイメージをするかもしれないが、集中で重要なのはリラックスすること。

集中するときには、一点に注意を向ける働き(尋)と、注意が外れないように囲い込む働き(伺)の二つが重要になる。

仏教の用語で、この尋がヴィタッカ。伺がヴィチャーラとなる。
尋(ヴィタッカ)とは、銅鑼をドーンと鳴らすことに例えられ、注意を向けること(=動的)。
伺(ヴィチャーラ)は、その音の余韻に例えられ、注意を留めること(=静的)。

まず集中するときには、絶えず対象に注意を向ける。外れたら、戻すことを繰り返す。
これが、粗雑な荒い集中。

雑念に対しても、はじめはこの粗雑な集中で対処する。
吸う、吐く、吸う、吐くなどと言葉で注意を向けるラベリングもこれにあたる。

なにを対象にするかも、集中を容易にする要因にもなる。
思考を「止める」と「手放す」の違い

同時に、注意が逸れないように、注意が外れる要因を取り除いていく。

瞑想において、外的には静かで気が散らない環境を用意すること。
内的には、基礎的なところとして身体の緊張を取ること。
身体が静まっていくと、緊張に注意が向きやすく、対象から外れてしまうためだ。

その他、集中を阻害する要因は仏教では、五蓋(欲、怒り、眠気+無関心、後悔+心のざわつき、疑い)としてまとめられている。

注意が逸れなくなると、注意を向ける必要はなくなり、留める働きが強くなる。
これが、微細な集中。

微細な集中で、どんどん意欲と喜びが増していく。
すると、気持ち良く感じるようになる。この気持ち良さに意識が向かうと、注意が散漫になり、寝てしまったりする。
そのときは、また粗雑な集中から始める。

集中が深まると、緊張とリラックスのバランスが大切になる。

人が入力できるのは、緊張だ。
リラックスは、するのではなく、そうなるのを待つ。
そのため、まず緊張感を持って対象に注意を向け、そこからその注意(緊張の入力)を落としていく。
いきなりリラックスしようとすると、外的な身体の緊張、音、内的な雑念などに振り回されてしまうだろう。

そうして、リラックスしたら、あとは集中度合いに応じて、緊張感を調整していく。
緊張が高まると、心がザワついて思考が生じやすくなる。緊張感が低いと、対象に無関心になって寝てしまう。

ある程度、慣れてきたら、対象を取らずに、ただリラックスして座ることをしてみよう。
そうすると、集中ではなく、全体的な統一の感じが掴みやすくなる。

また、集中しようとして過緊張に陥ることもあるかもしれない。そんなときは、目がギラギラしたり、頭痛がしたりする。このときも、対象を取らずに、ただ全体的におおらかに、ゆっくり呼吸したり、横になったり、手のひらを意識したりする。

そうして、さらに集中が高まったとき、二つの方向に分かれる。
対象が浄化され強い専注によって禅定(超越状態)に向かっていくか、対象を外して認識を均一に広げるかの二つ。
一つに集中していくか、全体に統一していくかの違いだ。
外の行法と内の行法

仏教においては、対象を定め置かない瞑想が王道(八正道の正念)だが、
それが難しい(心が定まらない)場合は、対象を定めた集中する瞑想(禅定修行)が勧められる。

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