イエスの時代の二極化と「福音」
スピリチュアルと宗教はどのようにつながっているだろうか。
しかし、宗教とイエスの教えは同じであるとは言えない。
【信仰≠信じること】
新約聖書の福音書を読んでみると、世間で知られるキリスト教とはずいぶんと異なる印象を受ける。
福音書において、イエスはなにを語っているのだろうか?
イエスは二極化についても語っている。この二極化はいつの時代にもあったのかもしれない。
そのことについて、考えてみよう。
そもそも、福音書での「福音」とは、なにか?
「天の王国は近づいた、悔い改めなさい」とイエスは言う。
これを、スピリチュアルで言えば、「アセンションが近づいている、目覚めなさい」となる。
天の王国とは、どこにあるのか?
ここでの間とは、非二元性のことだ。
あなたと私ではなく、「私」であり、
内と外ではなく、「内」であり、
光と闇ではなく、「光」である。
そこでまず、示される。
「隣人を自分のように愛しなさい」
これは、あなたと私を超える(統合)ということだ。これはあなたと私を平等に見ることであり、そのために、世界(他者)への執着と、自我を手放さなければいけない。
これは、単にあなたと私が同じということでもない。「あなたの中に私がいて、私の中にあなたがいる」のだ。
続いて、「悔い改める」ことは、目覚めることとも同じ意味であるが、それを見ていこう。
悔い改めとは、悔心または回心と呼ばれ、「信仰の目覚め」であり、全人格的な転換を意味する。
それによって、生まれ変わって、全く違う自分になるのだ。
そこで、選択肢が2つある。
「神」か「富」かだ。
富とは、社会の象徴である。
では、社会とはなにか?
社会学において、社会の最小単位は「あなたと私」だ。
では、神とは?
「私(I am)」である。
しかし、もっと言えば、I amではなく、「I am who I am」である。
つまり、「私である『私』」だ。
あなたと私の社会的な私ではなく、「私」だ。
このあなたと私が社会で、それを超えた「私」が神なのだ。
それでは、どのように神の国(永遠の生命)を得るのか?
イエスは、「神を知ることである」と言う。
ここでも、神とは、「私」である。
つまり、「私」を知ることとなる。
神でないものは、自我だ。
そのため、「私」は自我ではない。
スピリチュアルで言うハイヤーセルフと呼べるだろう。
しかし、ハイヤーセルフにもまだ自我が混ざっている。
今度はそのハイヤーセルフを手放していく。
「心を尽くして、思いを尽くして、精神を尽くして、神を愛しなさい」と。
つまり、「私」が私自身に、完全に明け渡すのだ。
そうして、神の国へ入る。
そこに、なにがあるだろうか?
行ってみれば、分かる。
そのときまで、それを知る必要はない。
それを知ろうとあれこれ探すことが、自我を明け渡さないということになるからだ。
今度は、二極化について見ていこう。
これは、明らかに「神」に仕える者と「富」に仕える者との分裂だ。
「目覚め」か「眠り」かの選択に違和感がある人はいるだろう。なぜなら、それらを聞いて「眠り」を選ぶ人はいないからだ。
つまり、もう知らなかったとはない言えないのだ。知ってしまったならば、目覚めなければいけない。
しかし、この「眠り」も実は、一見魅力的に見えるのかもしれない。そうでなければ、それに(無自覚にでも)留まる人はいない。
我先に、門を入ろうとする者は、見失ってしまう。
イエスが言う眠りは、「富(社会)」に仕えることだ。「神」に仕えることは、社会を否定することではないし、肯定することでもない。そのため、否定や肯定することこそが、眠りとなる。
求められているのは、自我(あなたと私)を手放すことだ。
眠っている人は、眠っていることを知らない。目覚めたときに、これまで眠っていたことを知るのだ。
では、なぜ目覚めることができるのか?
それは、そのときが来ればそうなる。
そして、それを知らせるのが「福音」だ。
その福音は、これまで見てきたように、「内」から来る。一見、外にあるように見えても、「私」の内にある。
イエスは、「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしを遣わされた方を信じるのである」(ヨハネによる福音書)と言う。
その方(神)こそが、「私」だ。
あなたは、「神(真理)」に仕えるか、「富(社会)」に仕えるか、どちらか一方にしか仕えられないとしたら、どちらだろうか?
真剣にこのことを問い、決意するならば、真実はもう目前だ。なぜなら、これは選択ではない。神を知っているか、知らないかのどちらかなのだから。
よくスピリチュアルで、この世界を経験しに来た、と言うのを聞く。私は疑問に思う、なぜ完全な神が退屈したり、楽しみを求めたり、さらに経験する必要があるのか?
もしそうならば、またいつか再び同じことを繰り返さなけばならない。
私にとっては、神を知るために来たのではないかと思う。それが意味するのは、神と神でないもの(世界)を知るためということだ。
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