「信仰」≠信じること

信仰とはなにか?
信じることだろうか?
世間の人々はそのように言うかもしれない。

イエスの生きた時代、ユダヤ人はユダヤ教徒であった。アブラハムの神を信じ、戒律もある程度は守っていたことだろう。
しかし、彼らに対して、イエスは信仰がないと言う。また律法学者などに対しては、偽善者とまで言う。
つまり、イエスの言う信仰は、信じることではないのだ。

ところで、この信仰という翻訳は誤解を生むと、宗教学者によっても指摘されている。
正しくは「忠実さ」のようなものだと言われる。
僕の主人に対する忠実さだ。

信仰とは、宗教は関係ない。
宗教はその人の生まれた環境や社会によってある程度は決まる。
そういった社会的事柄と、信仰は関係ない。
なぜなら、信仰は個人的なものだから。

ほとんどの宗教の目指すことは、共通している。
それは自我を克服することだ。
キリスト教であれ、イスラム教、仏教、ヒンドゥー教であれ、変わらない。

それら宗教は、信仰の道智慧の道の2つに分けることはできる。
信仰の道は、自己を明け渡すこと。それにより、自我を克服する。
智慧の道は、自己を知ること。それにより、自我が実在しないことを見抜く。

信仰とは、自己放棄が前提となる。
一方、信じるとは、自我が判断することだ。信じるか疑うかの選択によるものだからだ。

信仰とは、自由になることだ。
(自我による)選択とは、不自由を前提とする。
なぜなら、選択肢には制限があるからだ。

選択肢を増やすには、社会的な権利を拡大させるしかない。
権力か富だ。
しかし、当然限界はある。そして、それが競争を生み、不平等も生まれる。
誰かの制限の代わりに自らの自由を得ようとしても、不平等な社会で自分だけ幸福になろうとして、そんなことは可能なのだろうか?

信仰とは、信じるか疑うかの選択を乗り越えることだ。
疑いの前提(選択肢)が成り立たない、真に信じることとも言うことができる。

ここで、盲信とはどう違うのか?という疑問が生まれる。

信仰と盲信は、根本的に異なるものだ。

そもそも人は信じることを願う。
なぜなら、疑うこと(迷いや悩み)に苦しみを感じるから。
その苦しみ、疑いから逃れようとすること、それが盲信である。
盲信を維持するためには、無理にでも信じ込もうとする。
そして、そのためになんらかの根拠を求める。
権威ある教えや人々、神々しい像やイメージなどだ。

しかし、根拠があるということは、選択肢があるということだ。
信じられる根拠は、当然疑う根拠にもなり得る。
疑いようのない根拠はありえない。
哲学的にも科学的にも、そうであると言える。
そもそも神学では、人間は神について絶対に知ることができないとされる。
つまり、神を信じる根拠は全くない。
神は根拠なく存在しうるものだ。
もちろん、神が存在しない根拠もない。
神は肯定も否定もできないものなのだ。
なぜなら、肯定と否定をするのは自我だから。
これは真実も同じだ。

だからこそ、真実(神)に対しては、信じるか疑うかの選択の無い、信仰が可能になる。

神と概念(自我)を並べてみることはできないのだ。
概念でないもの、自我でないものは唯一神しかない。それはなんと呼んでも構わない。神には名前がないのだ。本当には呼ぶことなどできない。

では、信仰は非科学的で取るに足らないものと考える人がいるかもしれない。

そうではない。
そもそも人は根拠があって存在しているのではない
自分がいるということに、疑いの余地はない。
自分の存在も、なにも確信できずに、日々を生きることは可能だろうか?
科学的以前の問題として、人としてある限り信仰は誰にでもある。
そのことに無自覚でいるだけだ。

本来の意味の宗教とは、それ無しでは生きていけないものだ。
すべての人が、なんらかの宗教に属していても、無宗教でも、科学やお金を信奉しようと、みんな共通した信仰を持つことはできる。
信仰とは、信じる対象が問題になるのではない。
信仰とは生きることであり、自分自身の存在に関わることだ。

だから、イエスは、信仰がなければ、死んでいるとまで言う。

そして、信仰は自我を放棄することによって、可能になる。
自我が選択肢を生み出すからだ。

さらにここで、自我を放棄したら、誰かの奴隷になってしまうのではないか?という疑問が生まれるかもしれない。

しかし、人はなにかに依存しなければ生きていけない
社会(他者)に依存したとき、人は社会(他者)の奴隷になる。
富に依存すれば、富に奴隷になり、
選択肢に依存すれば、その選択肢の檻に自ら入ることになる。

信仰は、真理(神)に依存することだ。
神は誰のものでもない。それは人間に作られたものでも、目に見えるものでもない。
神の奴隷になったとき、どんな不利益を被るだろうか?

むしろ信仰によってのみ、人は自由になれるのだ。
そして、それは自立することでもある。

この意味で、新約聖書の福音書では、イエスは徹底的に一貫して、この信仰を説く。

人が信仰を確立すると、宗教からも自由になる
それは宗教を肯定することでも否定することでもない。
しかし、根拠を求める人々は、象徴に集まる。
そうして、様々な宗派が生まれていく。


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