「古(いにしえ)の道」

「古(いにしえ)の行法」がある。古いからそう呼ばれるのではなく、古代から変わらない普遍的なものだから、そのように呼ばれる。いつの時代でも古(いにしえ)なのだ。
その行法は「無為(しない)=Being」ゆえに変わらない。変わるものは「有為(する)=Doing」だ。
Being(あること)は、Doing(すること)に先立つ。Beingが無ければなにも行為することはできない。Beingが根源であり、すべてはそこにある

それは「道」の行法でもある。道とは、行くものではない。むしろ帰るためのものだ。現在地と目的地の分離がない(非二元)のが「道」である。
それでは、なぜ「道」と呼ばれるのか?
それは一つの終わりであり、終わりの始まりだからである。道を見つけ、道を終え、道そのものを超えるための「道」。

「無為」と「有為」を超えたところに完成がある。

その「道」はいつの時代もあった。しかし、印を求める人は、その道を忘れてしまう。そして、新たな非道を作りだす。

「道」は隠されることはない。隠されたものは道ではない。道を忘れた人は、それが目の前にあることに気づかない。探し求める人は、道草を食う。その道はいつも「内」にある。私たち自身が「道」である。

ここに、すでに示されている「道」を、私なりに記そう。忘れることのないように。


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