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笑って

『タンスの角にものすごい勢いで小指をぶつけるあれ、痛いですよね〜
一説によると足の小指の位置までは正確に脳が理解できていないとかなんとか…』
大流行したウイルス騒動もようやくひと段落し、テレビから聞こえて来るニュースにも日常が戻りだした。

明日は月曜日。
明日から遅めの新学期を迎える巳波は、市内の高校に通う二年生だ。
新学期の準備に大変てまどっていた。提出物や体操服の準備まで終わっているのに、いまいち心の準備が整わず、ぼーっとテレビを見ていた。

姉のチカが
『会話の引き出しが多い人いいよね〜』
と友達と電話で話していたのを盗み聞きしてから、必死に引き出しを買い足しては色々なものを詰め込んでいる。

巳波は入学後からずっと同級生の夏美が気になっている。夏美とは同じ中学だったが、全く面識がなかった。家が近いという理由で仲良くなり、それから学校でもよく話すようになった。
彼女は大人しくて、休み時間は読書をしているような子だ。かといってクラスで浮いているわけでないく、知識が豊富な彼女が時々放つ言葉には皆が耳を傾けている。そんな彼女が時々にっこり微笑む所に、なにより巳波は惹かれたのだ。

そんな彼女の笑顔を拝むために引き出しを増やしているわけだが、そもそも趣味が読書の彼女に対して引き出しで勝負するのはいかがなものなのだろうか。彼女の好きそうな語言や言葉についてのまとめサイトをいくつか見て明日に備えることにした。弁当の時間に班が一緒なのてそこで披露する予定だ。

4時間目の現代文の授業の終わりを知らせるチャイムがなった。
いよいよだ…
弁当を口に運びながら、昨日詰め込んだ引き出しを順に開けていった。よし。行ける。

『なんでさっきからぼーっとしてるの?』
虚をつかれた巳波は嬉しさと驚きでほとんどパニック状態に陥った。
『な、なんでも無いよ!それよりさ…』
そう切り出して、昨日詰め込んだ引き出しを再び漁り出したが、もう何も入っていない…!
慌てふためいて引き出しの前を行ったり来たり。隅の方の引き出しにやっと1つ、何かを見つけた。焦る巳波は何かも確認せず、とりあえずそれを口にした。

『引き出しに小指ぶつけるのってなんでか知ってる⁉︎』口走って後悔した。全然語源や語彙に関係ないじゃ無いか…

しかし、意外にも彼女は楽しそうに
『私も昨日それ見た!』と理由まで丁寧に解説し、最後にこう付け足した。
『巳波くんよく小指ぶつけてそう』といたずらっぽく小さく微笑んだ。

あれはどういう意味だったんだろうか…
夜な夜な彼女の笑顔とあの言葉を思い出して、考えていた。
引き出しの前を右往左往する僕は確かに、小指を思い切りぶつけていただろう。そんな胸の内まで読み切った発言だったのだろうか?

目覚ましの音で目が覚めた。ベッドから起き上がり一つ伸びをしてカーテンを開けた。5月の空は快晴だった。部屋を出ようと歩き出したら脇の引き出しに思い切り小指をぶつけた。
痛ってぇ…
僕の脳もどうやら小指の位置はどうやら理解していなかったみたいだ。

また昨日の出来事を思い出した。

まぁ、でも笑ってくれたからいいか。
そうだ。
夏美に笑ってほしくて引き出しを増やしたんだ。カッコ悪くたっていいじゃないか。

もう小指の位置は分かったはずだ。
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