信じる強さと、信じない強さ

ちょっと思い立って検索してたら、trustは「(人物そのものを)信じる」という意味で、believeは「(その人の言っている話の内容を)信じる」という意味だそう。
日本語にするとどちらも「信じる」なんだけど、英語だとこういうニュアンスの違いがあるんだなと勉強になったのと同時に、もしかしたら、これを区別しないことで、日本人はtrustとbelieveを混同しやすいのかもしれない、と思ったりした。

trustは人物そのものを信じるということだから、その人物が信頼するに足る人間かどうか、長い時間をかけて慎重に見極める必要があるし、その決断は非常に重いものになるはずだ。
一方で、believeはそのひとの言っている内容を信じる、ということだから、その内容が信憑性があると思えば信じればいいし、確証がないなら信じなければいい。つまりケースバイケースに判断すれば良い。

全然信頼するに足らない、薄っぺらいことばかり言っている(ように思える)ワイドショーのコメンテーターが正しいことを言うこともあれば、誰もが人格者であると認めるような人物が間違った事実を発信することだって当然あり得る。
一方で、たまたまよいことを言ったからといって、その人が信頼に足る人物であると判断するのは危険だし、逆に、間違ったことを言ったからといって、その人格者が信頼に足らない人物であったと考えるのは極端すぎる。
100%正しい人間など存在しないし、「この人の言うことは100%正しいはずだ」と鵜呑みにするほうがよほど危険だ。

まあ、信じる(believe)に足る発言の積み重ねが信頼(trust)を作ることは間違いないから、全く別のものではないけど、基本的には、believeとtrustは分けて考えるべきものである。
そのはずなんだけど、このふたつを混同している人が、けっこう多いように思う。

自分の考えに近かったり、「よいことを言っているな」と思ったりするような相手に対して、ポジティブな感情を持つのは自然だと思うけど、だからといって、その人が信頼できる人物であると判断するのは早計だ。
人間には、「自分が信じたいものを信じる」という甘美な落とし穴がある。まず「信じたい」が先にきてしまうと、自分を納得させるために、信じるに足ると思う理由を後づけで探してしまう。
買い物をするときに、とにかく「ほしい」が先にあって、必要な理由をあとから考えるようなことってあると思うけど、理想としては、必要な理由がまずあって、だから「ほしい」、だから「買う」が正しい順番なはずだ。

結婚詐欺師って令和の時代にまだいるのかわからないけど、あれもみんな、自分は絶対に大丈夫だと過信しているような人が騙されると聞く。
結婚詐欺師っていうのはある意味職業なわけで、その道のプロだから、それはそれは魅力的な人物なんだろう(少なくともすぐには見破れない程度には)。そして、その相手に好意を持ってしまうと、その人とずっといっしょにいたいという自分の気持ちから、つい「信じたい」と思ってしまい、信じる理由を探そうとして、相手の思うつぼにはまってしまうのだと思う。

こういうときって、周りの人がいくら注意したり、忠告したりしても、どうにもならないことが多い。「もしかしたらだまされているのかも」と、頭の片隅ででも考えることができる人は、そもそも最初からだまされないし、すでに騙されている人は、「もしかしたらだまされているのかも」なんて全く考えていないから、周りがいくら忠告しても聞く耳を持たないのだ。

この人を信じたい、だから信じられる理由を探す、のではなく、その人の信用できる言動の積み重ねがあって、はじめて、この人を信頼してもいいかもしれない、と思うようになる、というのが望ましい。信頼するかどうかの決断は非常に重いもので、信頼すると決めたなら、仮に裏切られたとしても自分の判断が間違っていたのだから仕方がないと思えるくらいでないといけないと思う。簡単に人を信頼してはいけない。

逆に、自分がすごく信頼している人の言うことだったとしても、それを全部鵜呑みにして信じてしまうことは間違っている。信頼している人だって、人間である以上、間違うこともある。
信頼と盲信は似て非なるもの。それは常に頭においておく必要がある。


そして、このtrustとbelieveの違いは、他人に対してだけでなく、自分に対しても、意識して使い分ける必要がある。と思う。

自分の結論から言うと、自分の考えや行動に対して、常に、「もしかしたら自分が間違っているかもしれない」という疑いの目が絶対に必要なんだけど、その一方で、「自分という人間に対する信頼」は常に揺るがないことが望ましい、と考えている。

「自分に自信がない」という人がいる。それはある意味で健全で、ある意味で健全でない。
「自分の考えや行動が間違っているかもしれない、だから自信がない」というのであれば、それは極めて健全な考え方だと思う。自分は常に正しい、間違っているわけがない、と考える方が傲慢だし、とても危険だ。「間違ってるかもしれない」と思うからこそ、違う意見にも耳を傾けられるし、自分の考えや行動のよくなかった点を冷静に振り返り、反省して、修正していくことができる。これは成長するのに不可欠な視点であり、むしろ必要だ。
ただ、「自分自身が信頼できない」とか「何をやってもダメだ」とかの意味で「自分に自信がない」と言うのは、あまり健全でないように思う。健全でないし、建設的でもない。完璧な人間なんていないし、失敗せずに順風満帆の人生なんてあるわけがない。うまくいかなかったときに「どこがよくなかったか」とか「じゃあどうすればいいか」とかを考え、修正して、再試行してみる、その繰り返しが人生なんじゃなかろうか。

だいたい、人生に正解などない。あるわけがない。生きている意味すら曖昧だ。自分で意味を見出すしかない。オープンワールドのゲームとしても自由度が高すぎるし、セーブもロードもできないし、そもそもキャラクターメイキングもさせてもらえないまま放り込まれ、物心つく頃にはもうゲーム開始から何年もたっているという状態だ。開発者に文句のひとつも言いたくなるが、さりとてリセマラもできないし、与えられたカードで勝負するしかない。
でも、公式のクリア目標があるわけでもない(遺伝子的には子孫を残すことかもしれないが必須ではない)し、好きに生きれば良いわけだから、自分が進みたい方向に進んで、生きたいように生きて、死をむかえればよい。「悪くない人生だったな」と思えればグッドエンドだと思うし、幸せの価値観は人それぞれだから、自分なりの幸せを見つけられれば、意味があったと言えるんじゃなかろうか、というのが自分の人生観。

話がそれてしまった。自分を信じるとはなにか、という話。

さっきの結婚詐欺の話のときにも書いたんだけど、実は、自分という人間を信頼(trustの方ね)できていない人ほど、自分の考えや行動が「間違っているかもしれない」と疑うことができない。それを疑いだすとすべてが決壊してしまうから、どんなに周囲が忠告しても、頑なに盲信して突き進むことしかできない。

逆に、本質的な意味で自分のことを信頼できている人間は、たとえ自分の考えや行動が間違っていたとしても、そんなことのひとつやふたつで自分に対する信頼が揺らぐことはないから、いつも「本当にそれで正しいのか」とか、「もしかしたら間違っているんじゃないか」とか、自分を冷静に批評することができる。そして、間違っていたと思えば、素直にそれを認め、反省し、修正して、次につなげることができる。

つまり、「自分を信じる」と一口に言っても、それは、意味合いによって、弱さにも強さにもなる、ということだ。
自分の本質を信じる強さがあれば、自分の考えや行動を疑うことができる強さが生まれるけど、「自分は絶対に間違っていない」と盲信してしまうことは、自分が間違っているかもしれないと考えられない弱さや脆さにつながる。
柔らかくてしなやかな物が実は強くて、固くて柔軟さのない物は実はもろくて壊れやすい。人間も同じだね。

だから、自分を信用しないことと、自分を信頼することは、矛盾するようで、ちゃんと両立する。
自分の本質を信頼するからこそ、自分を過信しないでちゃんと疑うことができるし、そういう人が成長していけるのだと思う。

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