愛しき世界

「おちっこでちゃった…」
と耳元で言われて飛び起きる午前3時。
泣きそうになっている息子を抱えながら急いでベッドパッドをはぎ取ってマットレスが濡れていないか確認、そのままダッシュで下に降りて息子のパジャマを脱がせて体を拭き着替えさせ、濡れたパジャマとベッドパッドを軽く水洗いして洗面器につけ置き、ぐずる息子を抱っこして寝室に上がり、パパのベッドの方で寝かせる。
息子はすぐに眠ったけど、パパの方は、寝ているところからいきなりトップギアに入れてしまった代償でしばらく眠れなかった。おかげで今日はずっと眠い。

歳をとってからの子育ては、体力的にしんどい面もあるけど、年齢を重ねている分、ちょっとしたことではイライラしなくなっているのはよい点だなと思う。息子が何をしてもまず「かわいい」が先にくるし、息子というより孫みたいな感覚なのかもしれない。孫いないからわからないけど。
今も「おちっこでちゃった…」を反芻してニヤニヤしている。かわいい。

思い返してみると、まあまあ久しぶりのおねしょだった。当たり前のことを言うようだけど、やっぱり、徐々にその頻度は減ってきている。
そうはいってもまだ完全になくなる年齢じゃないけど、これからも、その頻度は徐々に減っていき、そのうち、ちゃんと自分で起きてトイレに行けるようになるのだろう。それはそれでちょっとさみしい。


俵万智さんの短歌で、

最後とは知らぬ最後が過ぎてゆく その連続と思う子育て

「未来のサイズ」

という、とても好きな歌があるんだけど、その歌を思い出した。

当たり前だけど、「今回が最後のおねしょです」みたいな告知はない。
だからそれが最後であるということは誰も気付かず、かなり後になってから振り返った時に、結果的にあれが最後だったな、ということがわかるわけだ。

俵さんのおっしゃるとおり、本当に子育てはその連続。

娘はいつか抱きついてこなくなるし、手もつなぎたがらなくなるのだろう。
息子もいつかはパパのおなかの上で寝なくなるし、「あいきー(大好き、の意)」と言って抱っこされに来なくなるし、大きくなったらカエルになる、という夢も言わなくなる日が来る。
それが最後であったということもわからないまま、その最後が過ぎていく。

そして、もちろん、これは子育てに限ったことではない。

「推しは推せるときに推せ」とは、ヲタクなら誰もが知る名言だが、これも、当たり前にあると思っていたものが急になくなるかもしれない、結果的に前回のライブが最後のライブになるかもしれない、だからこそ、後悔しないように、推せるときに推しておきなさい、ということだ。

今は離れて住んでいる母親に、生きているうちにあと何回会えるのだろう、と思うことがある。性格的には合わないので、会うと数時間くらいで胸やけがしてくるんだけど(笑)、でも、できるうちにやれることはしておかないとな、という気持ちにはなる。

自分自身のことだってそうだ。
自分は夏が大好きだから、毎年、夏が終わりに近づくたび、「来年も夏を迎えられるのかな」とか、「自分はあと何回、夏を迎えられるのかな」とか考える。別に不治の病を抱えているわけでも余命宣告されているわけではないんだけれど、自分の父親や祖父が亡くなった年齢を考えると、残された時間はそんなに長くないんじゃないかな、と思ったりしている。自分にとって、生きることとは、死ぬまで生きることだから、死をむやみに遠ざけたりせず、ちゃんと向き合いたい。

それが最後とは気づかないまま、最後が過ぎていくのだとしても、そのときに、「これが最後だったかもな」って、なるべく考えられるようにしたいのです。

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