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散るな まだ、春吹雪

新年度がはじまり、自分の仕事や立場などは何もかわらないけれど、入職や異動があり、職場での自分をとりまく環境には多少の変化があった。当事者の大変さには比ぶべくもないが、それ以外の人間にとってもこの時期は多少の落ち着かなさを感じる。恒温動物がホメオスタシスを保つために多くのエネルギーを使う「季節の変わり目」という時期は心身とも余裕がなくてただでさえ不調をきたしやすいのに、そこに年度替わりという余計な要因が重なっており、春先に無理をしてがんばりすぎて後でツケを払う所謂「五月病」も含め、春は調子を崩す人が多い。花粉症の人はそこにさらにストレスが加わるんだから本当に大変だと思う。年度替わりを別の時期にすればいいのに、といつも思うけど、かといって何月ならいいのかという妙案も思いつかない。慣れているから今のままがいいのかな。咲いて散る桜が別れや出会いをよりセンチメンタルに彩ってくれるから、春は無理に抗おうとせずに感情に任せて感傷に浸るべき時なのかもしれない。

犬の散歩から帰ってきてハーネスを外したら、隙間から桜の花びらがこぼれて床に落ちた。思ったより長持ちしてくれた今年の桜ももう終わりが近い。
歳を重ねると、切実に、あと何回、春を迎えて桜を見られるのだろうって思うし、大げさでなく、来年の桜は見られるのだろうか、と思う。たぶん、それが最後だったとは気づかぬままに春は過ぎていく。そう思うとよけいに愛おしい。
桜が咲いてからというもの、頭の中にずっと「春泥棒」が流れ続けている。

高架橋を抜けたら雲の隙間に青が覗いた
最近どうも暑いからただ風が吹くのを待ってた

木陰に座る
何か頬に付く
見上げれば頭上に咲いて散る

はらり、僕らもう息も忘れて
瞬きさえ億劫
さぁ、今日さえ明日過去に変わる
ただ風を待つ
だから僕らもう声も忘れて
さよならさえ億劫
ただ花が降るだけ晴れり
今、春吹雪

次の日も待ち合わせ
花見の客も少なくなった
春の匂いはもう止む
今年も夏が来るのか

高架橋を抜けたら道の先に君が覗いた
残りはどれだけかな
どれだけ春に会えるだろう

川沿いの丘、木陰に座る
また昨日と変わらず今日も咲く花に、

僕らもう息も忘れて
瞬きさえ億劫
花散らせ今吹くこの嵐は
まさに春泥棒
風に今日ももう時が流れて
立つことさえ億劫
花の隙間に空、散れり
まだ、春吹雪

今日も会いに行く
木陰に座る
溜息を吐く
花ももう終わる
明日も会いに行く
春がもう終わる
名残るように時間が散っていく

愛を歌えば言葉足らず
踏む韻さえ億劫
花開いた今を言葉如きが語れるものか

はらり、僕らもう声も忘れて
瞬きさえ億劫
花見は僕らだけ
散るなまだ、春吹雪

あともう少しだけ
もう数えられるだけ
あと花二つだけ
もう花一つだけ
ただ葉が残るだけ、はらり
今、春仕舞い

ヨルシカ「春泥棒」歌詞

なんて美しい詞なんだろう。母国語が日本語であることへの感謝を感じずにはいられない。そしてこの映像をみて、改めて先日のライブで観た物語を想う。最後、花びら舞う「春吹雪」のなかで聴いたこの曲、その光景を、自分は生涯忘れないだろう。次のツアーのチケットがとれなかったことは痛恨の極みだけど、このライブを観れたことは本当に幸運だった。映像化が楽しみ。

何度か書いているけど、人生は、手段のための時間と目的のための時間でできている、と思っている。
目的とは、自分が本当にしたいことであり、趣味だったり、家族や恋人とすごす時間だったりがそれにあたる。手段は、生きていくためにせざるをえないことであり、お金をかせぐことが主にこれにあたるのかなと思う。仕事が生きがいであったりする場合は目的と手段を兼ねていると言えるし、食事や睡眠なども、生きていくために不可欠な手段でありながら楽しみや幸せに通じているという意味で両方を兼ねていると言えるかもしれない。
そして、手段は最大限に効率化すべきだけど、目的は効率化してはいけない。コスパやタイパなどはあくまで手段のためのリソースを効率化するためにあるべき言葉である。手段のための時間が長くなるほど、目的のために使える時間が減ってしまうんだから、少しでも時給が高い仕事に就くべきだし、同じ性能のものなら安いものを購入したほうが、目的のために使えるお金が増えるわけだ。でも、例えば車が趣味の人が、燃費も悪いしメンテナンス費用もかかる高級クラシックカーを購入したとき、その人にとって、その車は手段ではなく目的の方にあたるから、興味ない人からみたら極めてコスパが悪いと感じるその出費にも、充分な意味があるといえる。何が手段で何が目的かは人それぞれだから、他人がとやかく言う意味はない。
ただ、自分自身が、それが自分にとって手段なのか、目的なのか、それを認識しておく必要がある。目的を効率化する必要はない。無駄で無意味であればあるほどよいとさえ思う。わざわざお金と時間を使って疲れに行く音楽フェスなんて興味ない人からしたら意味がわからないと思うけどあれこそ最高だ。
そして手段のために目的を犠牲にするのは実に本末転倒である。多くの人にとって仕事はあくまでお金をかせぐための手段にすぎないと思うんだけど、その仕事のために自分のやりたいことを諦めてしまう人が多すぎる気がする。仕事が忙しいから好きなアーティストのライブを断念するなんてばかげている。そういう生活を続けていると、大袈裟に言うと何で生きているのかだんだんわからなくなってきてしまう。極端すぎるけど、個人的には、やりたいことをやらずに80年生きるより、やりたいことだけやって20年で死ぬ方がずっと意味があると思う。アリはアリで働くことに生きがいを見出しているのかもしれないけど、キリギリスの生き方のほうがよっぽど共感できる。自分は、家庭の用事でライブを諦めることはあっても(家庭も生きる目的の方だから仕方ない)、仕事の都合でライブに行けなくなるくらいだったら転職する。バイト代をほぼすべてヲタ活につぎこんで自分はいつもジャージを着てる、推し武道のえりぴよこそが目的のために生きる人間の姿だ。みんながそうあるべきだ、とは思わないけど。
とはいえ、人生の目的なんてそう簡単に見つかるものでもないし、また、一見無駄にしか見えない辛い経験が成長につながり、後々の自分の幸せに通じていることもあるから人生はおもしろい。目的がだんだんとかわってくることもあるし。ただ、つらいときには、それが自分にとって、目的なのか、手段なのかを、改めて見つめ直すとよいのではないかと思っている。

先日の為末さんの記事。

自分も以前、同じような記事を書いたことがあったのでうれしかったし、改めてそうだよなと思った。

だから、結局、AIの時代に生き残る人間は、真摯さ、つまり、一貫した誠実さや正直さのある人間なんだと思う。優秀であれば人間性は問われない、なんていう時代はもう終わる。というか終わってほしい。少なくともAIが代用可能そうな分野においては。

技術が進歩すると人間的な部分が必要なくなるのではなく、むしろ、より人間の本質的な資質の方が重要視されるようになる。
というのが自分の予測であり、同時に願望でもある。

AIが進化した結果、人に求められる資質が、能力や専門知識、資格などではなくなって、「いい人かどうか」になったら最高だなと思う。もっと言えば、愛想の良さとかコミュニケーション能力が高い、とかではなくて、誠実さ、真摯さなどで評価されるようになったらいいな。

最後に。
尊敬する、大好きなひとにまた想いを伝えられる幸せをかみしめています。本当にありがとう。

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