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不知火

「馬鹿に、馬鹿にしないでよ」
彼女を怒らせた、とわかったのは彼女の瞳の奥に静かに揺れる焔に気付いてしまったからだ。
要するに、時既に遅し。
ゆらり、ゆらり。
震えるように揺れる小さく強い灯火。
水底で燃える焔。
「私、は、守られないといけないような、そんな、女の子じゃない。
 何も知らないような、何もできないような。
 自分でどうにか、できる。自分で、どうにかする」
余計なことをしないで。要らない。
震える声で、つっかえつっかえの不細工な話し方で、そこまで言うと彼女は吸いかけの煙草をぐしゃりと潰して喫煙所を出ていってしまった。
彼女の髪の甘い匂いが幽霊みたいに静かに居座っていたかと思うと僕の吐き出した煙に掻き消された。
僕はどうやら、やらかしてしまったらしい。
行き場のなくなった純粋な善意が胃の奥で静かに苛立ちへと変質していく。
なぜ、と地団駄を踏む幼い僕がそこには確かにいた。
僕ならどうにかしてやれると。
彼女を救ってやれるのだと。
何でわからないのか。
どうして、わかってくれないのか。
彼女はあんなに愚かだったのか。

「それで?お前は石神ちゃんに何したわけ?」
熱を孕んだざわめき。
たくさんの笑い声や話し声がさざ波のように寄せては返す。
醤油やみりん、砂糖の焦げる香ばしい匂いと、煙草のそれとは違う油っぽい煙で白んだ視界。
お通しで出されたキャベツの山を割り箸で崩しながら空いた手でビールジョッキを傾ける先輩を横目に僕は頬杖をついた。
先輩は興味2割、呆れが4割、残りは「どうでもいい」とでも思っているのだろう。
雑なようで案外面倒見の良い先輩に声をかけられたのが今から1時間前。
先輩いわく「仲が良いやつらに限って拗れると面倒なんだよ」とのこと。
いつも仲が良い、という言葉に僕は鼻の頭を掻いた。
そんな風に見えていたらしい。知らなかった。
もっとも先輩からすれば、3年下の同期コンビ。
そう見えていたとしても不思議ではない。
この店にも、先輩と僕と石神とで何度か来た。
うっかりすると、僕の左隣から石神の楽しげな笑い声が聞こえるような気がする。
小柄な外見を裏切るような快活な笑い声。
「いや、わかんないすよ。急に切れられたっていうか」
「それ本気でいってる?」
最初の方に頼んだ豚串にかぶりつく先輩。
さっきまで4割程度だった「呆れ」が5割程度まで増える。
「いやだって、俺なんにもしてないっていうか。
 むしろ困ってそうだったから手伝おうって思ったのに、それで切れられても困るくないすか」
「それってあれだろ、吉井の件」
ほら、と先輩は行儀悪く食べ終えて素っ裸になった竹串を上下させる。
先輩が言わんとしていることはすぐわかった。
最近石神が抱えている「困っていそうなこと」。
トラブル未満ではあるが、いつ爆発するとも知れないトラブルの種。
吉井と石神の関係は正直最悪だ。
10歳近く歳上の吉井と、まだまだ若手と言われる石神。
あるちょっとした企画のリーダーに石神が抜擢されたのがそもそもの始まりだったのだろう。今までは先輩のアシストに近い立ち位置でやってきた石神がリーダーになったのは、単純な話石神がそれなりに優秀でそして企画の立案者だったから。
たったそれだけの分かりやすい理由だ。
僕は「石神のサポート」という名目で同じ企画に配属された。
相談しやすい同期がいた方が何かと石神もやりやすいだろう、という上司の配慮ということくらい誰が見ても明確だった。
それに僕のようなちゃらんぽらん、というか人当たりの良さくらいしか取り柄のない責任感に欠けた人間がリーダーになるのはどう考えたって悪手だ。
もっとも僕はリーダーなんてごめんだし、シンプルに石神の企画が面白そうだったから一緒にやりたかったため、この立ち位置に何の不満もない。
石神をリーダーとして、僕、派遣社員の御影さん、そして吉井が同じチームになった。吉井はそれなりに業界経験も長いし手が空いていたという理由だろうというのが僕と先輩の推察だ。
それがよくなかった、というか吉井は決して悪人ではないもののどうにも困った性質の持ち主らしいとわかったのは企画が始まってすぐのことだった。
資料提出は期限に間に合えば良いほうで、大抵は3日近く遅れる。
会議では資料をろくすっぽ読まずに発言する。
石神の指示を無視して、異なることを始める。
石神が行った合理的な業務振り分けを無視するお陰で、無駄にした時間たぶん結構な量になるんじゃないかと思う。
「吉井はさ、まあ悪いやつじゃないんだよな。
 細かいところに気づくこともあるし、調子に乗せてうまく操縦すればそれなりの成果も出す。気に入ったやつに対しては面倒見だって悪くない」
「そうなんですよね」
そこなんだよなあ、と先輩は酒臭い息を吐く。
年下の女性に対して態度が軟化する男は多い。
ただ、その逆に年下の女性に対する態度が正直よくない男も一定数いる。
それはただ単純に彼女らを侮っているからなのか、それともなけなしのプライド故なのか、それとも今まで刷り込まれてきた価値観から来ているのか。
どれが理由なのか、なんとなくわかるような気もするしあまり理解したくもないという気もする。
そして運が悪いことに、吉井は一定数いる後者だった。
さらに運が悪いことに、そういう人間に対する耐性や適当におだててあしらうなんていう高等技術を石神は持ち合わせていない人間だった。
僕は少なくとも石神に比べて吉井に気に入られている自覚はあったし、吉井のようなタイプの人間を適当におだてて良いように使う方法にも心当たりがある。
だから。だから、僕は石神に進言したのだ。サポート役として。

「吉井のことはこっちでどうにかしてやろうか」


「そういったのか?」
「はい。だってその方が話が早くないですか」
「それだけ?本当にそれしか言ってないの?」
えっと、と僕は思い出す。
あの苦い匂いが充満した喫煙所。
大きな眼の奥で揺れる彼女の焔。白々とした喉が生き物らしく震えていた。
「俺の方が吉井さんとうまくやれるし、くらいは言ったかも知れません」
それだろ!それだよお前!!と先輩は急に声を大きくする。
なんでそう要らないことをいっちゃうかなあ、と先輩は大きな背中を丸めて頭を抱える。短く刈り込まれた髪に先輩の太い指が埋もれるのが見えた。


あと1時間足らずで終電が来る。
いつもは人が絶えず喋ったり、慌ただしく動き回ったりしているオフィスが今はひどく静かだ。人がいないというだけで、広く感じる。
見慣れた仕事場のはずなのに。
ぴー、ぴー、がたん、がたん、がが、がが。
普段は気にも留めない複合機の稼働音が妙に耳につく。
複合機の前で明日のプレゼンに使う資料が印刷されていくのを大人しく見守っている彼女の背中を横目に僕はホチキスやらファイルやらを準備する。
細くて小さな背中だ。
ポニーテールの間からほっそりとした白い首が見える。
あの日怒りを露にした瞳は、今は伏せられて睫毛の影が頬に落ちる。
あまり眠れていないのか、うっすらと目の下には隈が浮いていた。
ジー、ピピピ。
一度複合機が鳴いて、そして静かになった。
どうやら印刷が終わったらしい。
紙をまとめた彼女は慣れた様子で僕の隣に立って、プリントされたての紙を机に並べていく。僕はそれが一通り終わるまでホッチキスを片手に待つしかない。
こんなに近くに並んだのはずいぶんと久しぶりなような気がした。
あの喫煙所での一件以来、彼女とは仕事の話以外話していない。
時々派遣の御影さんの気遣わしげな視線を背中に感じて、僕は現実逃避するようにパソコンに向かった。
全く、御影さんもいい迷惑だろう。
「これが終わったら帰れるね」
「あ、うん」
「遅くまで残ってもらってごめん」
「あ、いや」
ぽつり、ぽつりとこぼれる落ち着いた声にどこか安堵する自分がいた。
ただいつもは真っ直ぐにこちらを見る眼は常に書類にのみ向いているのがどうにもやりづらい。
嫌になるくらいに気の効かない言葉ばかりを発する自分自身を殴りたくなる。
いつも通りでいいじゃねえか。
意見の相違で彼女と言い合いになったことなんて、今までもたくさんあった。
あのさあ、と順番を確かめ紙をまとめながら彼女は口を開いた。
「あの日、ごめんね」
「あの日って?」
「喫煙所で。八つ当たりみたいなものだったなって」
ふう、と息を吐いた彼女の頬には自嘲めいた笑みが浮かんだ。
「いや、俺も余計なこと言ったっていうか」
「たぶん、色々悔しかったんだよね。
 私が苦手なことを野洲は簡単そうに上手にやっちゃうし。
 吉井さんが私のこと認めてないことくらいはわかってたから、頭ではあんたに任せてしまった方が早いってことも理解できてた。
 吉井さんに可愛がられてるのも見てて知ってたしね」
「いやでもあれは」
「うん、わかってる。吉井さんがそういう人ってことは社内でも有名だから」
ああ、そうか。
ようやく僕を映した彼女の瞳の奥では、やっぱり焔が揺れていた。
「ああいう人をきっとこれからも沢山見る。
 関わらなくちゃいけない。
 こればっかりは、理想も正論も役に立たない。
 だから、やっぱり野洲の提案は飲めない。
 だけど、だけど、野洲に悪気はなかったしたぶん私のことを助けてくれようとしたんだろうなっていうのは否定すべきじゃなかった」
僕は。僕は、助けたかったのか。
理不尽なんて社会には付き物で、僕は正直のところそういう清濁を合わせ飲むのも仕事のうちだと思っている。
責任感もなければ正義感もない、ことなかれ主義者。
僕は利己的だし、他人の手助けなんてそもそも柄じゃない。
それに、少し考えればわかったはずだったのだ。
僕と彼女はなぜ気が合うのかわからないほどに真逆の性質を持っていることくらい知っていた。
真っ正面から不器用なほどにぶつかっていく彼女。
責任感と正義感に時々顔をしかめながら、必要とあれば上司にも先輩にも噛みついていく彼女を何度も見た。
ああいう僕の対応をある意味では潔癖で人に頼ることを嫌う彼女が、一人で立っていようとする彼女が、よしとするはずがないのだと。
じゃあ、なんで僕は彼女にわざわざあんな提案をしたのだろうか。
厳重に胸の奥で鍵をしたパンドラの箱が開きそうな、嫌な予感がして。
僕は慌てて彼女の両目から視線をそらした。
向かいのオフィスビルでも誰かが残業をしているらしい。
「まあ、それでも断るけどね。
 私は私でどうにかできるし、どうにかするよ」
「どうにもならなかったら?」
「その時はその時で他の方法を考える。
 私は誰かに守られなくちゃならないようなオンナノコじゃない。
 必要なら戦うし、自分が欲してる結果くらいは自分で掴む。
 じゃなくちゃ詰まんないでしょ」
なんだよそれ。めちゃくちゃだ。
なんだか力が抜けてしまって、喉から乾いた笑い声がこぼれた。
確かに僕はどこかで間違えていたらしい。
「まあ、それでも。
 ありがとうっていうべきだった。
 野洲、ありがとうね」
にかっと、彼女は口角をつり上げて子供みたいに笑った。


世話焼きもほどほどにしてね、と言うと彼女は軽く僕の背中を叩いて丁度やって来た終電に乗り込んだ。


「そんなに世話焼きじゃねえよ」


電車のけたたましい音に僕の呟きは掻き消されて、自分の鼓膜さえも揺らさない。
今はそれでいい。
僕は今にも開きそうなパンドラの箱にもう一度きちんと鍵をかけた。

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