異世界がまとまるほどに愛はどんどん膨らんでゆく
vol.67【ワタシノ子育てノセカイ】
愛を深めるほど世界は拡がる。
見えなかったものが見え、聞こえなかったものが聞こえ、感じなかったものを感じられるようになるみたい。
これまで抱いていた苦しみや辛さや悲しさは、嘘みたいに吸い込まれて自分とひとつになってしまう。自分がまとまるほど世界は拡がってゆくらしい。
つまり「私」が愛なんだ。
◇
ところで私には「実子誘拐」で6年間離れて暮らす、10代のふたりの息子がいる。
◇
2024年1月27日。次男の参観日があった。人権の授業と講演会。
結論からいうと、次男の要請により私は参加したけれど、今回もいろんな想いが複雑に押し寄せてきた。
私からするととてもシンプルな話なんだけど、社会と交わるとどうしても複雑になってしまう。今世における私の社会性のなさが、社会との乖離を感じさせるのだろう。命尽きるまで、人生の修行はつづくらしい。
社会性の乏しい私が陥っている、実子誘拐をはじめとする親権問題は、人権問題でもある。
そんなこんなで「人権問題」には興味しかないので、いつも以上にワクワクして迎えた次男の参観日についてしたためます。
◇
「お母ちゃん、参観日は金曜やで。5時間目からな」ある日の密会でジロウが私に話しかける。問答無用で母は参観するらしい。垣間見えるジロウのアタリマエに、ありふれた親子をかみしめる。
知らせを受けた私はジロウに、参観日の概要を知りたいとお願いしてみた。するとジロウは「タロウに頼んでプリントの写真送るわ」と答える。同日にLINEする約束をして、ジロウと私は下校中の密会交流を終えた。
だけどジロウからの連絡はこなかった。
翌日の密会交流がやってくる。
いつもと変わらず車に乗り込むジロウだったけど、プリントの話になるとほんのり顔がこわばった。
母子分断で7年以上過ごしているので、もちろん察しはついている。だけど私はずっといつも、ジロウの口からジロウの世界を表現してもらうようにしている。
たとえその作業が、ジロウにとって苦しかったとしても。
◇
当初、LINEしなかった理由をジロウは濁す。開始は5時間目という情報を頼りに、とりあえず来たらなんとなる!という論調。ジロウと私の性格は似ているらしい。
とはいえ約束したので、果たせなかった理由をジロウに尋ねた。できなかったことを知らんぷりすると、未来でいつかまた形を変えてやってくる。失敗したら、そのつど解決したほうが、たいがい簡単に処理できるんだ。
小さな問題をごまかして、先送りしてため込むと、今の日本みたいになってしまう。問題に向き合おうとする時は、なぜかどーにもお手上げになってから。見つめるのが痛すぎて、どーにかなる時期に、どーにもせずに、どーにか過ごし、どーにもできなくして、次世代へ託す。
閑話休題。
ジロウは「捨てたからプリントない、って言われた」と理由をサクっと話した。なるほど。そら写真送れん。
◇
参観日の話を母子でラリーするうちに、ジロウのターンで悩ましい言葉が零れ落ちる。
「お父ちゃんが来たら嫌や」
ちゃんと言葉を選ばんかい!っと心の中でつっこみながら、私はジロウになんで嫌なのかを尋ねる。
「わからへん。んー、わからへん。なんで嫌なんやろ。なんでやろ」
ジロウは絵に描いたように頭を抱え込んで、わからへんをくり返す。
まずは「嫌」に隠れる、溢れんばかりの文脈を整理することにした。お父ちゃんが嫌なのか、参観日に来るのが嫌なのか、お父ちゃんとお母ちゃんがでくわすのが嫌なのか、なんぼでも意味はでてくる。
ジロウがあまりにも唸りつづけるので、私は10個近くの具体例を挙げた。するとジロウはひとつを選んで、自分の言葉に置き換えて話を続けた。
「お父ちゃんが見に来たら恥ずかしい、かな?」
どうも府落ちはしてないっぽいが、いちばん近いのが恥ずかしいらしい。「嫌」の印象がかなり変わった。見に来るのが嫌、と、恥ずかしいから嫌、では意味がまったく違う。
子どもはボキャブラリーもコミュニケーションも発展途上。高葛藤の夫婦間であれば、我が子の言葉を鵜呑みにして「ほら、相手より自分の方が親としてふさわしい」などと盛大な勘違いをしがちな場面でもある。
ちなみに離婚係争においては、裁判所も弁護士も似たような勘違いをナチュラルにします。
◇
なんで恥ずかしいのかも問うと、ジロウは地蔵になってしまった。脳はカタマリ心はオオイソガシである。なのに時間が刻々とすぎてゆく。
もう一生会えなくても大丈夫なように、ジロウの心をあたためてバイバイしないと、私は絶対に後悔するんだ。
実子誘拐からの7年以上、似たような場面を何回か、ジロウと私は重ねてきた。なのでアップグレードして、なんとかまとめられた。この日の親子時間に後悔なし。
一方でジロウの後悔はジロウにしかわからん。
参観日当日。ワクワクの授業内容は同和教育で、講演内容は性的マイノリティについてだった。
これらの社会問題のわかりやすい共通点としては「既得権」だろうか。核となる問題点としては「家制度」である。つまり親権問題を理解していないと、まともな教育を子どもたちに贈れない案件。
こうやって戦後からの約80年間、社会から歪んだ認知を子どもたちは教育され、今の日本を創り上げてきたんだな、と身震いするほど感慨深い時間となった。
◇
参観日前、後悔なくバイバイしたのに、参観日中から母子の対話の必要性をひしひしと感じた。明らかに、ジロウが成長する大チャンスである。
だけどジロウと私に、参観日の放課後は、存在しなかった。
週明けの月曜日に、生きてまた会えるとありがたいな。そういえばジロウから、参観日の注意事項を私ははじめて受けていた。
「教室の中で、ジロウに話しかけるんなしな」
友だちの手前、それこそ恥ずかしいらしい。ちなみにジロウのクラスメイトには、教室内で私にガンガン話かけてくれる子もいる。思春期格差のあるお年頃。ほほえましい限りである。
ちゃくちゃくと成長するジロウの眩しさが、私の影法師をつくりつつ、ひとしおの喜びとともに、母としての自分を問うてくる。
▼判決~院内集会の原告レポ
▼共同親権弁護士古賀先生の判決分析
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