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結婚しました。死が怖い。



 人生、やりたくてやっていたわけじゃない。

 空が青いのが苦手だ。さんざめく街道。人の嗤い声。やさしい風を待っている。


「真面目だね」なんて学生時代言われて。ちっとも嬉しくなくて。むしろ歳を重ねれば重ねるほど惨めだった。何にもできないからかけられる言葉みたいだった。

 私は"できる子"だった。廊下は走らない。問題は起こさない。遅刻しない。ずる休みをしない。

 でもつまらない男だ。誰の視界にも入らない、ほんとうにつまらない男だったと思う。そんな男は、それなりに大学に入り、意志もなく就職する。


 ・・・


「どうしてこんな簡単なこともできないんだ!」

 怒号が舞う。安息の地はない。

 私は、できる子ではなかった。

 新卒入社した会社に、たった半年でついていけなくなった。

 そして私は、パニック障害になった。

 初めて手の震えが止まらなくなり、足が痺れて歩けなくなったとき、「もうおわりだ」と過不足なく想った。救急車の中で、枯れた涙が止まらなかった。

 当然会社に行けなくなった。ごはんを食べずに何週間も過ごした。ごはんを食べても仕方がないと思い、食べて消えるそれに苛立ちすら覚えた。

 人にやさしくなれなくなった。人にやさしくしている場合ではなくなった。当時付き合っていた恋人には連絡を絶たれてしまった。見限られたことに嘆くしかなかった。

 底の見えない鬱へと落下した。診断書を病院からもらい、私は休職からの退職。以後鬱を抱えたまま、日々がただ流れていく。


 ・・・


 ごはんが食べられない。

 何も意欲が湧かない。シャワーも浴びられず、におう自分に気づいているけれど、どうせ自分だけの人生、どうでもよかった。漫然と死にたかった。

 怖くなかった。自分の人生が、もったいないと思えなかった。真面目だねなんて言われてきたけれど、何も詰まっていなかった。すかすかで、嫌味のように過ぎていく風は、なまぬるかった。

 そうしていた最中、実家で両親が大喧嘩を始めた。もともと私の両親は仲がよくなかった。父の会社が倒産し、経済的に苦しくなり始めてから特に喧嘩が絶えなかった。休職を経て、私は退職。自活できなくなった私は実家に戻る、そのタイミングと重なった。

 次第に父の怒りの矛先は私に向いた。父は、三軒先くらいまで怒鳴り声が響く、恐ろしい人だった。

 何を叱られたかは覚えていない。私を怒鳴る父を見て、母は「もうやめて」と叫び、家で一番高い花瓶を床に叩きつけていた。私は破裂するように泣いた。


 来る日も来る日も両親は怒鳴り合った。何をそんなに怒り合う必要があるのかと項垂れるくらいだった。言葉と言葉の殴り合い。心から飛び散る血がこの目に見えた。ふたりの衝突を、扉の隙間から毎日伺った。眠れるはずがない。

 深夜2時、「じゃあもう家族バラバラになるしかないってことだな」と父が言い、母が頷く直前に私はいつもふたりのあいだに入って言った。



「離婚だけはしないで」


 喉がちぎれた気がした。綺麗な声を出すことが一生できなくなってもいい。荒れ狂い、叫んだ。どうして私は、両親に離婚してほしくなかったのだろう。誰がどう見たって、離婚した方がいい、せざるを得ないと思うだろう。

 それでも私の口は"バラバラになること"を止めていた。何十回、何百回と止めた。どれほど両親が道化に映ろうと、私にとっての父と母は他にいない。止め続けたその原動力、いや、心の反射だろうか。これほど家庭が荒れ果てたとしても、幼少期両親に愛された記憶が一滴、確実に消えない濃度で残っていたからである。


 ・・・

 両親の衝突を止めながら日々を過ごす。私は鬱病とパニック障害を抱えたままハローワークに通った。行けば行くほど、底の見えない鬱に飲み込まれていくようだった。途中、道路に倒れ込み、何度も救急車に運ばれた。

 学生時代の友人とは連絡を絶っていた。恋人などできるはずもない。街に人がいても、家に帰って人がいても孤独だった。元々やりたくてやっていた人生ではなかった。きっと自分より苦しみ、生きることを渇望し、踠いている人がいることもわかっていながら想いを馳せる。もうこの頃から漫然とではなく、明確にこの世に未練がなくなっていた。


 ・・・


 ある朝、私は起き上がる。

 午前5時。

 むくりと、できる人間かのように。


 家の中にふわりと声を放つ。

「ちょっと出かけてくる」

 返事はない。両親ともに衝突に疲れ、寝ているのだろう。

 私は歩いた。つまらなく街を歩いた。斜め下を向いて、揺れるように。



 カンカンカンカン———

 踏切の音が聴こえる。なんて安らかな音色だろうと想う。私に向けられた賛歌のようだった。


 吸い寄せられるように踏切の前に立つ。


 怖くなかった。

 私にも意志があった。強い意志だ。

 踏切があがり、また踏切がさがる。それを何回だろう、2回くらい見ただろうか。そこから記憶がない。目が醒めると、私は警察官ふたりに体を押さえつけられていた。

 私は暴れていた。他人の体に自分の心が入ったみたいな感触だった。どうしたの、何をやっているのと自分に声をかける。私の体は暴れ続けていた。離してくれ、俺はもう死ぬと叫んでいた。他人のような私は、間違いなく私だった。

 救急車の中に押し込まれる。手足を固定された。救急隊員の人が叫んでいる。「名前は?!どこから来た!!一人暮らしか?実家か?両親の電話番号言えるか?自分が誰だかわかるか?」

 たくさん聞かれた。早く終わりにしたかった。なんの問いにも答えたくない。



「若いんだから、親がいるだろう」

 隊員のひとりがそう言った。誰しも親がいるなんてかぎらないじゃないか。ああ——、でも私には親がいるんだ。なんて恵まれているんだ。でも、いいんだ。だってもう関係ないし。


 一滴が、また一滴に分かれ、薄まる。誰の声も届いてくれない。さようなら———





「おい。私を乗せろ!!中を見せろ!!」


 なんだか、遠くの方から声が聴こえる。幻聴か。


「中を見せろ!!!絶対にいる!!!」


 もう終わりたいのに。どうやら騒がしい。



 ——がこん、、


 救急車の後ろの扉が開く。せわしない足音、呼吸。目を開かずともわかってしまった。私の手を、分厚い手が包んでくる。確かに思い出した。ああ。私はそれでも愛されていたんだな、と。





「おい!!!きたぞ!!!お前の父親だ!!!」


 脳に。眼球に。臓器に。鼓膜に。水滴が疾る。

 どうして私がここにいるのがわかったの。どうしてここに父さんがいるの。ねえ。何にも言ってないのに。昨日だって私が見えないみたいに母さんに罵詈雑言浴びせていたのに。

 私は何も声が出なかった。ちぎれてしまった。ああ。父さん。話したいよ、ゆっくり。そう想っただけでまた声が響く——




「わかるに決まっているだろう!!親だぞ。舐めるんじゃない」


 私は身体中が裂けるように泣いた。だけれど、身体はまだ暴れたままだった。

 私と父を乗せた救急車は、とある病院に到着する。

 するとそこには母がいた。見えたわけではない。声が聴こえたのだ。

 ああ。私。駄目になっちゃえばよかったのに。どうして——



 ・・・



 何日眠っていたかわからないけれど、私は起き上がる。昼間くらいだった。



「おはよう」

 母にやさしく言われた。


「おはよう」

 父にやさしく言われた。

 何か果物のようなものを出してもらった気がする。記憶が定かではないが、やわらかいものを咀嚼していた。私はそこで、あのとき線路には立ち入ってはいなかったことを知れた。


 ゆっくりと時間が流れる。ゆっくりすぎるくらいだった。

 そうして私は零す——



「また就活してみるよ」


 考えて言葉が出たわけではない。自分のためでも、親のためでもない。ただ声が出た、言葉が出た。

 喧嘩はその夜、していなかった。思えばあれから、一度も喧嘩しているところを見ていないかもしれない。

 私は変わった、わけではないと思う。何かを考えながらではない。いくつも履歴書を書いた。面接に行った。またアルバイトから始めよう、そう思った。その頃私はもう30歳を超えていた。

 ただもう、自分を生きようとしていた。嘘のわらいはしない。自分を生きて、自分を無駄にしない、自分で自分の背中を押して生きていくのだと思っていた。

 そうしてたどり着いた職場は、福祉系の会社だった。私はまだまだパニック障害が完治しないまま、採用をいただいた。それでも私が今度は救いたかった。今も私は、身体や精神の障害と向き合いながら生きている人たちをサポートする立場として日々勤務している。これが、私のやれることだとそう信じてまた人生を伸びやかに、久しぶりに歩み始めていたのであった。


 ・・・



「はじめまして」

 鐘の音が聴こえる。

 勇気を振り絞って入った会社初日。職場はとてもあたたかかった。障害と向き合い、日々を皆たくましく生きていた。脆くなる日もあれば、伸び伸びとする日もある。至極人間らしい場所だった。そしてそれを許し合い、支え合う場所を見て、私も生きるきっかけを見つけた気がした。



「こんにちは!」

 明るそうな、ひとりの女性に声をかけられた。淡い桃色のトルコキキョウのような、可愛らしい人だった。

「これからよろしくお願いします」

 私はぺこりと頭を下げる。同じ部署にいた方だった。彼女も精神障害と向き合い、日々を生き抜いていた。

 そんな彼女は、私が入社した後、あっという間に退職する。

 最後、連絡先を交換した。本当に心が綺麗な人だった。ただ少し、淋しそうな表情もする人だった。まあでも、もう会うこともないだろう、そう思っていたのに——


 ・・・


 気づけば私は、日々のことを彼女に伝えていた。

 彼女がよく返事をくれるから、私も嬉しかった。

 まだまだ慣れない仕事ばかりなこと。楽しく前向きなことも話したし、つらく後ろ向きなことも話した。

 およそ8年だろうか。私に恋人はいなかった。「恋」なんて言っている場合ではなかった。そういえば「恋」というものがあることを思い出していた。私の容姿が良いはずもなく、収入も少ない。誇り、語れる過去もない。ドラマチックに誰かに好かれる要素などひとつもない。そして誰も好きにならなかった。なっても仕方がないときっと思っていた——




 ——好きに、なっていた。

 彼女が喜ぶことを日々考えた。彼女が幸せになることを願った。なんだって話を聴きたかった。私がどれほど弱味を見せても、彼女は柔らかく笑ってくれた。「生きてるだけでえらいよ!」と太陽のように私を照らしてくれた。昔の私であれば、何を綺麗事をと思ったかもしれない。

 ただすんなり受け取った。涙が出るほど自分が素直で相手もそうだった。この言葉を素直に受け取れるところまで、やっと来れたのだと思った。

 そして私は、聞かなければならないことを聞こう、そう思った矢先、職場で"答え"が耳に入る——



「◯◯ちゃん、彼氏と元気にやってるかな〜」



 彼女の話題だった。とある従業員さん同士の会話。なんてことない日常で、私の心に突然いたましい雷が落ちた。



 そうだ。そうだよな。

 とにかく納得しようとした。

 あんなにもやさしくて、あたたかくて、人を想える彼女にそういう人がいるのは自然だと思った。私が隣に、なんて不自然だ。

 何度も唾を飲み込んだ。飲み込んでいたのに、畳み掛けるように"証明"に入っていく。



「だって確か9年付き合ってるんでしょ〜。いつ結婚してもおかしくないもんね〜」



 ・・・


 ぼんやりと天井を見上げた。

 するすると、眠るように日々を過ごした。

 何も言わずに、私はひとりになった。ひとりを好んだ。好もうとした。何を願っていたのだ、私は。まさか。ねえ。やめてよほんと。

 日々の仕事に集中した。今までもしていたけれど、特に。だって零れてしまいそうだったから。必死に必死に、零れないように過ごした。

 ただ変に何も言わずに距離を置くのもおかしいかと思い、私は彼女にメッセージを送った。

 あなたに恋人がいることを知ったこと。今まで日々メッセージを送って申し訳なかったこと。これからはやめること。そんなことをつらつらと伝えた。ひどく気持ちがわるいことをしているなと思った。つまらない男が何を宣言しているのだ気色のわるい。




 ああ。


 でも。


 彼女の心はうつくしい。

 そう何度も巡らせた。


 描きたかった何かを消し、天井に雨雲を描いた。青空は苦手だ。そういう人間だったではないか。幸せになろうとするなんて、大罪だ。幸せにしようとするなんて、余計なお世話だ、邪魔者だ。そう。そうだよね——


 すると彼女から返信が届く。





「ちがうの」



 何も違わない。合っているよ。ごめんなさい。私みたいな。ね。


 納得の波を強めようとした。だけれど彼女はそれを止めようとしてくれる。ちがう、ちがうの。だから、"会ってほしい"と言われた。文面だったけれど、その言葉は熱く、ゆだりながらも私の心まで絡みついた。

 私たちは、とある公園で待ち合わせをすることになった。



 ・・・



「ありがとう」

 声が運ばれてくる。

 彼女は、心臓が止まるかと思うほど、やはりうつくしかった。

 待ち合わせの公園まで来てくれた。対面するぎりぎりまで、会えないと思っていた。そこは広い公園で、私たちはあてもなく少し歩いた。

 最近の仕事のこと、生活のこと。誰でもできるような会話をした。流麗で、軽やかで、あたたかくて。

 30年生きてきて、初めて恋をしているのだと。


 どうか彼女が、私に寄りかかってはくれないかと願った。


 遠くにあった、ベンチに腰掛ける。

 本題に私たちはそこですぐに触れた。

 あなたに好きな人がいるのはわかっている。今この時間すら、罪に思う。だけれど、ゆだるあなたに、責任を投げてしまったようだった。だってあなたが呼んでくれたから私は来たのだと。

 彼女は唾を飲んでいた。そして話し始める。



「私、9年付き合っている彼がいるの」

 そう、わかっている。知っている。

 ただ彼女は、私にすぐに質問してきた。



「私、結婚できると思う?」


 よくわからなかった。私はそもそも恋愛がよくわからないから、結婚への道筋の理解も乏しかった。ただ少なくとも、それくらいお付き合いをしているのなら、"する"のではないかと思った。だから「できるというか、するんじゃないの」と私は言ってしまった。ただ彼女は続ける。


「彼ね。子どもができてたの。知らない間に。他の女の人と、子どもができてた。彼はちがう、って言ってた。だから私もちがうと今でも思ってる。ちがうと思うの。だから。だから——」


「彼ね。ずっと私を支えてくれたの。どこにでも連れてってくれた。海を見たいと言えば海に行けたし、好きなブランドの名前をあげたら、いつだって買ってくれた。新しいものも、なんだって買ってくれた——」


「私が仕事で精神的に苦しくなって、もう働くのが怖くなったとき、支えてくれた。何年も何年も働けなかったけれど、彼が支えてくれたから、もう一度働いてみようと思った。頑張ろうって思った。何があっても彼がいるから安心だと思った——」


「でも、子どもがいた。子どもができてた。私は産んでないけれど、子どもがいた——」


「彼は言ってた。その人とは結婚しないって。私と結婚するからちょっと待っててって言うの。でも私ももう30歳になる——」





「ねえ」


「私、結婚できると思う?」



 ・・・



 へたくそに深呼吸をした。

 私は、告白していた。


 彼女は駄目と言って泣いていた。だけれど私は気持ちを伝えた。ずっと、あなたのやさしく、あたたかい心が好きだったこと。人をわるく言わないところ。生きる力があること。私は、あなたの笑顔に救われていることを。

 自分で言っていて、そんな人は他にいるかもしれないと思った。けれど、最後は、あなたしかいないと願った。

 彼女はそこで、うんと言って私と付き合うことはしなかった。ただ連絡を何度も取り、デートをした。海を見に行った。ドライブをしたり、少し遠出をしたりもした。

 行く場所行く場所、ほとんどその彼と行ったことのあるところだった。9年も付き合っていれば、それはそうかと思った。常に胸が締めつけられるような息苦しさがあった。

 彼女はその彼とまだ別れていない。だからこれは浮気なのかもしれないとも思った。けれども、



 かまわないと思った。

 だってあなたがいつも、泣いては、私の前で太陽のように笑ってくれていたから。


 ・・・


 私は彼女を、私の育った場所に連れていった。

 見たいと言ってくれたから。

 ゆっくり、どこまでも散歩をした。美味しいものを食べ、笑い、遊んだ。そうして空を見上げた。そういえば久しぶりの空だった。


 私はもう一度、告白をした。


 彼女は何かを飲み込み、力強く「うん」と言ってくれた。

 彼とも別れてくれた。


 それでも彼女は、たびたび遠い目をした。私が話しかけても、ぼんやりとした言葉しか返ってこない日もあった。


「私だけ幸せになっていいのかな。あの人は最後の最後まで私を見て泣いていたけれど、よかったのかな。私、ひどいことしていないかな。9年って、長かったのかな。私は、幸せになる勇気があるのかな」

 話を何度も聞いた。




 そして、ただ、私が愛し続けた。

 毎日のように手紙を書いた。びっくりするような景色を見せてあげることも、高いブランド品をプレゼントすることもできなかった。せいぜい買ってあげられるのはケーキと花くらいだった。

 彼女が遠い目をしているとき、私は何度も叫んだ。喉がちぎれるほど叫び、破裂するように泣いて愛を伝えた。



 ・・・



「これぜんぶ、プロポーズする人が書く文章みたいだね」

 手紙を読んで、あなたは泣いて、笑った。

 本当にうつくしかった。懲りずに毎日うつくしかった。

 書いては渡した。デートをした。彼女の家に泊まった。ゆっくりと抱き合って眠った。

 すべてが愛おしかった。あなたから全てを吐き出してもらい、全て「私」を入れてほしかった。遠い目なんて一生させない。

 私たちは同棲をすることにした。私はこの頃、明確に結婚をしたかった。そして——


 ・・・


 彼女は、私と一緒に指輪を買いに行ってくれた。

 夢みたいだった。それはつまり、結婚を了承しているということだよと何度も説いた。

 だけれど彼女は愛おしく「うん」と言っていた。

 たったそのふた文字を、永遠に抱きしめるぞ。ほんとうに良いのかとまた説いた。それでも返ってくるのは健やかな「うん」だった。

 私は指輪を買った。結婚指輪を買った。

 出来上がり、ふたりでお店に受け取りに行ったとき、私はさめざめと泣いた。彼女は清流のような涙だった。

 指輪を持った帰り道、彼女は愛しく潤ませ、言った。あのね——




 「私、ハリーウィンストンの指輪が欲しかったけど、私が欲しかったのは、ハリーウィンストンの指輪じゃなかったみたい」



 ・・・




 どこまでこの人はうつくしいのだろうと想った。

 東京銀座の街で泣いた。ふたりで笑った。決して相場より高いわけではない指輪を抱えて泣いた。これを一生身につけると誓った。


 指輪がこの手にあっても、入籍日までは指輪をつけなかった。

 それまでいつも通り、彼女とソファに腰掛け、テレビを見て笑った。彼女とごはんを食べて笑った。消えていくものはなかった。いってきます、いってらっしゃい。ただいま、おかえりと言って笑った。せーのと一緒に身体を横にした。おやすみと言い眠り、朝もまた会えることに何度も安堵した。一緒に住んでいるのに「会える」ことがずっと照れくさく、あかるかった。


 彼女は入籍日の過ごし方を私に相談してくれた。

 私は大丈夫と返した。全部任せてと。

 幸せにするから今日も眠ろうと言った。天真爛漫な彼女は「はーい!」と言って微笑んでいた。



 ・・・



 当日。役所で婚姻届を出し、私たちは晴れて結婚した。

 たくさん写真を撮った。なんてことない景色が煌めく。

 私はよく笑うようになっていた。苦手な空を見上げては、丁寧に吸い込んでいた。



「ねえ今日、まだどこか行く?」


 彼女はやはり気にしている。

 それはそうか。私は一度家に帰って、思う存分おめかしをしようと提案した。

 支度し、私たちはとびきりのお洒落をして、夜の街へ出かけた。彼女はほとんどアクセサリーをつけていなかったのに、誰よりも輝いていた。唯一付けていたのは、私と一緒に買ったお揃いのピアスだけだった。



 予約しておいた、空に昇るような高さのレストランに向かった。

 個室で、静かに私たちは運ばれてきたコース料理をいただいた。私にもこういうことができるよと伝えた。これは彼女の過去への張り合いではなく、単なる「愛」だった。

 食事の後、私は書いてきた手紙を読んだ。また手紙だ。私は手紙を書いてばかりだ。だって愛しているから。


 9年は、短いよ。

 いや、年数の話ではない。私たちが出会い、育んだ1年の方が圧倒的に"濃い"ことを証明した。これから何十年と続く未来の話をした。

 熟れた果実のように、ぽとり、またぽとりと目からお互いに零れ落ちた。流れた。

 私は真面目。もう何も惨めじゃない。真面目でつまらない男が、どれほど強いか、守れるかを言葉にした。

 私の人生の集大成であり、そして、新しい章の始まりだった。


 全てを愛することを誓った。

 そして彼女も、私の全てを愛していると言って泣き、笑っていた。つまらなくないよ、しあわせだよと。





 指輪をつけた。

 どこまでも、うつくしい。


 そして最後に、私はあるものを渡した。


 ・・・


 雨足の強まる日、私はひとり出かけた。

 彼女が好きなブランドは知っていた。だから、サプライズで渡したかった。それだけだ。

 律儀に時間を予約してからお店に向かった。店員さんに予約する必要があったかを聞くと「予約しなくても、こういった雨の日は空いているので。でもご予約ありがとうございます」と言われ、顔が熱くなった。


 わからないよ。だって初めてなのだから。

 でもなんだってよかった。



 私は、彼女に似合いそうなネックレスを選んだ。

 小さく一粒、ダイヤモンドがついたネックレスだ。


 会計時、手がわかりやすく震えた。発作ではない。「はじまりだ」と過不足なく想った。

 私にも、こういう人生が来るなんて。ただ今、これが私の望み、希望だと謳った。


 帰り道。電車の中で、私はまた泣いた。ほんとうによく泣く男だ。

 その日の雨に負けないくらいだった。そして心の中で叫んだ——




 なんだよこれ。

 馬鹿みたいだ。

 こんな一粒にこんな値段がするなんて。ダイヤモンドってなんだよ。わけがわからない。私が汗水垂らして稼いだお金は、このたった一粒に変わったのだ。


 なんだよこれ。おい。私は、私は——




 息が詰まる。呼吸する余裕がない。


 でも私は、私は——



 だって、、これをつけたあなたを想像するだけで、こんなにも涙が出てくるのだ。あまりにうつくしいから。

 馬鹿みたいだ。ほんとうにうつくしくて仕方がなかった。どうしてそんなにうつくしいんだ。どうしたらいいんだ私という男は。

 こんなもの、簡単にあげるんじゃあないぞ。おい。この一粒を、どうしてもあなたに身につけてほしかった。私の苦しかった出来事、人生が、澄んだ空気を伴い、蒸発していくよ。

 ほんとうにうつくしいよ。だから買ったんだよ。馬鹿じゃないよ。私へ。ごめん。あまりにあなたがうつくしいから、自分を馬鹿に思ってしまった。この一粒のダイヤより、あなたの方がうつくしいけれど、やっぱりあなたにつけてほしかった。指輪を、この一粒を、私を、愛してほしかったから。



 ・
 ・
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 夜景の見える、個室のレストラン。

 私は、ネックレスを渡す想いをそのまま彼女に伝えた。彼女はよく笑う人だったけれど、とめどなく泣いていた。


 愛を誓い合った。あらゆる生活を待ち遠しく想った。

 人生、やりたくてやっていたわけじゃない。仕事も趣味も生活も何もかも。やりたくてやっていたことなんてわからない。でももう、あなたがいるから。人生、やらせてください。

 人を信じるの、怖かっただろう。でももう、私を信じていいんだよ。私がいる。私がいるよ。そして私は愛を覚えるのが得意だ。伝える勇気もある。"真面目"を誇りに想う。両親は私たちの結婚を聞いて「あの頃の、生きる力を忘れるなよ」と言っていた。



 いろんな風景があった。

 この世を去りたかったあの頃より、今は死が怖い。

 死が怖いと思える日が来るなんて。

 私はあなたをひとりにしないために、あなたより1秒でも長生きします。そしたらあなたは淋しい想いをせずに済み、私も、安心して眠れることでしょう。


 ああ。

 私たちは無事に結婚したのだ。


 やっと、やさしい風が吹いている。

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