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父と「まんま」でランチ

 先週、老父を総合病院に連れて行った。検査と診察で長くかかると思っていたが、思いのほか早く終わったので、ランチに出かけることにした。
認知症生活は、穏やかで単調な毎日と、気持ちが沈む期間の繰り返し。折を見ては、父を連れだして刺激を与えている。

 私がその店に初めて行ったのは、2週間前のこと。友人に声をかけられ参加した、「震災支援ネットワーク・被災移住者交流イベント」の会場が”Kumi's Lunch まんま”だった。

 8年前の3月11日、久美さんは東北で被災した。壊れた自宅は、原発から40Km。避難区域の半径30kmから、僅か10km外れていた。久美さんは夫を残し、2人の幼子を連れて、松本市に自主避難した。

 松本市の菅谷市長は、チェルノブイリで医療支援を行い、かつてNHKの番組プロジェクトXにも取り上げられた、甲状腺疾患の医師だった。松本は、全国に先駆けて被災者の受け入れを開始した。

 知り合いひとりいない、見知らぬ土地。店も病院もわからなかったが、役所の人などは、誰もがとても親切に対応してくれたという。仮住まいの教員住宅で、子どもが泣けば、久美さんも一緒に泣いた。寂しくて、寂しくてーー。

 そのうち、徐々に知り合いができ、寂しさを紛らわすため、自宅に招いては食事を共にした。特に料理好きというわけではなかったが、知人を招くうちに料理の機会は増え、いつしか飲食店をやってみたいと思うようになっていった。

 その後も被災地の情報は錯そうし、何を信じればよいのかわからない日々が続いた。

「故郷を捨てるのか?」

時には、そんな言葉を投げかけられたこともあったという。見えない放射能に怯えて過ごすより、自然豊かなこの地で子育てがしたい。久美さん一家は、信州に移住することを決めた。

 ある日久美さんは、その鉄板焼き屋に友人と飲みに行った。店は、夜だけの営業。ならば、昼間は空いているのでは?店主に相談を持ち掛け、おまかせのランチ1メニューのみの店「まんま」が、オープンした。

 父と来店したその日は、まだ12時前だというのに満席状態で、サラリーマン風の男性ひとり客と相席になった。今日のメニューは、手作りのシュウマイが添えられた定食。野菜料理いっぱいのおかずは、老父にもピッタリだった。

 暫くして、相席の男性客が先に店をあとにした。テーブルには、手付かずの小鉢が残る。聞けば「野菜は嫌いだから」と、言われたという。メニューが1つだけとは知らずに、来店したのだろう。後片付けをする久美さんを見ながら、父がクスクスと笑った。

 12時を過ぎたばかりの頃、ランチは完売。久美さんは、営業中の看板を裏返した。

 夜になると父は、昼間のできごとを自力で思い出しにくくなってきている。その夜、日記を書こうとする父に、もう一度簡単に久美さんの話をした。父は、頷きながら話を聞き、

「それで、旦那さんはどうしてるんだ?」

と、聞いてくる。ご主人も一緒に移住し、新しい仕事を始めていると、立て続けに同じ話を3回話したところで、やっと「あ、そうか」と理解した。そして、一度だけ目尻に溜まった涙を拭うと、日記を書き始めた。

 10行足らずの日記には、震災や久美さんのことは何も書かれておらず、小さな店だったことが3回書かれていた。
 3回も書くほどには、小さくはなかったのだけれど。

#エッセイ #介護 #父 #震災 #松本市

 

 


 



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