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【21】恋を知らない小鳥~幼馴染の愛に包まれて~

第21話 伝えられなくなった想い

 詩陽がはぁっと大きく息を吐くと、星が瞬き始めた夜空に吸い込まれていった。これから夜が更けていくと、更に星が綺麗に見えそうな天気なのに、詩陽の心はどんよりとしている。

「本当は幸せだったりするんじゃないのかな」
 初体験を終えたばかりなのに、どうしてこうもモヤモヤするのか。昨夜は確かに嬉しいと思ったし、今朝も甘い伶弥を遇いながらも、心は満たされていた。体の気怠さも照れくさかったが、嫌ではなかった。

 それなのに、心葉との会話で自分が返事をしていないことに気付いてしまったせいで、コロッと気分が変わってしまったのだ。

 気付きたくなかった、と思ったが、すぐに横に首を振る。詩陽がずっと返事をしなくても、きっと、伶弥は何も言ってこないだろう。気にしていたとしても、悩んでいたとしても、それを表に出すことはない人だから。

 恐らく詩陽が知らないだけで、伶弥はこれまでたくさんの想いを飲み込んできたはずだ。すべて詩陽のために。伶弥にだって、腹が立つことや悲しかったことがないわけない。知らないうちに、詩陽が傷付けていた可能性だってある。

「どうしたらいいんだろう」

 詩陽は呟いたものの、本当は答えを持っている。単純なことだ。返事をすればいい。『好き』だと言えばいい。だが、どうしても二の足を踏んでしまうのは、恋愛的な『好き』なのか、幼馴染としての『好き』なのか、明確になっていないからだ。

 付き合っていなくても性行為に及べる人がいるなら、もし自分がそうだった場合、幼馴染としての『好き』でもできたことになる。深く考えず、ちゃんとした答えなんて求めずに、『好き』だと言ってしまえばいいかもしれない。だが、そうしたくないのは、伶弥の真剣な想いに、真剣に応えたいと思うからだ。

「あ、小鳥さん、こんばんは」

 ようやく会社の最寄り駅にたどり着き、改札を抜けようとした時だった。同じタイミングで改札に近づいてきていた男性から声がかかった。

「あ、甲斐さん。こんばんは」

 詩陽が軽く会釈をすると、甲斐も笑顔を見せてくれた。やはり中性的な雰囲気で、二人きりであっても恐怖心をあまり感じない。

 甲斐はトレンチコートを羽織り、手には大きなブリーフケースを持っているから、仕事帰りなのだろう。二人は往来の邪魔にならないように、改札から横に移動した。

「仕事帰りですか?」

 甲斐が同じ内容を口にし、詩陽はふふっと笑った。

「はい。甲斐さんも?」
「ええ。でも、持ち帰ってきたので、家でも仕事です」

 甲斐は大袈裟に肩を竦め、苦笑いを浮かべる。

「忙しいんですね」
「まあ、ライターをやっているので、どこでも仕事はできるんですけどね」

 そう言って、甲斐はブリーフケースを叩くと、重たそうな音が鳴った。ライターなら書類だけでなくパソコンも入っているのだろう。

「もしかして、カフェやベーカリーの記事なんかも書かれるんですか?」
「どうしてわかるんですか?」

 甲斐は驚いたように目を見開き、ブリーフケースを抱え直した。大事なものを抱えるような仕草が微笑ましく、詩陽の緊張はどんどん緩んでいく。

「いろんなお店を知っているみたいでしたし、一人でよく行かれているみたいだったので」
「ああ、確かに。そういえば、これからあのベーカリーに寄るつもりなんですよ。よかったら、一緒に行きませんか?」

 それを聞いた詩陽の顔がパッと明るくなった。

「はい、行きたいです!」

 一人で自宅があった駅に行くのは怖くて、行きたくても行けなかったが、顔を知っている甲斐がいれば心強い。ストーカーも男が一緒にいれば、手は出してこないだろう。

 詩陽はささやかではあるが、伶弥へのお詫びに美味しいパンを買って帰ることにした。決して詩陽が食べたいからというだけではない……決して。

 誰に向けたものでもない言い訳をしながら、詩陽は甲斐と一緒に改札を抜け、久しぶりに自宅マンションのある駅へと向かった。
 
 

 目的の駅に着き、詩陽の心臓は緊張を訴え始めた。大丈夫だと思っていたが、もし物陰からストーカーが飛び出して来たら、後をつけられたらと思うと、不安と恐れは波のように押し寄せてくる。

「小鳥さん?」

 ぎゅっと唇を噛み締めて、駅舎を出る一歩手前で立ち止まってしまった詩陽だったが、甲斐に呼びかけられて、我に返った。

「あ、すみません」
「どうかしましたか?」
「……実は」

 詩陽は隠しておこうかと思ったが、状況を伝えておいた方がいいと判断した。万が一、甲斐を巻き込むことになったら、迷惑をかける。そんな状況に置かれている詩陽を連れて歩くのは嫌だと言われたら、無理を言わずに帰った方がいい。

 それから、詩陽は甲斐にストーカーについて話をした。過去のことは伏せたが、現状は包み隠さず話したつもりだ。

 話し終えて、詩陽が不安そうに甲斐の様子を窺っていると、甲斐は難しい顔をして、腕を組んだまま黙ってしまった。

「あの、やっぱり帰ります」
「いえ、ちゃんと守ります。守らせてください」

 てっきり嫌がれているものだと思ったら、甲斐は真剣に詩陽のことを考えてくれていたようだ。詩陽に向けられた視線にも真面目さが垣間見えている。

「でも、万が一」
「ストーカーのせいで、小鳥さんが好きなことをできないのも、生活を制限されているのもおかしいです。ただパンを買いに行くだけなのに、こんなに悩んでいるなんて」

 甲斐も男性ではあるが、会話をする分には全く問題がない人だ。触れられたり、距離が近すぎたりしなければ大丈夫そうだし、こうして詩陽を心配してくれる様子には誠実さも感じられる。

「ありがとうございます」

 詩陽は硬くなっていた体から少し力を抜いて、甲斐に頭を下げる。すると、甲斐はブリーフケースを持っていない右手を激しく振った。

「お礼を言われることなんてしてないですよ! それにしても、それが原因で、この間の男性の家に避難していたんですね」
「はい、彼には迷惑をかけっぱなしです」

 詩陽は優しい笑顔の伶弥を思い浮かべたが、その顔を艶っぽく目を細めて、熱い息を零す伶弥が掻き消した。一瞬で全身が熱くなり、未だに鈍い痛みのある下腹部が疼く。

「僕が知っていれば、近くで守ってあげられし、もっと早く駆けつけられたのに……本当に不甲斐ないです」

 今度は詩陽が激しく首と手を振り、眉を下げる。

「甲斐さんにご迷惑をかけるなんて、とんでもないです!」
「僕じゃ、頼りないですか……?」

 甲斐が悲しそうな表情を浮かべ、肩を落とす。そんなつもりで言ったわけではないのに、どうも最近の詩陽は失敗や失言が多い。詩陽は自分のダメさ加減に嫌気がさし、太ももの辺りをこっそり抓った。

「そんなわけないじゃないですか! 本当にご迷惑でなければ、予定通りベーカリーに一緒に行ってもらってもいいですか?」

 甘え下手な詩陽であっても、今、自分がどうすることが正解はわかった。甘えるというよりは、これ以上、甲斐に落ち込んだ顔をさせないための選択と言った方がいいかもしれないが。

「もちろんです。ここまで勇気を出して来たんですから、好きなパンをたくさん買ってください」

 ようやく甲斐らしい優しく穏やかな笑顔を見て、詩陽はホッと胸を撫で下ろした。

 それから、甲斐は少しの物音にも驚く詩陽を庇いながら、ベーカリーまで連れて行ってくれた。
 
 

 甲斐の言った通り、久しぶりに行った店にはいくつも新作が増えていた。どれも詩陽好みのもので、小麦の風味を楽しめるシンプルなパンから、甲斐お勧めのカレーパンのような総菜パンまで、実にバランスよく新作を出したらしい。

「どれにしよう」
「買いたいものを買ってください。パンの種類によっては冷凍保存してもいいですし」
「あっ、そうですね!」

 それに、伶弥と二人で食べるのだから、一人で生活していた時よりも消費は早いだろう。伶弥にもたくさん食べてもらうためにも、多めに買って行くことにした。

 詩陽はトレイにパンが溢れていく様子を見るのが好きである。幸せが目に見えて積み重なっているようで、胸が温かくなっていく。今日も幸せを積み重ねて、ほくほく笑顔になっていった。

「たくさん買えてよかったですね」

 そう言う甲斐もたくさんのパンが入った袋を下げて、満足そうな表情を浮かべている。同じような顔をした詩陽はこくりと頷き、パンの入った袋を抱えた。

「彼も喜ぶと思います」

 ちょっとしたことでも大袈裟なくらい喜ぶ伶弥のことだ。確実に喜んでくれる。もしかしたら、泣いて喜ぶかもしれない。

「お付き合いしているんですか?」

 甲斐はニコニコと笑っている詩陽の顔を覗き込み、ニッと口角を上げた。穏やかな笑顔ではなく、からかう雰囲気のある笑顔に、詩陽はムッと口を尖らせる。

「……わかりません」
「わからない?」

 甲斐は悪くないのに、タイミングの悪さのせいで、ぶっきらぼうな返事になってしまった。

「はい、わかりません」

 詩陽の不機嫌さを察したのか、甲斐は首を傾げたものの、それ以上追及するつもりはないようだ。

「小鳥さん、他にお勧めのベーカリーがいくつかあるんです。よかったら、資料の状態ですが、お渡ししましょうか?」
「えっ、いいんですか?」

 話題が変わったことにホッとしつつ、続いた言葉に機嫌は急浮上した。キラキラとした目を甲斐に向け、一歩前に踏み出した。甲斐はそんな詩陽の様子に、クスッと小さく笑う。

「でも、資料は自宅にあるんです。ここまで来たら、あと五分くらいですし、取りに行ってもいいですか?」

 詩陽の脳裏にストーカーから送られてきた写真の数々が浮かんだが、目の前にいる甲斐を見て、口元を緩めた。

「わかりました」

 怖くないと言ったら、嘘になる。だが、ここまで真剣に心配してくれる甲斐が一緒にいてくれるなら、短い時間のことであるし、大丈夫だろう。何より、もっとお店を知ったら、伶弥との楽しみが増える。休日に二人で買いに行って、朝食をゆったりとるのは幸せを感じられそうだ。

「では、行きましょうか」

 詩陽は歩き始めた甲斐の隣に少し距離を開けて並び、見慣れた景色の中を進んでいった。
 

 
甲斐の家の前に着き、向かいに視線を遣る。

 当たり前のことではあるが、あの日から変わった様子のないマンションを、詩陽は複雑な思いで見つめた。二階の詩陽の部屋の窓にはカーテンが引かれており、逃げるように家を出てきたことが鮮明に蘇る。

 突然、吐き気を感じて、慌てて口を押さえた。

「探すのに少し時間がかかるかもしれないので、よかったら中で待っていてください。外に立っているのは危険でしょう?」

 詩陽に背を向けていた甲斐は、詩陽の異変に気付かなかったようだ。気遣わし気な表情をしているものの、深刻な空気ではない。詩陽は甲斐の自宅に視線を遣り、引きつる口元を無理やり引き上げ、頷いた。

 甲斐の家は少し古い二階建ての一軒家だ。涅色《くりいろ》をした瓦は端が少し欠けているところがあり、白かったはずの外壁は灰色に近い色をしている。

 甲斐は詩陽が引っ越してくるよりも前から、この家に住んでいた。甲斐以外の家族を見たことはないが、仕事で忙しい詩陽は夜遅くなることも多く、単純に生活パターンが合わないだけだろうと思っている。

 そういえば、甲斐が既婚であるかも知らない。そこまでの関心がなかったというと失礼だが、それが正直なところだ。

 詩陽は甲斐に続いて、玄関を抜けた。三和土に上がり框があって、狭くはあるものの、どこか懐かしい空間だ。

「古臭いでしょう?」

 甲斐はそう言って、可笑しそうに笑ったが、詩陽は悪い印象を受けていない。

「年季を感じますが、私は好きです。こういう古き良き時代の雰囲気」
「小鳥さんは優しいですね」

 どちらかというと冷たい面を持っていると自覚しているつもりだが、甲斐に知られるほどの付き合いの深さではないから、仕方ないだろう。詩陽は曖昧な笑みを浮かべ、無言で通してみた。

「資料を探してくるので、リビングで待っていてください。自由にしていてもらっていいので」
「ありがとうございます」

 玄関から廊下を真っ直ぐ歩いた突き当りに案内され、勧められたソファーに腰を下ろす。畳敷きの部屋ばかりかと思っていたが、リビングは洋間になっていて、ベージュのカーペットが敷かれている。物は少なく、本当に最低限のものしかないように見えた。飾り気もなく、あまり女性の存在は感じられない。

 甲斐に家族について聞いてみようと思ったが、それよりも早く甲斐はリビングから出て行ってしまった。

 詩陽はふうっと息を吐いて、背もたれに体重を預ける。やはりここに来るまでの間、非常に緊張した。自宅は覗かれる可能性があるが、甲斐の家の中に入ってしまえば、一安心だろう。

 そうして、気を抜いたせいだろうか。

「トイレに行きたい……」

 初めて入った家で、お手洗いを借りることになるのは申し訳ないが、資料を受け取って、駅まで歩くのは辛い。詩陽は立ち上がり、リビングから廊下に続くドアを開けた。

「甲斐さん」

 あまり大きな声を出すのはよくないかと思い、ぼそっとした声になってしまった。耳を澄ませてみたが、物音一つ聞こえず、甲斐がどの部屋にいるのかも、見当もつかない。

「お手洗いをお借りしたいのですが……」

 今度はもう少し大きな声にしてみたが、やはり反応はない。そうこうしている間にも、刻一刻と限界が近づいてくる。

「ごめんなさい!」

 詩陽は申し訳ないと思いつつも、トイレを探すことにした。玄関かリビングの近くにあるはずだと当たりをつけ、詩陽はリビングの隣にあるドアを開いた。

「……え」

 そこは目当てのトイレではなく、六畳ほどの和室だった。ただし、普通の部屋ではなく、その異常性に、詩陽は言葉を失った。ガタガタと震える体。力が抜けていく足のせいで床の感覚がなくなっていく。目には大粒の涙が浮かび、涙袋を濡らし始めた。

「なんで……」
「あーあ、見つかったか」
「ひっ」

 不意に背後から声が聞こえ、詩陽は短い叫び声を上げた。恐る恐る振り向くと、ニヤリと笑って、仁王立ちしている甲斐がいた。狭い廊下に立ち塞がっていて、唯一の逃げ道である玄関は、甲斐の後ろにある。

「すごいでしょう? 僕のコレクション」

 詩陽は目の前に立つ甲斐から距離を取ろうと、じりじりと後退し、地獄のような部屋の中へと足を踏み入れてしまった。正直、どちらからも距離を取りたいが、甲斐に近いよりは部屋の中の方がマシだ。

「ほら、あれを見て。あれは詩陽が嬉しそうにパンを抱えているところだよ。あっちは仕事で何かあったのかな。少し落ち込んだ顔をして、電話をしているところ」

 甲斐は聞いてもいないのに、部屋中に貼ってある詩陽の写真一枚一枚の解説を始めた。

 詩陽はそれを遮りたいと思っているのに、喉が引き攣っていて、音を通してくれない。四方八方を自分のあらゆる姿が取り囲んでおり、中には大きく引き伸ばされた写真まである。

 詩陽の体がトンと壁にぶつかり、遂に逃げ場を失った。甲斐がニヤニヤとした笑いを浮かべ、詩陽に近づいてくる。

「か、甲斐さん、まさか」
「ずっと近くで見守っていたのに、まさか他の男の所に行くなんて」

 誤算だったなと呟く甲斐からは、詩陽が知っているはずの雰囲気の欠片も見つけられない。甲斐は気持ち悪く笑いながら、詩陽の顔の横に手を伸ばした。

「ああ、怖がっている顔も可愛いね。この顔の写真は今まで撮れたことがなかった」

 呼吸も儘ならない詩陽は震えながらも、何度も首を振る。その度に、涙が零れ落ちて、顔中を濡らし始めた。

 不意に、甲斐の指が詩陽の髪に触れる。

「カメラ目線もなかったから、今はシャッターチャンスだね。カメラを持っていないのが残念だな。でも、いいか。これから、いくらでも撮れるから」

 甲斐はクッと笑うと、愛おしそうに何度も頬を撫でる。伶弥の手に触れられると、あんなにも気持ち良くて安心できるのに、甲斐に触れられると気持ち悪くて、鳥肌が立つ。

「あんな男のところに行かなくても、僕が面倒を見てあげるよ。たくさん、可愛がってあげるからね」

 遂に詩陽の足から力が抜け、その場にすとんと座り込んでしまった。見下ろす甲斐の顔に影ができていて、白く浮かび上がる歯が異様に目立つ。穏やかで、柔和な雰囲気は霧散してしまい、狂気のみが甲斐を構成しているようだ。

「いや……」
「大丈夫。きっと幸せにしてあげるから」

 そう言って、甲斐は詩陽の頭を撫でると、背を向けてドアの方へ歩き始めた。

「ま、待って」
「時間はたっぷりあるからね。楽しみだな」

 詩陽の言葉など耳に入っていないように、甲斐は独り言を繰り返した。詩陽に話しかけているようで、会話としては成立しない状態に、詩陽の精神は追い詰められていく。

 甲斐はドアまで辿り着くと、くるりと振り向いて、詩陽を見つめた。離れていても、目が血走っていることがわかる。命の危険もあるかもしれない。

「騒いでも、誰も来ないよ。僕は一人暮らしだからね。さあ、まずは一緒にパンを食べようね」

 一軒家だから、他に家族がいることを期待していたが、その望みは呆気なく散った。

「帰らせて!」

 無駄だと思いつつも、詩陽はようやく大きな声を出すことができた。だが、その効果は皆無だった。甲斐はニヤッと笑うと、無言で部屋を出て、ドアを閉めてしまった。すぐに聞こえた鍵の音が耳に残る。まるで、終わりを告げられた気がした。

 伶弥に連絡したくても、リビングに鞄ごと置いてきてしまった。それどころか、すぐに帰るつもりだったため、こっちに来ることも伝えていない。

「伶弥……」

 口にしてしまうと、伶弥を焦がれる気持ちが増大し、余計に胸が苦しくなる。詩陽はその場に膝を抱えて蹲り、震える体を必死に押さえ込んだ。
 
 

 静寂の中に響く時計の秒針が煩わしく感じ、詩陽は耳を塞いだ。

 甲斐と一緒にいるよりはいいが、一人になると悪いことばかり考えてしまう。もう、帰れないのかなと考え、首を振る。

 それよりも、伶弥に二度と会えないのではと思うと、止まったはず涙が零れてくる。先程から何度も過る嫌な考えのせいで、心身ともに酷い疲労感を感じていた。

 視線を上げると甲斐の狂気を目の当たりにしてしまうため、ずっと俯いていることもあって、気分は落ちていく一方だ。相変わらず吐き気があって、めまいもあるし、呼吸にも違和感がある。完全な過呼吸を起こしてはいないが、少し指先に痺れが出始めているのは拙いかもしれない。

 膝を抱き寄せて、更に小さくなる。

 その時、コンコンとノック音が聞こえ、詩陽の体は飛び跳ね、後ろにあった壁に肩を強打した。

「詩陽、パンを食べよう」

 鍵を開ける音の後、ドアから顔を出した甲斐がパンの袋を見せてきた。

「いりません」
「パンを楽しみにしていたでしょう? おなかも空いただろうし」
「楽しみしていたのは、貴方と食べるパンじゃない!」

 思わず叫んでしまい、我に返った詩陽は慌てて手で口を塞ぐ。

「僕と食べるパンじゃないなら、誰と食べるつもりだった?」

 口を一文字にした甲斐が一歩ずつ、詩陽に近寄ってくる。いつも不自然なほど笑顔を浮かべていた甲斐の目から笑みが消えた。

 背後が壁になっている詩陽には、もう逃げ場はない。失言だったことに気付き、詩陽は口を塞いだまま、激しく首を振る。

「詩陽の可愛い声を聞きたいのに、そんなふうにしたら聞けないよ。ほら、詩陽。言ってごらん? 僕とパンが食べたいって」

 口が裂けても言いたくない。可愛いと言われる声を聞かせることすらしたくない。手の中で唇を噛み締めると、鉄の味が口の中に広がった。

 いっそ、舌を噛んで死んでしまった方がいいだろうか。伶弥に会えず、こんな男に人生を奪われるくらいなら、そうしてしまった方が幸せなのかもしれない。そんな恐ろしい考えが脳裏を掠める。

 だが、今はまだその時ではない。まだ、生きることも伶弥に会うことも諦めたくない。詩陽は目の前に跪いた甲斐を睨みつけた。

「そんな顔もできるんだね。いいね、ますます好きになっちゃうよ」

 ニッと口角を上げて笑う甲斐を見て、詩陽は不快感から背筋を震わせた。

 一体、何をすれば幻滅してくれるのだろう。一体、どう返事をするのが正解なのだろう。このままでは精神的にどんどん追い詰められていき、助けてもらう前に壊れてしまう。

「帰らせて」
「詩陽のお願いでも、それだけは聞けないな。それ以外なら、聞いてあげるよ」

 詩陽は甲斐を睨みつけたまま、最適解を探してみるものの、やはりこの状況で冷静になれるはずもなかった。

 何一ついい案が浮かばず、目元が熱くなっていく。だが、涙だけはグッと堪えた。こんな男の前で泣けば、また気持ち悪い反応が返ってきてしまうかもしれない。

「詩陽は意外に強情なんだね」

 そして、また「可愛い」と呟き、甲斐は詩陽に手を伸ばしてきた。詩陽は焦って、床に手を突き、横に這ったが、空回りした体はほとんど移動することなく、呆気なく腕を掴まれてしまった。

「やっ、離して」
「これから二人で生きていくんだよ。そんなふうに逃げたって、詩陽が僕のものであることは変わらないのに。それとも、そういうのが好きなの?」

 甲斐は首を傾げながらも、腕を離す気配はない。『そういうの』がどういうものか、詩陽には理解できないが、碌でもないことは確かだ。変なことを言えば、墓穴を掘る気がして、詩陽は何度も首を振りながら、腕を振った。

 甲斐は細身で力なんてなさそうなのに、腐っても男だ。小柄の詩陽ではその腕を緩めることすらできなかった。甲斐の爪が腕に食い込み、酷く痛む。

「まあ、今は一緒に居られることになって、胸もいっぱいなのかもしれないね。パンはもう少し後にしようか」

 そう言って、甲斐はあっさり腕を離した。余裕がある様子から察するに、詩陽が逃げるとは微塵も思っていないのだろう。

 詩陽は鈍った体を叱咤し、必死に部屋の隅まで這った。その様子を見つめていた甲斐にまた何かされるのではと身構えていた詩陽だったが、甲斐はそのまま踵を返し、ドアの前で振り向いた。

 帰らせる以外なら、何でもお願いを聞いてくれる。その言葉が本当なら、それをチャンスに変えるべきだ。詩陽は動きの鈍くなった脳を必死に回転させる。甲斐がドアに手をかけたところで、詩陽は勢いのまま叫んだ。

「ト、トイレ! トイレに行かせて」

 緊張と恐怖のあまり、トイレに行きたかったことをすっかり忘れていた。今も正直行きたいかというと分からなくなっているが、この部屋から出る最もいい口実だろう。内心でこの結論を出せた自分を褒め、甲斐の反応を窺う。甲斐はジッと詩陽を見つめていたが、ふっと小さく笑った。

「おいで」

 まるで恋人を呼ぶような甘い声を聞き、全身に鳥肌が立つ。詩陽はぎゅっと握り拳に力を籠め、震える足に気付かれないようにゆっくりと立ち上がった。

 甲斐の後に続き、部屋を出る。すぐ近くに玄関があるが、甲斐は詩陽が玄関に行かないように立ちはだかった。部屋を出て、隙をついて飛び出すつもりだったが、簡単にはいかないようだ。

 詩陽は甲斐の案内でトイレに入る。

 それから、この後のシミュレーションをした。トイレを出た瞬間、甲斐を押しのける。虚をつけば、詩陽の力でも倒れさせることができるはずだ。

 そうして、後は全速力で玄関から飛び出し、人通りの多いところまで走る。交番があれば一番いいが、誰か捕まえて、通報してもらうのでもいい。人がいれば、甲斐も下手なことはできないだろう。

 詩陽は心の中でカウントダウンを始める。

 心臓の痛みも、手の震えも、滲んでくる涙も、頬を強く叩くことでなんとか堪える。カウントがゼロになった瞬間、詩陽は勢い良くドアを開けた。体に感じた衝撃にふらつきそうになるも、足に力を入れて、走り出そうとした時だった。

「詩陽」

 耳元に聞こえた囁き声に、体温が三度くらい低下した気がした。その一瞬の間が命とりだったのだと気付いたのは、甲斐に抱き締められた時だった。

「いや、離して! 触らないで‼」

 力一杯もがく。肘で甲斐の体を押し、足を蹴る。思いっきりやっているはずなのに、甲斐はビクともしない。

「どうして……こんな」

 監禁しても、詩陽が甲斐を好きなることはないし、二人で幸せになれるはずもない。抵抗し、怒り、泣く詩陽を手元に置いて、一体何の意味があるというのだろう。

「どうして? 僕が幸せになれるから」

 甲斐の言葉を聞き、詩陽は絶望を感じた。

 甲斐にとって、詩陽がどうなろうが関係がないのだ。詩陽が笑わなくても、幸せにならなくとも、甲斐だけは幸せになれるという。救いようのない犯罪者を目の当たりに、詩陽は目の前が真っ暗になった。

「さあ、戻ろうね」

 詩陽を抱き締める力が強くなり、息が詰まる。まるで人形を抱いているようだ。もしかしたら、甲斐は詩陽が生きていても、死んでいても構わないのかもしれない。そう思うと、これまで以上の恐怖感がせり上がってくる。

 それから、詩陽は引きずられるように先程の部屋まで連れて行かれた。流石に投げられることはなかったが、少し乱雑な感じで、部屋の中に放り込まれる。

「大人しくしていてね。詩陽を傷つけたくはないんだよ。ね? いい子にしていて」

 詩陽の返事を待たずドアが閉まり、鍵がかかった。ようやく詩陽はほうっと息を吐き、その場に丸くなるように蹲った。先程までは、鍵がかかっていることに絶望していたが、今となってはありがたく思う。

 何か、逃げ出す他の作戦を考えなければならない。詩陽が逃げることを諦めてしまったら、本当の終わりが来る気がして仕方がない。だが、あの狂気に満ちた甲斐の目を欺く方法があるだろうか。

 本当は伶弥に助けに来てもらいたいと、何度も自分勝手なことが過っている。居場所がわからないのだから、助けに来るなんて不可能だし、それ以前に、都合よく頼ってばかりの自分にも嫌気がさす。
 
 
 気を張り続けるのも、そのうち限界はやってくる。今が何時かはわからないが、数時間は経ったよぅに感じる。伶弥も、そろそろ詩陽がいないことに気付いたかもしれない。夕飯を作って、帰りを待ってくれているのではないかと思うと、ますます会いたくなるから困ったものだ。

 伶弥と暮らす前は、毎日一緒にいたわけではない。それぞれの生活があったし、会えない時間も特別寂しいとは思わなかった。それなのに、今は数時間会えないだけで、もうこんなにも会いたくなっている。

「伶弥にぎゅってしてもらいたい」

 会うだけでは物足りない。抱き締めて、頭を撫でて、キスして欲しい。優しい顔だけでなく、熱のこもった瞳に見つめられたい。

「好きって、言いたい」

 際限なく欲張りになっていることに気付き、詩陽はこつんと頭を叩いた。

 その時、玄関のチャイムが鳴り、詩陽は息を止めた。


#創作大賞2024 #恋愛小説部門

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