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「カズオ・イシグロ文学白熱教室」所感

DVDを手に入れましたので

 2017年に、イシグロ氏がノーベル文学賞を受賞したことを記念して再放送された番組を見たことがありました。かなり興味深く見たので、強く印象に残っていたと思います。それのDVDを、縁あって手に入れましたので、再視聴しました。ちなみに、番組自体の収録は2015年の日本(英文学生に向けての特別講義、というよりトーク番組のような感じ)です。71分にまとめられた本編についてのあらすじと、所感を書きたいと思います。

講演を貫く問い「なぜ小説を読み、なぜ小説を書くのか」「なぜ小説でなければいけないのか」

 イシグロ氏開口一番、まずこれを会場(狭い本屋のような空間。受講学生は三十人ほど?)に問いかけます。そして、まず自分が小説を書くようになったきっかけや、その後自分が作家としてどのように変遷したかを語ってくれます。

きっかけは、自分の中に生まれた「日本」を安全に残したかったから。

 日本で生まれたイシグロ氏は5歳でイギリスに移住。ただ、数年間は日本に戻る予定だったようで、ご両親は日本について話したり教えたりしていたようです。イシグロ少年から青年になる中で、彼は「私の日本」と呼ぶ世界を頭の中に持つようになります。幼い頃の朧げな記憶、両親の話、当時あまりグローバルでなかった西洋で手に入る数少ない日本の情報をもとに、「飛行機に乗ってもいくことのできない」彼オリジナルの日本。この、彼の大切な世界として頭の中にあった「私の日本」が、記憶として次第に薄れていくことを危惧したイシグロ氏は、この世界を舞台にしてフィクションを書き始めます。この世界を安全に残して安心したい。それが、彼が小説を書き始めたきっかけでした。
 なんだかこれ、分かります。妄想した世界は、書き留めないといつか忘れてしまう。ほとんどの人にとって、それは忘れていい妄想なのでしょうが、それが小説として残ったら素敵です。まして、自分がいつか戻るかもしれないと大切にしてきた世界は、決して「消え去っていい世界」ではないのです。ただの妄想でも、自分が作り上げた世界に愛情を持った人は、きっとそれを残したいと思うはずです。

「私の日本」の設定が

 処女作『遠い山なみの光』とその次作『浮世の画家』は日本が舞台。二つとも、イギリスの高名な賞を受けています。ここで、当初の目的である「私の日本を形に残す」ことへの欲求が満たされたとともに、彼にとって困ったことが起きます。舞台設定の理由は前述の通りでしたが、彼が小説として書いた「人間の普遍的な物語」は、欧米の人々にとって「日本での特別な出来事」で「ああ、日本ではそうなのね」と受け止められるようになってしまった、ということでした。それを問題視した結果、三作目『日の名残り』でイギリスの執事の話を書きます。
 イシグロ氏は『日の名残り』と『浮世の画家』について「内容はほぼ同じ」と語っています。つまり、焼き直しなのです。びっくりです。時代の変化についていなくなっている、過去の栄光にしがみつく職業人の話、というコアな部分は変わらないのです。そしてこれはこれで本人曰く「うまくいって」ブッカー賞というすごい賞を受賞。処女作から、三作連続で高名な賞をとっている、めちゃくちゃお化けみたいにすごい人ですね。本人の言葉で「人間の普遍的なことを書く作家」になったわけです。『日の名残り』はイギリスの執事のお話ですから、もしイシグロ氏の本で初めてこれを読んだら、日本人として「ああ、イギリス人はこう思うんだね」と私も思ったかもしれません。執事という仕事が、とってもイギリス的なイメージを持たれていることも合わせて。
 ここで、彼は発見します。「物語の舞台は、動かせるのだ」と。ジャンルなども含めて、舞台設定は自由なのです。もちろん、選んだ舞台設定が物語で語りたいことと合うかどうかとか、その設定を選んだことで新たに出てくる社会問題を語ることの責任などの課題もあります。しかし、アイディアの設定ではなく「アイディアとして物語の深いところに価値がある」ことが、小説の価値の一つだと、最初の問いに対して一つ答えを出しています。
 この舞台設定の自由さが、イシグロ氏の寡作の原因の一つのように語られます。舞台設定やロケハンに多くの時間を割いてから書き、且つ元の原案と合わなければ舞台設定を変えて書き直すこともあるというのです。そりゃ時間かかるわ。舞台設定について迷いに迷う。曰く「まるで高級レストランに行って、何を注文したらいいかわからなくなってしまったかのようだ」と。贅沢な悩みですが、ご本人は苦労されているようで。書き出すまでが大変ですね。
 そして、最初の創作動機と合わせて、ファンタジーや奇妙な設定やSFに惹かれるようです。想像力を刺激し、現実と異なる世界や世界観を作り出すことができるという魅力。また、文化や文明の利器は、時に想像の世界から生まれたりもしている(アトムの壁掛けテレビ的な?)ことも魅力だと言います。
 アイディアが、2〜4文くらいで書き表せて(舞台設定に振り回されない部分)、それに魅力を感じる(価値のあると思われる)とき、創作に取り掛かるといいます。私のネタ帳も、はじめは三行くらいです。後々そのページがごちゃごちゃしてくるくらい広がっていくのですのですが、なんだかこの話を聞いてちょっと嬉しくなりました。イシグロ氏とは月とスッポンの涙ぐらいちょちょぎれていますが、このネタ帳は間違っていないのだと教えてもらったような気がしました(いや、たまたまでしょ)。そういうことにしておきます(笑)。
 ここまでの前半が、「フィクション」の価値づけパートです。つまり、ここまでで言われていることは、小説だけでなく映画や演劇でも言えることなのです。

「記憶」について

 講演を通しての問いがあるのと同じように、講演を通してのキーワードが、この「記憶」という言葉。実は本格的に語られるのはこの後半部分です。記憶を通じて語る、というテーマです。
 最初の作品を2年後に読み返した時、読み返した当時書いていた「テレビの脚本に似ている」と思ったのだそうです。時系列に沿って進むストーリー、セリフと事実による文章。そして、その手法に対して「不満」に思ったのだそうです。この小説なら、小説でなくても映画やドラマでいいと。実は、この『遠い山なみの光』を私は読んだことがあるのですが、ある女性が語った記憶による話です。しかし確かに、ある意味写実的で時系列に沿った回想、女性の話す昔の記憶は事実として受け取られます。物語は少々地味なので、フランス映画のようにすることは十分可能ではないでしょうか。これがご不満だったと。小説独自の特徴を活かしたものが欲しかった、というように聞こえました。
 イシグロ氏はこの当時、マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」を読んでいたそうで(タイトルしか聞いたことないわ〜)、退屈だったけれど発見をしたそうです。「時に語り手の記憶だけで語られ、場面は時系列によってではなく、事柄の関連性によって連続する。まるでコラージュ作品のように」書かれたもので、これは映像作品でやるとなかなかややこしくなります。
 ちょっと話はずれますが、この話を聞いた時、少し前までNHKで再放送していた「風の峠〜銀漢の賦」という時代劇ドラマを思い出しました。今の場面は時系列によるのですが、回想シーンが多く、その過去がわかっていないと今の場面のことはわからないのに、回想シーンは時系列無視であっちこっち。ちょっと集中して観ないと分かりにくいドラマでした。実際、一緒に観ていた家族はちょっと分からなかったようで、ドラマの最中に「え?どうしてこうなってるの?これ誰?」としょっちゅう聞いてきて困りました。途中から録画するようにしたので、後で一人でゆっくり観られるようになりましたが。これも、小説をなるべく忠実に映像化したと言われれば、なんか納得します。小説の方が分かり易いかも。
 時系列と関係性でいうなら、時系列に沿って順番に書くのが年表で、関連性で記憶が呼び出される感じはマインドマップのようだと思いました。マインドマップは時々、別に伸びていた末節同士がくっつくこともありますし。この関連性によって呼び出される記憶による語りは、きっと記憶のどの部分にフォーカスしてみせるかを選べる小説の方が適しているのだと思いました。動画にしてしまうと、関連づけたい物事とは別の背景や細かい部分まで全部映さないといけない。文という情報量の少なさが、その余計なものをカットできるのです。
 また、記憶が「信頼できない」という点においても、小説の方が適しているとされています。これは、①無意識的な曖昧さを持ったり、②意図的に記憶を隠したり誤魔化したり、③その中間になるような不都合なことをちょっと違うように思い込む(自分にも嘘をつくこと)ようになったりすることです。同じように、意図する・しないに関わらず「忘れる」ことも同じ。時にそれを忘れたり記憶を違えたりすることが、個人的に、あるいはある社会にとって(例:第二次世界大戦前後のフランス)都合が悪すぎて、正しいか正しくないかに関わらず忘れたり記憶を書き換えたりすることで、自分たちを守れるという作用のため、この記憶の曖昧さ、信頼のできなさが生まれるのです。
 そうして、当時の最新作『忘れられた巨人』のお話につながるのです。

メタファー

 『忘れられた巨人』は未読ですが、このDVDで語られるあらすじと、ネット上のレビューで見るあらすじとはなんかすごく違うように思いました。どうやらちょっと難解な本のようなのですが、読んでみないとどういうことなのか分からない気がします。とにかく、作者イシグロ氏の語るこの本のあらすじを聞いて思ったのは、先述した記憶を「忘れたり書き換えたりする」という行為そのものの役割をドラゴンに任せて、その是非(ドラゴンを退治するかどうか)というお話なのかと思いました。ドラゴンや、その作用によるドラゴンに対する批評・処遇をどう考えるかが、記憶そのものの曖昧さや信頼のなさに対する是非や考え方なのかと思いました。
 記憶を伏せたり、書き換えたりすることの是が「個人や社会を守ることができる作用」とするなら、ここで非として「どこまで違っていいのか」という問題も提起されます。映画「シカゴ」の冒頭シーン、黒人男性と白人女性のダンスシーンは物語の舞台1920年代のシカゴの劇場ではあり得なかった。当時黒人男性は劇場に入ることさえできないのだ。でも映画を見た人は、当時それほどの差別はなかったと思うかもしれない。いや、人権の観点から今その差別意識をわざわざ若い人に知らしめる必要はないのではいか、という議論。今のポリコレ問題にも通じるし、大河ドラマで「史実と違いすぎる」と言う人もこれを感じているのかと思います。語られる記憶は、どこまでその物語の中での「事実」や現実を(意識・無意識的に関わらず)伏したり離れたりしても許されるのか。ここまでくると社会学・哲学的な話になってきてしまって難しいですね。

話が文学的に戻った(ホッ)

 三作目『日の名残り』では、この記憶の曖昧さと、イギリスの執事という設定がメタファーとしてうまく作用した作品だと、ご本人は思っているようです。
 まず、信頼できない語り手(自分の都合よく記憶を語る主人公)は次第に現実向き合い、語り方が変わってきて(本人も変わってきて)信頼できる語り手になっていくというのです。
 また、執事という仕事は「感情の抑圧や感情を表して傷つくことへの恐れ」のメタファーであり、「小さな個人が自分の仕事に徹して、政治や国家という大きなものに貢献しているか自分からは見えにくい(歯車の一つからは、全体の動きにどう役立っているか見えないということかな)」ということのメタファーでもあるらしいのです。これも、こういうことを特に深く考えないことに対しての是非やどう考えるのかという問題を孕んでいますね。
 ここで、個人などの歪んだ記憶やフィクションを語ることが、なぜ価値があるのかということが語られます。いわゆるただの現実から離れた娯楽小説として「人生は楽だ」と伝えるようなフィクションは対象外となります。

まとめにかえて

 最終盤「まとめは必要ないようだ」と言いながら、この言葉の前後でかなりまとめらしいことが語られます。
 文学的に深い意味を持つ物語とは、その物語の本質に何かしらの真実が含まれるかどうかが大切だ。その真実とは、人間として感じるものだ。小説を読み書きすることの意味として、また最初の問いに対する答えとして小説は「重大な心情や気持ちを伝えられる。特定の状況で感じつ気持ちを伝えられる」といいます。報道や歴史のように、事実だけでは、私たちには不十分。どう感じたかを伝えて欲しい。心情を分かち合う必要があるのです。
 
この公演は次のような言葉で締め括られます。問いを立ててまとめで答える、質問が前もって用意されたものかは分かりませんが、完璧な講義です。
 「私は小説の中でこの点を最も大切にしている。この世界に生きていく人間として、心を分かち合うことを。」

 まぁ、重たい。確かに文学です。同時に、文学がなぜ学問として成立するのかが見えてきます。学問とは、何かを理解するためにするもの。どんな方法で理解するかが各学問の違いだと思います。文学は、主に小説をもとに人の心や真実を理解するものなのでしょう。
 小説を書くときに、ここにあるようなことを全部意識してしまうと、とても筆を走らせることはできないかもしれません。もっと気楽にいきたいわぁ。ですが、執筆途中で迷った時に、ある示唆を与えてくれそうな番組です。そして、視聴後は重いと思いながら、何がかんだで小説を読みたい、書きたいと思わせてくれます。

長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。

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