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『ラーメンと愛国』 速水健朗


 もう10年近く前に読んだ本だ。読んだ時の感想は覚えているのだが、面白い仕掛けの本だなあ、という感想だった。

 昔読んだ本のレビューを意味もなく眺めることが最近の日課なので、いつものごとく、本書の感想やらレビューを検索した。
 読書メーターやらAmazonレビューやらを見て、愕然とした。
 この本の真意が全く理解されていなかったのだ。読書メーターには約250件近くレビューがある一方で、この本の真意に気づけている人は3件だけだった。
 ただ、その3件は真意に気づけてはいるが、その真意が何かを説明していない。ちなみにAmazonレビューに真意を理解しているものは1件もなかった。
 書かれていた感想として多いのが、個別のエピソードの誤りや、ラーメンと愛国という表題は不適切で、ラーメンと現代史にするべき。などであった。この本の仕掛けが理解されず、正当に評価されていない証拠だ。
 これから新規の人が多く読むわけでもないから、いまさら語ることに意味があるかと思うが、著者の速水健朗があまりにも可愛そうである。
 そんなこんなで、書評を書くことに決めた。


 本書の内容はこうだ。戦後にラーメンが、いかにして国民食として普及したかを『事細か』に、『著者の視点』で、書いてある。
 ただそれだけなのだ。本書の個別のエピソードの真偽等の問題はあろうが、大事なとこはそこではない。
 『著者の視点』で『事細か』に『ラーメン史』が書かれたという事実性に着目しなければならない。
 極論を言えば、この本の内容は二次的な要素、壮大な前フリに過ぎないのだ。この本は『ラーメンと愛国』という表題で書かれたこと自体で批評行為が成立している。
 
 どういうことか。そのことを少し理解するための補助線を引いてみたいと思う。国民国家はいかにして成立したか、という話である。

 国民国家が人工的に作られたものだというのはもはや定説となっている。
 国民国家成立以前は、身内だったり、地域の人間以外は知らない人間で、バラバラだったわけでだ。そんなバラバラだった人たちをまとめ上げられたからこそ国民国家は成立している。
 そのまとめる役割をもったのが、活字メディアであった。メディアを通してバラバラだった個々が、つながりの感覚、国民の意識が芽生えていく。いわゆる想像の共同体が出来上がっていく。 
 また、出来上がった想像の共同体は絶えず共同体を強化する働きかけられる。そういう流れの中で、共同体としての物語が編纂された。つまり、歴史(偽史)が作られたのである。
 日本の場合だと、明治以降の日本は国民をまとめ上げるために、明治天皇という装置をメディアとして活用し、学校で使ったわけですね。また、学校の存在は国民国家を作り上げるために切り離せない装置である。
 歴史(偽史)はコミュニティ強化のために、現在もなお、生み出され続けている。修正主義者の歴史(偽史)が典型的な例。
 で、ここまで来ると勘の良い人はこの本の目論見に気づくと思うが、国民国家がいかにして歴史(偽史)を生み出したか、っていう運動それ自体を、著者はラーメン史を編纂を通じて、再現しているのである。
 かなりアクロバティックな実践です。だからタイトルが『ラーメンと愛国』。というかそれ以外ありえない。
 そこに気づくかどうかでこの本の評価は大きく変わってくるんですが……残念なことにほとんどの読者にはこの仕掛けは気づかれなかった笑。まるで清涼院流水みたいな小説笑。

 以上の仕掛けを理解してから読むと、偽史を生み出すためによくここまで調べたなあ、という感想も湧いてくる。歴史を生み出すために説得力がいるから、事細かに記述しなければならない必要があったのはわかるが…これは大変な作業だ。
 もちろんラーメンの歴史として素直に受け取っても楽しめる作りになるよう心掛けていたとは思う。けど、冗長であるという評価もあるし……そこは、そもそもラーメンが好きかどうかで好みが分かれるだろうなあ、と。

 個人的に好きな記述はラーメン二郎の章ですね!
 

参考文献
 『想像の共同体』ベネディクト・アンダーソン
 『ミカドの肖像』猪瀬直樹

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