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37歳から43歳までの不妊治療でドリカム「何度でも」が聞けなくなった話

DREAMS COME TRUEの歌に「何度でも」というパワーソングがある。大好きな医療ドラマの主題歌だった。この歌で、歌い手である自分は〝きみ〟の名を何度も呼び、悔しくて苦しくてがんばってもどうしようもない時も〝きみ〟を思い出す。10000回だめでも10001回目は何か変わるかもしれない、と繰り返し、曲は〝明日がその10001回目かもしれない〟と終わる。
何度でも立ち上がるという宣言が、強い。東日本大震災のあとには、ラジオで何度も流れた曲だという。わかる。勇気付けられるいい曲だし、私自身大好きだった。車のHDに入っていて、よくかかっていたし一緒に歌っていた。
大好きだった、と過去形なのは、大好きと純粋には言えなくなり、聞けなくなったからだ。
その経緯を、今から長々と書く。
――――――
まだ妊活という言葉もなくて、ただ「不妊治療」でしかなかった頃。数年来の不妊治療の末期、私は子どもを持つことはできないんだろうなと確信的に思ったのは、自分の下の毛に白髪を見つけたときだった。
夫よりも遥かに多く私の陰部を見ている医者と、医者の横に控える看護士の手前、入浴のついでに陰毛を整えておこうと風呂の洗い場で剃刀を持った私の目に飛び込んできたその白さは衝撃的で、今でも思い出すことができる。
陰毛の白い妊婦さんなんていないよ。赤ちゃんをお腹に抱えてキラキラ幸せな妊婦さんの陰毛に白髪があるなんてありえないよ。そう思った。
実際、陰毛に白髪があったって妊婦になる女性はいるだろう。しかし白髪を認識した時の私はもうダメなんだと感じたし大きくショックを受けた。そして、ショックと共にやってきた感情は安堵だった。
そうか、私はもう母親になることを諦めてもいいんだ。陰毛に白髪が出るような歳なんだから。この不妊治療をやめてもいいんだ。この不妊治療に振り回される生活をやめてもいいんだ。だってそういう歳だから。
「不妊治療」は当時の私にとって、可愛い赤ちゃんを授かるための希望に満ちた行いではなく、見えない未来への先行投資として生活の全てを捧げなければならない苦行だった。
 
同い年の夫と結婚したのは25歳の時だった。子どもは欲しかった。就職氷河期と言われた時代だったし若かったし、決して金銭的に恵まれてはいなかったが、できてしまえばそれなりに暮らしていけるのだろうと楽観もしていた。避妊具をつけるのをやめ、月に何度かのセックスをしていればすぐにでも妊娠するのだろうと、そこも楽観していたので、妊娠しないままでそのうち2年たち、3年たつ頃には私は年に12回、トイレで泣いた。
私、子どもができない体なのかなあ。俺に種がないのかもよ。そうやって口に出すのは逃げだった。「なのかなあ」。「かもよ」。と、可能性のままにしておきたかった。私たちは二人とも、相手に問題があることを恐れていた。問題があるのは自分だと、落ち込み嘆く相手のことを支える自信が、どちらにもなかった。
不妊治療をした方がいいのではないか。心のどこかでそう思いながら、時間もないし、お金もないし、と言い訳して先延ばしにしたのは夫婦関係の変化を恐れてのことだった。
 
男の人が果ててもペニスが小さくなるまで中にいろとか、終わったらすぐに女性は逆立ちをしろとか、射精のときは後背位がいいとか、心から相手を愛しく思うセックスをすれば授かるだとか、「結婚して数年、子どもが欲しいけれどもまだ授からない夫婦」の元には、いろんな人がいろんな情報を寄せた。誰もが、何かを、教えてくれようとしていた。インターネットで自分で調べるならともかく、血のつながった親にまでセックスの指南をされるのは、心底気分の悪いことだった。
でもそんな気分の悪さを乗り越えてでも子どもが欲しかった。いろんな情報をいちいち試し、けれど2週間後くらいにはトイレで泣く。そんな繰り返しにほとほと疲れた頃。結婚して7年の結婚記念日に、妊娠がわかった。
 
結論から言うと、その子は流産した。
夜中に鮮血で出血して産婦人科に駆け込んだ時に、モニタのちらつきと見間違うようなチカチカという頼りない心拍を見たのを最後に、流れてしまった。
やりきれない思いを、もちろん抱えた。悲しいとかつらいとか、思い当たる言葉をいくつ並べても、自分の体の中に生きた命を失う経験を表現するには足りなかった。
 
しかし一方この流産は、私たちは子どもを授かることができるんだ、妊娠できるんだという希望にもなり、不妊治療を開始しない、一つの理由になった。
不妊治療を開始しないもう一つの理由は病院への不信だった。
 
私たちの地元には、不妊治療に強いとして全国的にも有名なA産婦人科があった。この土地で不妊治療を行うなら、そのA病院を選ぶのが当然だった。なにせ、全国から飛行機に乗って宿をとって通うほどの病院なのだ。しかし私はその病院の院長のことが好きではなかった。
私は看護士を取材する仕事でライターとしてA病院に訪れたことがあり、カメラマンと共に、ここで待てとスタッフに通された院長室にいた。そして入ってきた院長に「なんなんだお前たちは! 出ていけ!」と怒鳴られたのだった。
取材があるということも聞いていない病院スタッフとの報連相の悪さにも、そこにいる人間が何者なのかを確かめる前に「お前たち」と言える高慢さにも驚いたし、何より他人に向かって瞬間的に怒鳴ることができる人格も恐ろしかった。ただでさえ、大きく股を開いて陰部を見せるなんていう屈辱的なことを、そんな人格の持ち主相手にするなんてことは絶対にできないと思った。
怒鳴られてすぐ、異変を感じたスタッフが慌ててやってくるも、こちらへ、こちらへ、とただ外に誘導されただけだったのもダメ押しだった。ここに通したのは自分の判断だとも言わず、この人たちは取材のスタッフだと説明をするでもなく、そして私たちに頭を下げるでもなかった。巷では神のように崇められている院長は、病院内でも神だった。A病院では物事の筋を通すことよりも、神を怒らせないことの方が大事なのだ。万一、治療の最中に患者と神が揉めるようなことがあったとしたら、病院は触らぬ神に祟りなしを地で行って、患者に我慢を強いるに違いないと感じた。この体験は、A病院を選ばない…イコール不妊治療を行わない大きな理由だった。
 
けれど流産からまた4年たち、5年がたつ。
 
40歳になれば、妊娠を諦められる気がしていた。今のように、50歳近くなった芸能人の妊娠報告を耳にしたりはしなかった。40歳になれば、もう40歳だからともう無理だからとすっきりきれいに諦められるのだと思っていた。
だけど。それなら、40歳になった時に心残りなく諦められるように。不妊治療にチャレンジしていたならばもしかして、というたらればを思ってしまう可能性をなくすために。40歳までのあと数年、不妊治療をしてみるのはどうだろう。そう考えはじめていた。
その頃には、前述のA病院にかかっている友人夫妻も何組かいた。あの院長が嫌いで、とこぼした時に、人格じゃなくて技術を買うんだから技術さえあればいいのだと考え方を教えてくれた友人がいた。人格がよくったって子どもができなきゃ本末転倒だろと笑われて、それもそうだと思えた。院長は忙しいからわざわざ指名して長時間待たないと院長の診察にはならないよ大丈夫、と教えてくれた友人もいた。そうか、そういうもんなのか、と安心材料を一つ増やすことができた。
A病院で不妊治療を開始したのは、あと3ヶ月で38歳になる時だった。
子どもをこの手で抱くために。子どもを夫に抱かせるために。そしていずれそれをきちんと諦めるために。私たちは不妊治療を開始した。
 
不妊治療を開始してから数ヶ月で体外受精にステップアップして2回妊娠し、そして2回流産し、自然妊娠の時と合わせて流産は3回になっていた。不育症の可能性も調べたが甲状腺にも子宮形態にも夫婦の染色体にも異常はなかった。多分違うと思うけど念の為、と前置きされながらアスピリンを処方され、アザだらけになって暮らしても、よい結果は得られなかった。
要するに治療はお手上げだった。何か新たにできることはなく、ただ薬を飲んで注射を打って卵巣を刺激して卵を育て、採卵して、夫の精子と受精させ、受精卵を子宮に戻す。体外受精を繰り返すだけだった。
医者にはある時、不妊治療のやめ時を尋ねたことがある。ねえ先生、お医者さんの立場から、もうあなたは治療をやめた方がいいですよと言うことはあるのですか。医者として、この人はもう無理だと思った時にはそれを伝えてもらうことができるのですか。医者は困ったように少し言い淀んだ。卵子がね、もう、採れなくなる人が、います。
 
次の治療周期こそが10001回目だと信じて、10001回目が来るまで、もしくは卵子が採れなくなるまで、毎月のように50万円ほどを払い続けるのかどうか。私たちの不妊治療は、そういう段階だった。ありとあらゆる検査をし、現状に特段の異常はなかった。
「何かできること」を探すうち、新たにオープンしたB病院を見つけた。患者のための運動プログラムや、酸素カプセルや近赤外線の機械を用意しているこのB病院に転院したが、結局「違い」とはその程度のことだった。酸素カプセルに入ったから妊娠しましたなんていうエビデンスは知らなかった。しかしもしかしたら何かが変わるかもしれない。バタフライエフェクトのように、吸い玉が、気功が、ピラティスが、温熱ドームが10001回目を迎えるきっかけになるのかもしれない。それに、治療以外にも患者のためにできることを用意しようというサポートの姿勢はありがたいと思った。
しかしB病院の医者は、A病院のカルテを全てコピーしてもらい、どっさりと持ち込んだそれに目を通すことなく脇に置いて、そして私に治療の経緯を説明するよう求めた。
そっか。じゃあ、ちょっと前とは違ったことをやってみる? たくさん卵子を採ることを目指すんじゃなくて、たった一つの質のいい卵子を採れるように育てる方法なんだけど。医者は軽く言った。
カルテを見て貰えばわかると思いますが、今まで、マックスで多く採れたのは4つです。その時も受精卵として育ったのは3つでした。卵巣を刺激しても、1つか2つしかできません。私は多くの卵は採れないみたいです。
じゃあ尚更、その一つをきちんと育てる手法でやってみましょう。
私に異論はなかったが、B病院での最初の採卵は失敗に終わった。卵巣に針を刺したのに、採ったのに採れなかったとわけのわからないことを言われた。説明を求めると、結局、採卵を行う寸前に排卵してしまったとのことだった。
A病院では、排卵が近づいているかどうかを見るために、時間を決めて尿の採取をしてホルモン値のモニタを行いましたよ。今回、そういうことをしなかったですよね。「あなたがきちんと仕事をしてない結果だよね」という呆れを、私は隠せなかったと思う。しかし医者は、そういうモニタリングは患者さんの負担になりますのでと悪びれずに言った。うちは患者さんに寄り添った治療をするんです、と。
負担になろうがどうだろうが、痛い思いだけをして卵を採れないよりマシだと、失敗した採卵の費用だけを払わされるよりマシだと、もちろん卵を育てるための薬や注射や診察の費用も払って、そのための通院の時間を都合した1ヶ月を無駄にすることよりは絶対にマシなのだと、それを言っても医者に伝わった感じはなかった。
その時点でB病院を見限るべきだったと今は思う。しかし本当に、もう「できること」がなかったのだ。B病院で、酸素カプセルに入ることくらいしか。
 
医者は、別に何も悪いところのない私の治療がうまくいかないことに首を傾げつつ4ヶ月が経った。誕生日を迎え、40歳になった私に突然「もう40歳なんでね、卵子も老化しますから」と、なかなかうまくいかない理由を私の年齢のせいにするようになった。
40歳になって突然、卵子が老化したとでも言うのだろうかこの医者は。心底呆れるとはこのこと、と思いながら、A病院に戻ることを真剣に考えた。しかし、A病院でよく診てくれていた、主治医とも言える先生はひどく多忙になっており、指名して何時間も待たないと診てもらえない状況になっていたのだった。
40歳になったからといって、想像していたようには妊娠を諦められなかった。不妊治療は継続し、B病院でも一度だけ妊娠し、そして4回目の流産をした。
 
手詰まり。
本当に手詰まりだった。
 
もちろん私たちは、病院にかかる以外にもできるだけのことを行なっていた。
カフェインを断ち、小麦を控え、無肥料の野菜を取り寄せた。梅雨が明けるまでは生野菜も氷もとらなかった。夏でも三陰交が隠れる丈のソックスを履いて腹巻きをした。布ナプキンに替え、よもぎ蒸しをして、酵素浴にも通った。家相をみてもらって寝室の位置を変えた。あの神社がいい、あの寺がいいと聞けば神頼み仏頼みに行き、吉方位に旅行に行き、飛行機の距離の先祖の墓参りにも行った。お腹がいっぱいになるほどのサプリを飲み、プラセンタを打った。
 
「何度でも」。
 
〝こみ上げてくる涙を 何回拭いたら 伝えたい言葉は 届くだろう?〟
治療がうまくいかないごとに、涙はいつだって、何回だってこみ上げた。何度泣いたなら、切実に子どもを求めるこの気持ちが、誰かにどこかに届いて何かが変わるのだろうと思った。
 
〝誰かや何かに怒っても 出口はないなら〟
患者に寄り添うと口では言いながらも完全に他人事で、採卵も失敗するし治療の方針も忘れてしまうようなB病院の医者に、正直怒りはあった。しかしそれをぶつけても妊娠という出口には辿り着かないのだと、ぐっと堪えて治療についてのリサーチと勉強を行なって、こういう治療をしたいと自分からオーダーするようにした。
往復1時間以上をかけてB病院の運動プログラムに出ているのにまともに運動指導をしてくれず、自分の悩み事を話し続けるインストラクターに対しても我慢した。この人の気持ちが少しでも軽くなったなら、それは自分の徳積みになったのではないかと自分をなぐさめた。
とにかく怒りという感情を持つこと自体が妊娠によくない気がして大抵のことを堪えたし我慢した。うっかり夫と夫婦喧嘩でもしようものなら、ああ絶対にこの周期では妊娠できないと確信的に思って落ち込んだ。
 
〝何度でも何度でも何度でも 立ち上がり呼ぶよ きみの名前 声が涸れるまで〟
4度の流産を経てもなお、私も夫も立ち上がったことをほんとうに偉いと思う。よくやったと思う。子どもが欲しいと、自分の子どもを抱きたいと、声も涙も涸れるほどに願った。
 
〝悔しくて苦しくて がんばってもどうしようもない時も きみを思い出すよ〟
悔しいことも苦しいことも、ほんとうにいくらでもあった。
2度目の流産手術の翌日に予定されていた飲み会を断る際に「仕事?」と問われ「そうなんです急なことですみません〜!」と嘘をついた悔しさ、やるせなさ。
3度目の流産時に出血を待てと言われているタイミングで、仕事仲間のフェイスブックに上がった出産報告におめでとうと祝福のコメントを入れた苦しさ。
けれどその度、子どもが生まれたらどんな風に愛情を注ごうかと想像し、夫が子どもを抱いて幸せそうに笑ってあやしている顔を想像した。
 
〝10000回だめで へとへとになっても 10001回目は 何か 変わるかもしれない〟
〝落ち込んで やる気ももう底ついて がんばれない時も きみを思い出すよ〟
〝前を向いてしがみついて 胸掻きむしって あきらめないで叫べ!〟
〝この先も躓いて傷ついて傷つけて 終わりのないやり場のない怒りさえ もどかしく抱きながら〟
 
前向きな歌だ。力が出る。支えられた瞬間もいくつもあった。
しかし、子どもを産むために様々な努力をし、それが報われずにいる自分の現状と重ね合わせ、〝きみ〟を未だ会えぬ自分たちの子どもだと思って聞いてしまってからは〝明日がその10001回目かもしれない〟という最後の希望の歌詞が、私たちにはそのまま呪いとなった。
諦めなければ10001回目は来るのだと、10001回目が来るまで諦めなければよいのだと、そう思うには、もう疲れすぎていた。
「何度でも」が、呪いの歌になってしまったことに気づいた頃、私は陰毛の白髪を見つけたのだった。
貯金を全て使い果たして親にまで治療費を借り、わかっているだけで800万円ものお金を不妊治療につぎこんだ。体外受精のたびに2kg、3kgと体重が増え、5年弱の不妊治療の間に20kg以上も増量した。
もう、いいのではないか。
10001回目が来るのはほんとうだと思う。けれど、私たちはもう、私たちにとっての10001回目を信じなくてもいいのではないか。
10001回目が来ることを待たないこともまた、一つの解放だしゴールなのだと、それが私たちの答えだった。
 
これが最後と決めた体外受精卵を子宮に戻し、そして、その卵は妊娠に至らなかった。私たちの10001回目は来なかった。
もし次もチャレンジしていたなら、次がほんとうの10001回目だったかもしれない。
けれど、そうだったとしても、10001回目を迎えなかったことに後悔はない。
 
あんなにいい歌でも、その前向きさが辛い人もいるんだよ…ってことを、残そうかと思って書き始めた数年ぶりのNOTEだった。心底清々しい気持ちで「後悔はない」と書けたことに、自分でも驚いている。
自分たちなりの精一杯で、できることを全力でやった不妊治療だったのだ。
 
〝きみを呼ぶ声 力にしていくよ 何度も〟
望むことを怖がらず、真剣に「きみを呼んだ」ことが、私たちを支える力に変わっていた。ありがとう。子どもとは、生まれてこなくてもなお、親を支え強くする存在なのだね。
ずっと聞けなかった、ランダム再生でかかるとスキップしていた「何度でも」を、このあとまた、聞いていけるのだろうという確信が、今この瞬間、嬉しい。
聞きながら、時にはやっぱり泣くのだろうと思う。うん、その時は、泣こう。
 
#創作大賞2023
#エッセイ部門

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