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つなぎ残滓か【未完】

月曜日(946字)

 階段にコエちゃんがいないか確かめる。いるわけない。今日は月曜日。五階と四階を結ぶ階段中ほどに、コエちゃんが腰掛けてうつむいているのは土日と火曜。

 エレベーター脇の重くて開けにくい扉を開けて階段のある空間に入る。温度と湿度と匂いが違うので〈くうきかんがかわった〉と感じる。

 これ見よがしに敷かれた赤絨毯、白地に金糸刺繍の入った品のある壁。眩しくもなく本が読めないほどでもない照明。去年の夏辺り、六階のエレベーター脇のチェアで一晩中、本を読もうとしたことがあった。深夜一時頃警備員に注意されてやめたけど。電子書籍だったけど紙の本でも普通に読めたと思う。夏でも冬でも半袖と長袖どっちでもいいかなと思う温度。柑橘かバニラか判断がつかない上品な香り。全力でもてなそうとしてくる。

 重扉のこちら側はそんないらぬ世話をしてこない十階建てマンションの内階段。自室のある八階から七階、六階、五階と降りていく。階数表示こそあれ、下りても下りてもおんなじ。五階と四階の間にコエちゃんがいれば今、自分は何階にいるのか知ることができる。今日は月曜日なので、自分がどこにいるのかわからないまま四階、三階、二階、一階と下りてった。

 再び重い扉を開けて表の世界に出る。受付にいる人はもう何もいってこない。黙って会釈をしてきたので僕も会釈を返した。これも本当はいらないんだけど、仕事だからしょうがない。僕だってしてる。

 無駄にある数段しかない、やけに幅広で一段に二歩使うような階段を降りてようやく外に出れた。マンションの側面にある自転車を停めておく空間に入っていった。暗いし少しほこり臭い。ここまでは気がまわらなかったらしい。いつも停めている一番奥まで歩いていった。

 電話しようか、受付の人にいおうか迷ったがやめた。ゴミと間違えられたのかもしれない。盗まれたってことはないだろう。カードキーがないと外からは入れないし、ここの住民があれを盗るとも思えない。

 ずっとパンクしてたから。あれに乗っているとよく「パンクしてるよ」って声をかけてくれる知らない誰かたち。「あっ、そっすね」と僕はそれに返す。もうそれができない。自転車は惜しくない。問題はバイトに遅れそうってこと。早朝四時半にタクシーはいない。僕は二キロの早朝マラソンをするはめになった。

シャツ(968字)

 コンクリの無機質な階段の踊り場部分まで駆けあがる。ひと呼吸して残りの階段を駆けて自動扉を開いた。「いらっしゃ……あー、小守こもり君きたきたきた」とホールの久保さんがいう。僕は「おはようございます、すみません、遅れました」と大げさに息を吸って吐いてしながら右手でワイシャツのボタンの上から三つ目と四つ目まで外す。一つ目と二つ目はすでに外してあった。一つ目はいつも締めていないが、二つ目は商店街に入ったあたりで外した。二つ目を外したのはマラソンをして暑くて息苦しくなったからだったが、三つ目と四つ目を今、外したのは作為的だったかもしれない。

 四十代中頃にも五十代にも見える久保さんは「また加藤さん、怒るよ」と笑いながら胸元にリボンのついたエセメイドの恰好でテーブルを拭く作業に戻っていった。コンパスのような腰。そこにも無駄にリボンがあった。

 僕は西洋のごうかけんらん然とした空間から、白いだけの従業員スペースに下りていった。更衣室で五つ目と六つ目も外してシャツを脱いだ。ハンガーにそれをかけて、別のハンガーから薄っぺらいシャツを手に取った。左手を通し右手を通す。生地の下の肌の色が見える。目を凝らせば産毛さえ見えるような気がする。走ってもボタンを外す必要はないかもしれないと思ったが、汗をかいたら〇・〇一ミリリットルも吸収してくれないんだろうなとも思えた。いつものようにたっぷりと時間をかけて制服に着替えた。エセコックになって上の世界に戻っていった。

 調理場横の休憩室でノートに、名前と遅刻の理由を、力を抜いてミミズみたいな字で書いた。〈小守大高ひろたか〉を書いた後、〈ねぼうしたため〉と書きそうになったが、そう書いてもよかったが、ありのままに書こうと思った。が、〈じてんしゃが〉まで書いて考えを改めた。〈ぬすまれたため〉ではなく〈こわれたため〉と書いた。二つ上の欄には〈小守大高〉と〈ねぼうしたため〉があった。

 調理場に行き、河合さんに謝罪をして引き継いだ。河合さんは小柄な男性で僕と同年代、二十代中頃に見える。二十一時から五時までの勤務だが、僕のせいで無駄に残業をする羽目になった。業務連絡以外では誰とも喋らない河合さんは僕の謝罪に対しても無反応だった。だから僕も特別飾り付けることなく「遅れてすみませんでした」といっただけだった。五時半になろうとしていた。

卵(789字)

 バンドマンが頭をよぎったが、よくある理由だと思ったので却下した。後で知ったがやはり店にはバンドマンがいた。ヤマハのギターを買ったことはある。買っただけでほとんど触らなかった。お笑い芸人はどうか。揉み手でステージマイクに近づいていく自分は想像できた。次の言葉は出てこなかった。

「マッサージ師をしています、フリーで」マッサージについては何も知らない。音楽談義やお笑い談義は聞いたことがあっても、マッサージ談義は聞いたことがなかった。ファミレスでマッサージしてくれもないだろうとも思ったのでこう答えていた。

 卵を割り続けてしばらく経ったころ、加藤さんが出勤してきた。
「また遅刻したんだって」とため息をついた。五十代主婦で元教師だと店長がいっていた。二人で延々と卵を割り、それから肉を焼いて麺を茹でた。加藤さんはリーさんとまた揉めていた。百人前の卵料理と百人前のその他を作りエセコックの役目を終えた。

 来たときとは逆に白シャツからトゥルッツィに着替えた。薄いだけの白シャツには跳ねた油の跡があったが、自前のシャツには染みはなかった。いつもはないヨレと少しの体臭があった。

 帰り道に自転車を買った。すすめられた物を買った。カードで支払いをした。不要な音も振動もなかった。力をいれた分だけ進んだ。商店街のくたびれた粉もの屋で、三百円のお好み焼きと三百円のたこ焼き、三百円のあんみつを頼んだ。手のひら大のお好み焼きを放射線状に八等分にした。ひと切れをさらに三つにわけた。ひと口分ごとにマヨネーズと青のりをかけた。たこ焼きは六つあった。それぞれひと口で食べたがたこはすぐには噛まずに舌で転がした。あんみつは具材を一つ一つ剥がすように食べた。最後に親指大の粒あんが残った。知らない漫画の四巻と五巻をめくった。どちらもカバーがなく中まで黄色く変色していた。柱の時計を見るとまだ十五時にもなっていなかった。

56(940字)

 粉もの屋で昭和のヤンキーが無茶する漫画をパラパラするのはこれ以上無理だった。棚に戻す。ページが波打ってもとの倍以上の厚さ。詰まった本棚であれば戻すのに苦労しただろう。いつかの週刊誌と漫画雑誌、揃っていない漫画単行本数冊が横積みになっている。その上にそっと二冊を置いた。この漫画はやはりこの四巻と五巻しかないようだ。会計して店の前に停めていた自転車にまたがった。ちらりと後ろを見たがニケツしてくれる相棒は僕にはいない。この新品の自転車もニケツして無茶な走りをしていたらまたパンクするかもしれない。

 ペダルを漕ぎながら、ふと左手を見ると甲の小指側にすす汚れたような黒い線があった。指の骨とは垂直に数本何かの汚れがついていた。どこでついたんだろう。何十回と石鹸で手を洗うファミレスでついた汚れではない。だとしたら四巻と五巻しか置いていない昔ながらのオンボロ粉もの屋だろうか。ボロの本棚からボロの漫画を手に取ったときだろうか。油で光っているボロのテーブルだろうか。ボロの畳だろうか。いずれにせよ僕はこの汚れが気に入った。

 中国で何かを待っている時にマジックで手の甲に番号を書かれた。行列を管理しやすくするだけに書かれた番号。雑な係員の字で「56」と書かれた。僕はこれを気にいってなるべく消えないように努めた。手を洗うときは手のひらだけを洗い、シャワーのときは水がかからないようにした。水性だったので帰国するころには跡形もなく消えていた。あの時、こういう発想ができればよかったのに。

 上から縁取ってもらおう。なるべく不自然ではないようにしたい。もしも技術があったら右手の甲にも同じものを入れてもらおうか。いや右手の甲には56を入れてもらう。あのときもたしか右手だったはずだ。黒ペンだったと思う。青だったかもしれない。この際、色はどうでもいいか。彫り師が適当に手に取った色で、電話しながら付箋にメモするみたいな字で56を彫ってもらおう。

 マンションのある通りに小さい刺青屋がある。目的地を得た自転車は三割ほどスピードアップした。56は僕にとっては特別だ。56を彫るのはこの黒線がうまく彫れてから。自転車は徐々にスピードを落とし停止した。刺青屋少し手前で左手の黒い汚れが消えていることに気づいたからだ。


爪に火を灯すような生活をしております。いよいよ毛に火を灯さなくてはいけないかもしれません。いえ、先祖代々フサの家系ではあるのですが……。え? 私めにサポートいただけるんで? 「瓜に爪あり爪に爪なし」とはこのことですね!