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100分 de 福音書

2023年4月現在、100分 de 名著(NHK Eテレ)で新約聖書の「福音書」に光が当てられている。「福音書」はイエスの生涯について記したもので、キリスト教を語る上で欠かせない。講師は若松英輔。カトリックの信仰をもつ批評家・随筆家である。

「福音書」に親しむ一年にしたいという抱負を抱えていたロバは、3月から配信を楽しみにしていた。今日までに第3回まで配信されたが、別売りの番組テキストで予習してがっつり視聴している。

このnoteでは、そのテキストを手短に紹介する。正直、よい。テキストの方が論の展開がはっきりしていて、若松の見解もクリアだ。内容も濃い。テキストが「本編」と言っても過言ではない。

この記事を読んで「テキスト買ってみようかな」「明日の配信見てみようかな」と思う人が一人でも生まれたら、ロバは幸せである。

それでは、はじまり、はじまり〜。

「福音書」を読む = 「わたしのイエス」を発見する

100分 de 名著(NHK Eテレ)は、その番組名の通り、100分で一冊の本を紹介する作りになっている。4回構成で、1回あたり25分。月曜日の夜に配信される。

『福音書』を読み進めるにあたって若松は、その読み方を方向づける。

……福音書で描かれているのはイエスの生涯です。……「生涯を読む」という試みには、一つ一つの事実を確認することに終わらない何かがあります。私たち自身の一生もそうなのではないでしょうか。語ったことよりも、語り得ないことのほうが、人間の一生には多い。言葉にならなかった真実、それを見過ごしてしまっては、「生涯を読む」ことはできません。

若松英輔『NHK 100分 de 名著 新約聖書 福音書』p.5

「生涯を読む」という試みをする際の心構えとして、語られなかった部分にも目を向ける必要を若松は主張する。彼は一般論のように語っているが、かなり大胆で特殊で、それでいて説得力のある主張だ。

「福音書」を、読んでいくうえで、キリスト教に関する知識は必ずしも必要ではありません。むしろ、先入観や知識は邪魔になることすらある。それよりも、あなた自身の苦しみや悲しみ、嘆きといったさまざまな経験をよき導き手として、それぞれの「イエス」と出会ってみてほしいのです。「福音書」を読むとは、読者それぞれの「わたしのイエス」を発見することなのです。

若松英輔『NHK 100分 de 名著 新約聖書 福音書』pp.6-7

殊に福音書に関していえば、「苦しみや悲しみ、嘆き」などの個人的でネガティブな感情を手がかりに読み進めていってほしいと提案する。
ナザレのイエスは、逆境のうちにある人に寄り添い続けた人物である。自分自身の逆境の体験を持ち寄ることで、イエスと出会うことができ、それが同時に「福音書」を読むことだ。これが若松の基本的なスタンスである。

最後に若松は、文字を読むだけでなく、行間や文脈を読むよう注意を払う。

「福音書」を読むときは、文字や声になる言葉だけでなく、コトバも感じ得るような心を準備する必要がある、ということです。「福音書」を読むとき、文字だけを追っていくと、大きな矛盾に直面し、投げ出したくなるかもしれません。しかし、矛盾が矛盾に終わらないことがあることも、私たちは人生の現場で経験しているのではないでしょうか。

若松英輔『NHK 100分 de 名著 新約聖書 福音書』p.8

残念ながらキリスト教界隈ではしばしば、解釈の在り方をめぐって対立が起こる。神ならぬ人間が読むのだから、解釈違いが起こるのは当然である。どうか、仲良くしてほしい。

愛する = 悲しみを育む

一つケーススタディをしたい。「福音書」のなかでイエスはたびたび説教をするが、中でも有名なのは「山上の垂訓」である。「○○な人は幸いである」という、あれである。8回繰り返されるので、真福八端とよぶ人たちもいる。人間を真の幸せに導く八つの端緒というわけである。次の引用はその一つ。

悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。

マタイ5:4「聖書 新共同訳」

逆説的な言葉である。まさに「文字だけを追っていくと、大きな矛盾に直面し、投げ出したくなる」ような箇所である。この箇所について若松は次のように解説する。

次にイエスは「悲しむ人は幸いである」と語ります。ここでの「悲しむ」とは単に悲嘆にくれることではありません。それは何かを深く愛したことの発見だといってよいと思います。日本語でも「愛しむ」と書いて「かなしむ」と読むことがあります。誰かを愛するということは、ある意味で悲しみを育むことなのではないでしょうか。誰かを深く愛すれば愛するほど、その別離に伴う悲しみは大きくなるのです。
(中略)さまざまな苦難にぶつかり、一人、部屋の中で膝を抱えて泣くような日は、誰にでもあると思います。そんなときにも、姿は見えないけれどイエスが隣で泣いてくれている。「福音書」を読んでいると、そうありありと感じることがあります。

若松英輔『NHK 100分 de 名著 新約聖書 福音書』pp.33-40

悲しむことは、深く愛したことの証拠。この見解は、若松自身の悲しみの体験から来ているのかもしれない。次の詩は『詩集 愛について』からの引用である。

神さま
あなたは たしかに
祈りを聞き入れてくださいました
わたしは あのひとを
生涯 愛し続けられますようにと
祈ったのです
ほんとうに
おもいは 募るばかりです
わたしの手からあのひとを奪って
あなたのもとへとお召しになられた
あの日から
ずっと

「祈り」(若松英輔『詩集 愛について』pp.46-47)

若松の個人的体験については推察の域を出ない。しかし個人的な体験を持ち寄ってこそ、イエスと出会うことができる(=「福音書」を読むことができる)という冒頭の主張の意味は、これで伝わったと思う。

この記事を読んで関心を持った人は、明日4月24日(月)配信の第4回を見てほしい。22時25分からである。25日(火)の朝5時30分からもやっている。
(時間帯的に厳しい人もNHK+で見逃し配信もあるので諦めないで!)

このテキストはNHKの番組テキストだから、当然キリスト教の信仰を持たない人も読者として想定されている。このテキストで関心を持った人はぜひ「福音書」を手に取ってほしい。とりあえずはネットの海に転がっているものでいいと思う。
しかし「『福音書』はあまりに時代的・空間的に隔たりがあるから、個人的体験を持ち寄ることが難しい」という人もあると思う。尤もである。そんな人には遠慮せず、入門書と合わせて読むことをおすすめする。この記事でレビューした若松のテキストでもいいし、こんな感じのネットに転がっているものでもいいし、こんな感じの書籍でもいい。

最後に

最後まで読んでくれてありがとうございました!
ところでAmazonほしい物リストという、おねだりサービスをご存知でしょうか。そのリストに番組テキストを追加したところ、次の日には家に届きました!ただただ感謝です!!もしよければ覗くだけ覗いてください。いただいた本は、今回と同じようにレビューをします!それでは!

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