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例えば洋、お前がそうだったように

友達の話をしたい。本稿では彼のことを仮に洋(ひろ)と表記しておく。

洋との関係

洋と知り合ったのはちょうど今から10年ちょっと前のことだ。当時、自分が帰属していたメダロットという作品のファンコミュニティに彼もいた。洋とは帰属するグループが異なっていたので、当初はインターネット上でお互いに存在を認知している程度の付き合いだった。

はっきり覚えているファーストコンタクトは2010年のメダロットオンリーイベント(以下、メダオンリーと表記)。メダオンリーとはファンメイドで開催する同人誌即売会で、漫画やイラストなどファン各々が自分の好きな表現手法を用いてメダロットをテーマにした同人誌・グッズを制作し、頒布し、またそれを別のファンが購入する循環が生まれている場所だった。

その前年、大学二年次のプレゼミで同人誌の制作・頒布を通じた研究調査に取り組んだことで同人誌制作のノウハウを得た俺は、その2010年のメダオンリーに初めてサークル(同人誌を作り、頒布する側)参加することにした。

サークル参加者は圧倒的に絵描きが多く、頒布される同人誌も漫画やイラストを主体にしたものが多い。俺は絵が不得手だから、そういう同人誌は作れる気がしなかった。一方で文章にはある程度自信があったから、小説同人誌を作ることにした。物書きはマイノリティだ。そして当時まだほとんど面識のなかった洋も、そのメダオンリーで小説同人誌を頒布する予定だとSNSで知った。同じ文章書きとして、一度ちゃんと話してみたいと思った。

メダオンリー当日、会場でサークルスペースの設営をしている洋の姿を見つけた。落ち着いた頃を見計らって、自分の作った同人誌を持って挨拶に行った。挨拶がてら渡した俺の本のタイトルを見て洋は、

「THE BACK HORNですか?」

と言った。その本のタイトルは”美しい名前”と銘打っていた。THE BACK HORNというバンドの楽曲から引用したものだ。洋はそれを理解して、そう言った。

俺の本はA5かB6ぐらいのサイズで印刷した全20ページ程度の薄い掌編小説だったのだけど、洋の本は文庫本サイズで100ページぐらいの厚みがありフルカラーのカバーが掛けられた、普通に書店の小説コーナーに並んでいるものかと見紛う、まさに『小説』然とした本だったので、驚いてしまった。

洋の本のタイトルは“Ride on shooting star”。the pillowsの楽曲から引用したものだった。

文章書きとしての共鳴

俺も彼のような本が作りたいと思い、翌2011年のメダロットオンリーでは文庫版・100ページ超・カバー掛けの小説同人誌、”僕から君へ”を作った。自分にとっても大きな自信になったが、やはりそれを彼が評価してくれたのは嬉しかった。タイトルは、Galileo Galileiの楽曲から引用した。

同じマイノリティである文章書きとして、そしてアーティストの楽曲名を引用してタイトルをつけてしまう人間としてのシンパシーか、俺たちはたまに飲みに行く間柄になった。

メダロットという共通言語を通じてネットで知り合った多くの友人たちの中で、彼との関係性は少し異質だった。他の友人たちを学校の同級生とするなら、彼は同じ学習塾にいる他校の生徒というか……似たような存在なのに少し違っていて、なんとなく一目置いてしまう。そういう印象。

彼はメダロットファンというコミュニティに身を置きながらも、そのコミュニティに対しては常に批判的な立場にあった。しかしやはりメダロットという作品を愛していた。彼はコミュニティの数少ない小説書きを募って、メダロットの小説合同誌を作った。俺もそれに呼応し、寄稿した。それは原義的な意味での『同人誌』ともいえるものだった。その本もまた書店に並ぶような、あるいはそれ以上の装幀を施し、頒布された。彼はその本を作って、メダロットという創作テーマおよびコミュニティから足を洗った。

俺自身も同じ頃、コミュニティの外の私生活で起きた椿事に振り回されて、自分のステージを変えなければならないという気持ちが逸り、自分の中でメダロットを終わらせるための、自分の総決算としてのメダロット小説を執筆し、そのあとがきを自分では書かず、彼に『解説』として寄稿を依頼した。快諾してくれた彼へ、入稿締切の数日前に脱稿した原稿のPDFを送ると、一晩二晩で解説文を用意してくれた。彼の解説文と、また別の頼もしい友人が描いてくれた挿絵と、自身の最高傑作を装幀してこの本を上梓して、メダロットから離れた。彼は後年も折に触れてこの本を絶賛してくれた。

文章という手段

俺はメダロットのコミュニティを離れた後、しばらく一次創作小説の畑で物書きとしての活動を志したが、あまり上手くはいかなかった。そのうちに、小説という表現は自分の手から離れていった。彼もまた別のコミュニティで小説を書いていたが、彼がその活動でどんな手応えを得られたのか、俺はよく知らない。

彼と飲んだとき、「俺たちは小説を書きたいわけじゃなかった」という話をしたことをよく覚えている。

俺も彼も、できることなら絵を描きたかった。絵で自分たちの表現したいことを描き出すことができたなら、それが最良の手段だったのだ。しかし俺たちが“伝える”ために与えられた武器は、絵ではなく文章を書く能力だった。だから俺たちは、自分たちが伝えたかったことを正しく伝えるために、文章術のみならず、手にとってもらうための装幀術までを覚えて、手にとってくれる人間が訪れる場所で頒布をした。文章を書くだけでは、届けたいところに届かないことを知っていたからだ。

――話は少し変わるのだけど、フリーランスとして働くようになり、自分の肩書に悩むことがたびたびある。今は便宜上Webクリエイターと名乗ることが多いけれど、ライターだと名乗ろうと思えば別にできるのだ。ただ本音を言えば、Webクリエイターもライターも名乗りたくはない。だってそれらはあくまで手段なのだ。映像を作ることもある。イベントを企画することもある。目的はあくまで“伝える”ことであり、そのために最適な手段を選ぶだけなんだ。

けっきょく、文章や言葉とは俺たちにとって使いやすい”ナイフ”であったに過ぎない。それでもナイフ捌きには自信があったから、その技術を全く手放すのはどうにも忍びなかった。技術を応用して”包丁”や”ナタ”を仕事として振り回すことはあったが、しかし長年、ナイフは研がれず、錆びついたままだった。

約束

洋は三年前、2017年の11月の暮れにこの世を去った。らしい。らしいというのは、彼の死んだ証を直接確認してはいないからだ。彼の死はSNSで、彼のアカウントから親族によって報告された。彼の墓を参ったことはない。どこにあるのか、墓が建っているのかどうかも知らない。もしあるなら参りたいが、そういう案内が巡ってこないことにはどうしようもない。

2018年。この季節に錆びたナイフを抜いて、インターネットという墓標に短い文章を彫り込んだ。それが俺にできる唯一の弔いで、約束だと思った。

2019年。noteに投稿した。それがこれこれだ。noteに登録したのは、ナイフを研がなければという気持ちが、どうしても燻り続けていたからだ。しかし、思うように書くことはできなかった。秋になり、前年と同じインターネット墓標に短い文章を彫り込んでから、ナイフをまた仕舞った。

2020年。2月、久しぶりに東京へ行った。10年ぶりに大学の同級生に会い、在学中に作った本だから話の種にでもなるかと思って、洋に追いつくために書いた2011年の“僕から君へ”を持参し、見てもらった。彼は「文章を書け」と俺に言った。その日、ごく自然にナイフを抜いていた。それからナイフは抜きっぱなしになった。

『手段』に過ぎない文章表現にあえて固執して今日までnoteを書き続けて、やっぱり俺にとって文章は『武器』ではあるけれど、どこまで行っても『目的』にはなり得ないことを再確認できた。だから、毎日noteを書くことを止めると決めた。もうしばらく続くけども、ナイフの錆はじゅうぶん取れた気がした。

これを以て洋への弔い上げとする。来年、会社を立ち上げたい。それが次なる『伝えたいことを伝えるための手段』だと考えている。小説同人誌という厚くて“薄い”本から始まった道がここまで来たんだ。体の具合はあちこち悪いけど、もうちょっとだけ頑張って生きていくことにしますよ。


タイトル引用
・例えばヒロ、お前がそうだったように/竹原ピストル
・ひろ/amazarashi


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