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noteは古き良きインターネットを取り戻そうとしているのかもしれない

昨日の記事で毎日noteを書くサークルに参加したことを書いたけれど、このサークルという新機能、いにしえのインターネット文化であるところの掲示板、あるいはMixiのコミュニティ感を色濃く匂わせる。noteを使い始めて薄ぼんやり感じていたことが、このサークル機能を通じて確信的になった。それが表題の話だ。

前提条件:筆者のインターネットキャリア

筆者は1999年、当時小学校3年生だった頃からインターネットに触れるようになった。時を同じくしてホームページをビルダーで作り、Geocitiesのプレイタウン・ドミノ通りに番地を持っていた(伝わる人には伝われ)。インターネット黎明期、かつかなり早熟に触れた方だと思う。

それ以来、ホームページや掲示板、チャットといった文化を通じて、顔も本名も知らない多くの人々と出会った。筆者の人生にとり付き合いの長い友人たちは、みんなこの頃に知り合った“ネッ友”だ――今ではお互いに顔も本名も知っているけれど。

ネットが息苦しくなっている

筆者にとって思春期・青年期の成長とインターネットは寄り添うように存在していた。どれだけ進学を重ねても学校というコミュニティには終始あまり馴染めなかった筆者が今も社会と繋がれているのは、インターネットに居場所を見つけられたことが本当に大きな支えになった。

ただ、ここ数年、どうにもインターネットが息苦しい。あっちを見てもこっちを見ても、炎上、マウンティング、出る杭を打ち、足を引っ張り合い、他人の家庭の問題に無遠慮に首を突っ込み、一度見つけた獲物は再起不能になるまでしゃぶり尽くす……。なんか、異様な光景だ。みんな何故そんなに目を血走らせるんだ?

自分もそういった風潮に加担したことが全くないとは言わない。思考も経験も足りない10代の頃は、2chの影響でネット右翼的思想に取り憑かれたことも正直あった。でも近頃は、当時の筆者より思考も経験も十分に足りているような人たちこそ率先的にインターネットを“荒らし”ているような印象を受ける。

noteというインターネットはやさしい

筆者が愛したインターネットはやさしい世界だった。荒らしがいればスルーを呼びかけ、お礼は必ず三行で応え、コミュニティに馴染むために半年ROMることを推奨する……。その空間に帰属したい人たちがお互いを尊重しあい、それぞれ居心地よく過ごせるような調和を追求していたのがかつてのインターネットだったように思う(多分に美化された思い出かもしれない)。

noteというサービスをちゃんと使うようになって気づいたのは、noteはそういう『やさしいインターネット』をもう一度このプラットフォーム上に作ろうとしているのではないか、ということだ。

noteでリコメンドされるコンテンツは、それが自動であれ運営のキュレーションによる手動であれ、極端に何かを言い腐す、誰かの気分を悪くするものが基本的にほとんどないように思う。バッジ等のUXを通じて、コンテンツを供給する側の気持ちが前向きになるよう、腐らないようにする運営側の思いやりも伝わってくる。

いいね機能についても、その他SNSのいいね機能と異なる部分は何もないのだけれど、なぜか他所よりも『Web拍手』に近い雰囲気を感じるのだ。noteというサービス全体から『あの頃のホームページ』の匂いが漂っている。

ただ、いいねのたくさんついた記事のコメント欄にはヤフコメのような空気を持ってくる人もいて、ウェ〜ッと思うことはある。

やさしさが正しいのかはわからない

もちろん、諸手を挙げてやさしさこそ正しいとは思わない。ぬるま湯、茹でガエル理論のように作用することもあるし、やさしさに付け込む人間にかき回されることもある。また懐古というやさしさは、それが進歩的であるかといえば答えは断じて否だ。

何よりやさしさは金になりにくい。事業としての持続は相当な困難を伴うだろうに、それでもnoteが2014年のローンチから現在まで続いていることは大きな希望にも感じられる。

せっかく見つけた楽しい場所なのだから、少々みっともなくても執着してみたい。このぬるま湯は気持ちがいい。

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