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このnoteを読めば、あなたは落語の演目「死神」と筑波大学落語研究会に興味を持ちます!

筑波落研に入ったきっかけ


 私は筑波大学落語研究会第47代会長の百科亭相迷と申します。
 満を持して、最後に会長の私がnoteを書く番となりました………….というわけではなく、単純にサボっていただけ、という話もあるようなのですが、真相は闇に葬ります。

 さて、今年度のnoteは、落語研究会に入ったきっかけを話しているものが多い気がします。私はというと、実はそこまで「これ」という決め手があって入ったわけではありません。
 久米田康治の『じょしらく』という、落語をしないガールズ落語マンガがそのきっかけであるような気もしますし、米津玄師の楽曲「死神」がきっかけである気もします。

久米田康治、ヤスによる日本のギャグ漫画作品『じょしらく』
米津玄師「死神」

 あるいは、単に下心―—―—人前で話す能力を高めたい、という気持ちが影響している気もします。まあ、それらの複合がきっかけなのでしょう。ただ、やはり個人的に現在も落研を続けている理由(なんなら、落研会長まで引き受けている理由)は、少しまた別のところにあるような気もします。

演目「死神」の概要

 私は、古典落語の演目「死神」に惹かれています。
 なんてったって、サゲが良い。

ネタバレ:「最後に主人公が死にます」

 助かることもなくはないんですけどね。でも一旦助かったと思わせて死ぬもの以外は見たことないかな。やりたいことは諸行無常というか、芥川龍之介の『杜子春』的というか、そういうものを描きたいのだろうから、まあ死ななくてもたぶんなんとかなるんでしょうけど、でも「死ぬ」演技というのは、やはり演者の見せ所という気もします。うまいサゲのフレーズよりも、そのただ一瞬、魂の消える演技にすべてを注ぐというのもまた一興という感じ。
 脊髄だけでグダグダいっておりますが、とにかく脊髄だけで「良い」と言えるようなサゲがやはり良いのでございます。


 それからタイトルも良い。「死神」
 落語を見せるとき、演目名を出すことはほとんどないのですが、簡潔無比なこのタイトル、何をやりたいのかはっきりしていて、とても良い。


 あとこのネタをやる演者も良い。6代目三遊亭圓生、立川談志、柳家小三治、柳家喬太郎、有楽亭八雲(CV.石田彰)………..
 YouTubeで検索すると錚々たるメンバーの違法動画が!

つかまるよ、マジで

 まあ、とりあえず立川志らくが公式でアップロードしてますからね。そちらをご覧にいれるのがいいとは思いますが、まあ、数々の名人を見ておりますと、良き多様性とは誠にこのことだなと感じざるを得ません。



 さて、話が脱線しすぎました。「死神」という物語、その概要は以下の通り。

男は自殺を考えていたが、死神と出会い、死神の助言で医者として成功する。しかし、金を使い過ぎて、家庭も失くして再び困窮する。最終的には大金を手にするも、その代償として自分の寿命を短くすることになり、死神によって寿命の蝋燭が示される。彼は自分の寿命を延ばすために新しい蝋燭に火をつけようとするが……

「死神」のWikipediaのあらすじを、さらにChatGPTに要約してもらったものをさらに筆者が修正

 まあ、だいたいこんな物語ではあるのですが、これって実は少し変じゃありませんか?っていうのが、このnoteの主題なのです。

どこが変なのかなぁ☆

死神の動機

 さてさて、自説開陳タイムです。この落研noteの目的は、「自己紹介」なのですが、私は根拠なき自説を開陳することで、自己紹介に代えさせていただきます。

 さきほど、私が「変」だとしたのは、この死神の動機です。この死神の目的ってなんなの?ということです。死神の役割は、主人公視点では「諸行無常を表すための装置」でしょう。主人公に利して、調子に乗った主人公に罰を与える。諸行無常、盛者必衰、勧善懲悪、自業自得……
 じゃあ、死神にとって主人公はどういう存在なのでしょうか。劇中、死神が「おめえには縁がある」というような趣旨の発言をすることがあります。縁って何?なんの縁があるのでしょうか。
 なぜ、死神は主人公を医者にして儲けさせたのでしょうか。

『死神の名付け親』

 この落語、実は元ネタがあります。なんとなく先ほど「諸行無常」とか『杜子春』とかいったから、日本や中国の古代から伝わる話と思うかもしれませんが、実は、グリム童話らしいのです。

幕末期から明治期にかけて活躍して多数の落語を創作した初代三遊亭圓朝グリム童話の第2版に収載された『死神の名付け親』を(おそらく福地桜痴から聞いて)翻案したもの

Wikipediaより引用「死神(落語)」2024年5月24日閲覧

 ということで、この元ネタの『死神の名付け親』を軽くネットで拾って読んでみました。著作権的にはたぶん大丈夫なのですが、原文との整合性が怪しいので、ここには載せません。

 これを読んでみると、死神は、実は主人公の名付け親であるようなのです。どうやら、死神は友達が欲しかったようで、死神が友人候補を探していたところ、主人公の父親が名付け親を探していたことで、なんとなく利害が一致したようです。名付け親のよしみで、人間の主人公を医者にしたようなのです。なるほど、まあ、名付け親ならしょうがないか。これで解決ですね。
死神が主人公に利した理由は「名付け親」だったから。

でも、これって解決してますかね?まだ疑問があるでしょう。それは
「じゃあ、なんで落語「死神」には、名付け親要素が消えたの?」
ということです。
このnoteまだまだ続きます。ここから、さらに深堀りしていくので、ある程度、落語「死神」を見たほうが面白いかもしれませんが、一応見たことがなくてもなんとかなる内容にしました。

死神の本当の動機

 よく考えると、実は落語「死神」にはミスリードがある(と私が勝手に思っている)バージョンがあります。その代表例は田中角栄がロッキード事件で逮捕された時期の前後で、6代目三遊亭圓生が演じていたものです。
 冒頭部、死神が出てくる前、主人公は川に飛び込むことを考えていました。結果的にそれは考え直したのですが、その考え直した理由というのが

「いや、やめよう。俺ァこどものころ、井戸に飛び込んだことがあるんだ……。あんな苦しい思いをするくれぇなら、死なねえほうがマシだな。」

死神

とのこと。わざわざ、この川に飛び込むことを迷う場面、実のところ、必要かといえば、まあ、描写しなくても良いっちゃ良いところなので、カットしている落語家さんたちも大勢いらっしゃいます。なぜこのシーンが入っているのか、それは「主人公が子供の頃、死神が間違えて主人公を井戸で死なせようとしたから」ということの示唆なのではないでしょうか。
 というか、私は『死神の名付け親』とあらすじを知るまで、「死神」のこのシーンのことを専らこのように解釈しておりました。


 さて、上の解釈は正しいのか、ということは論点にしません。単純に笑いを取るためといえばそうなのでしょう。でも、仮にこれが正しいとした場合、ちょっと面白いことがおきます。


 まず、先ほどの疑問点は「なぜ落語『死神』には、名付け親要素が消えたのか」ということでした。
 実はこれは以下の二段階の変遷を経たのだと思います。

  1. 元ネタの「死神が名付け親となるパート」の削除

  2. 名付け親という縁の曖昧化、あるいは変化

 まず第一段階、元ネタのグリム童話にある「死神が名付け親になるパート」が削除されました。
 削除されたのは、私なりに2つ理由があると考えました。1つ目は、展開に名付けパートを加えてしまうと、単純に入れてしまうと長くなってしまうという点です。
時間を計測してみると、先ほどの三遊亭圓生の「死神」で37分。別のバージョンで22分です。やはり寄席でやることを考えると、15分前後の長さが望ましい中、「死神」はすでに大ネタなので、それ以上の長さを使います。ここにさらに死神が名付け親になるくだりを入れてしまうと、時間が超過しすぎてしまう。そうした理由が1つ目です。
 もう1つは、ダブル主人公によるブレです。死神が名付け親になるパートは、主人公の父親が主人公です。すると、劇中で主人公が交代することになります。
 落語を演っていると、作中の一人は自分に寄せると、他のキャラクターまでとても演じやすくなります。しかし、主人公の父に寄せても、死神に寄せても、主人公に寄せても、一作品のうち、一部しかその役がいません。だから、少し演じにくくなってしまいます。
 さらに、主人公交代によって、主題そのものもブレます。落語の演目化した死神は勧善懲悪的なストーリーです。しかし、これが元ネタに合わせてしまうと、主人公の父親に対して若干の違和感を感じます。主人公の父は別段死神と関わったことで、なにか罰を受けたわけではありません。だから日本人的価値観では、イマイチ必要性を感じにくいのです。
 こうして、「死神が名付け親となるパート」が、消えました。ほら、消えたってやつですね。

 続いて、第二段階。主人公と死神の名付け関係が消えました。
 劇中で「おめえには深い縁がある」といって、その深い縁が何かを言わなくなった死神。この理由自体は、意外と単純だと思います。ずばり、死神が名付け親となるパートがなくなったあとにおいて、名付け親要素を残してしまうと、「いかにも伏線感が出てしまうから」でしょう。
 実際には、大した伏線ではないので、消えました。ほら、消える。

 ただこれだと、死神が主人公を医者にした理由が完全に消えます。だからこその「主人公が子供の頃、死神が間違えて主人公を井戸で死なせようとした」という解釈です。もし、これが正しいならば、主人公を助ける動機になります。
 
 そして、この説を採用する場合、死神の役目が「名付け親」→「水に溺れさせた張本人」になります。
 そして、これは落語を多少知っている方なら、少し面白い偶然に気づけると思います。

 「名付け親」→「溺れさせた理由となった人物」
この変化をした人物、実は別の演目にもいます。

 それは皆さんご存知「寿限無」です。

死神と寿限無の意外な関係

 寿限無は、現在はEテレの「にほんごであそぼ」などの影響でこどもにも広く知られた演目です。しかし、広まっているサゲは、「たんこぶ引っ込んじゃった」「夏休みになっちゃった」などです。
 しかし、古いものでは、寿限無が井戸に落っこちるものがあります。この場合、「寿限無寿限無」が「だだぶ だぶだぶ」と溺れ死ぬというサゲや、子供が救出されて、父親が「おお、寿限無寿限無…」と呼びかけると医者が「コレコレまだお経には早うござる」と諫める、というサゲになるようです。
 この寿限無を名付けるのは和尚ですから、和尚は名付け親から溺れ死ぬサゲにつながる人物となります。
 この和尚、死神がついていたのかも知れませんね。というのが、この長い長いnoteのオチ、ということになります。

オチがついたあとの蛇足

 まあ、上のオチで終わると宣伝にならないので、収拾をつけるために、蛇足パートです。
 私は初めて演じたのが「寿限無」でした。本当は「死神」をやろうかなとも思っていたのですが、練習する時間がなく、泣く泣く変えたのでした。
 そんな経緯もあってか、どうしても私は、基本的に「練習不足」がデフォルトで高座に上がります。会長としてはどうかと自分でも思ってます。
 でも、そんな練習不足の中で、身につけたのは、「一言一句覚える」のではなく、「文脈を覚える」ことです。
 大学生レベルの落語は、一言一句台本を覚えなくても最悪なんとかなるものです。であるならば、場面の演技まで含めたその場面の文脈を考えて覚える。そのほうが、実際には覚えやすいし、自分なりに演じやすくなります。セリフを覚えるのは二の次。とにかく、この場面にはこの意味があるから、その意味が変わらないようになぞる。
 この力を鍛えることは、おそらく就職したときに、プレゼンで役立つと思います。プレゼンで役立つ。これは魅力的ですよね?

 だからと言ってはなんですが、この能力がほしい人は、ぜひ一回うちの落研に足をお運びください。
 より詳しくお教えいたします(情報商材的な?)。

 まあとにかく、関係者以外でこの長ったらしいだけのnoteを最後まで読む胆力がある人は、流石にいくらなんでも落研に向いてます。そうでない方でもこの文を読んだなら向いてます!だって落語はサゲが重要ですから!

 ぜひ、うちの落研に!!!

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