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【Dear my Amnesia】第十話

第十話 慈母

 フラッセオと別れた後、ヴィギルはオフィーリアに頼まれていたものを買っていた。
途中やはりすれ違う人々を見ては喉が鳴ったが、何とか耐えて早々に町の外へ出た。
 山道を登っていると、ふと誰かが自分を呼んでいる声が聞こえた。
振り返ると、ナイツェルがもの凄い形相と速さでこちらに飛んで来た。巡回中に自分の姿を見つけたのか、ヴィギルは戦慄を覚えながらも身構えた。
幼い天使は悪魔の前に降り立つや否や、かなりの剣幕で捲し立ててきた。

「町へ行ったのか!?誰も襲ってないだろうな!」
「お、襲ってない」
「じゃあ何で町へ行った!」
「オフィーリアに頼まれた。兄さんが買って来てくれないものを、代わりに買って欲しいと」

だがヴィギルは負けじと、比較的冷静に返した。姉貴分の名前が出て来た途端、子犬の様に喚いていたナイツェルは何も返せずに押し黙った。
特に寄り道もせずにそのまま教会に帰る予定だとも伝えると、天使はじっと悪魔を睨みつけてぼそりと話した。

「千年樹様が、お前を呼んでる」
「え?」
「千年樹様だよ! お姉ちゃんから聞いただろ、ぼくらのお母様!」

ヴィギルは思わず目を丸くして、オフィーリアの母代わりが自分に何を言ってくるのかと固唾を飲んだ。
しかし行かないと答える訳にもいかず、彼は黙ってナイツェルの小さな背中を追った。
森の奥へと進んでいく間、二人は互いに言葉を発する事は無かった。だが大樹の根元に辿り着いたその時ナイツェルがあっと小さく声を上げたと思うと、大樹のすぐ横にあった小さな墓標の前へ飛んで行った。
その墓に名は刻まれておらず、代わりにまだ新しい花束が供えられていた。

「トームが供えたものです。必要無いとは言っているのですが、此処へ来る度にこうして供えてくれるのです」

その墓を眺めていると、ふと優しい声が聞こえてきた。
振り返ると、先程まで誰も居なかった筈の大樹の枝に美しい女性が腰掛けていた。悪魔は彼女こそがこの大樹の精霊であり、オフィーリアの継母であると一目で分かった。

「突然呼びつけてしまって事をお詫びします。私の名はトレーケル。この樹に棲みついた、亡霊のようなものです」
「亡霊? それならこの墓は、貴女のものか?」
「いいえ、そこにはもう誰も眠っていません。トームの数少ない我儘で、今もこうして残しているのです」

千年樹の名に何処か聞き憶えがあったが、それよりもこの墓の事が気になってしまっていた。ナイツェルは何も話さないまま、墓に供えられた花をただ悲しげに見ていた。
一先ずヴィギルは、千年樹に用件を訊く事にした。早く帰らねば、オフィーリアに心配をかけさせてしまう。そう言うと千年樹はくすりと笑った。

「あの子を気にかけてくれているのですね。貴方がフィリーの備忘録になると言った時は驚きましたが、本当に良くしてくれている。母として、深く感謝しております」
「申し訳無いが、その程度の話なら帰らせてくれないか。貴女は遠い所でも、俺達の心に語りかける事が出来るのだろう?」
「……そうですね。では早速本題に入らせていただきますが……、せめて貴方には心から謝罪をしたいのです」

そこまで聞いて、漸くナイツェルが口を挟んだ。悪魔に、それも魔王の子などに謝罪など不要だと抗議し始めた。しかし千年樹は首を横に振り、改めてヴィギルに向き直った。

「天使側から仕掛けたこの戦、原因はこの私にあります。今更取り返しなどつきませんが……悪魔を統べる王の子息である貴方に、せめて謝罪をさせて下さい」

そう言って深々と頭を下げる彼女を見て、悪魔は暫く瞬きを繰り返した後に目を大きく見開いた。

「トレーケル……! 先代天使長の名もそうだった。百年前に大罪を犯したとして、天界から追放されたと! まさか、貴女が……!?」
「ええ。私はその咎で、この大樹に封じられているのです」

ヴィギルは口を開けて唖然としていた。まだ自分が生まれたばかりの頃だったが、彼女が天使長であった時代は悪魔も人間も平和だったと父によく聞かされていたのだ。
だがそのトレーケルが失脚し、ホッフェルが執権を握ってから世界は混沌に陥った。天使達が進軍を始め、悪魔達が次々に消されていった。それまで大人しくしていた悪魔でさえ、生きる為に人間達を糧としようと考えるようになり、無差別に人間を襲うようになってしまった。そんな負の螺旋の最中に生まれた悪魔や人間達は、いつ自分が殺されるかも分からない日々を怯えながら過ごすようになったのだ。

「ホッフェルは生まれつき悪魔に対する偏見がありましたが、私の補佐としてとても優秀な子でした。あの子を止められなかったのは私の責任です。……本当に、ごめんなさい」

悪魔は暫く理解が追いつかなかった。目の前に居るこの女性がかつての天使の頭領であるという事実でさえ、未だに飲み込めずにいた。
ゆっくりと息を吐き、固唾を飲む。そして未だに疑念の晴れぬ目で千年樹を見つめ、震える唇で言葉を紡いだ。

「何故……貴女は失脚なされたのだ? どんな大罪を犯したと言うんだ!?」

千年樹はその問いには答えず、ただ哀しげに微笑むばかりだった。いつも子犬のように煩いナイツェルは、さめざめと涙を零したまま黙っていた。
並々ならぬ事情があると感じ取ったヴィギルは、それ以上の言及をしようと思えなくなってしまった。

「あの子は、オフィーリアは、いずれ私の事も忘れます」

ふと、突然千年樹が呟いた。驚いてまた彼女の方へ顔を向けると、彼女は哀しい笑みを浮かべたまま続けた。

「ですが、それで良いのです。またあの子が此処へ来ない為にも、私の事は憶えておくべきではありません」
「そんな訳が無いだろう! 彼女は俺に、貴女からの教えを話してくれた。確かに血の繋がりは無いかも知れないが、親子として愛し合っている事は分かっているつもりだ。これ以上、彼女に孤独な思いはさせたくない……!」

ヴィギルは思わずそう叫んだ。しかし継母は驚いた素振りも見せず、静かに目を閉じて首を振った。

「今の私は、この大樹の力で生きているようなもの。あの子が私の事を憶えていれば、今以上にフィリーは孤独を感じてしまう事でしょう。だからこそ私は母として、あの子にこれ以上寂しい思いをして欲しくない」

言葉を詰まらせた。己の寿命に気付いていた彼女は、娘に自身を忘れる事を望んでいた。そうする事でオフィーリアは、母親を失ったという認識を持たずに済むと踏んでいるようだ。

「トームは、貴女の息子はどうなるんだ……」
「……あの子には、本当に辛い役目を背負わせてしまっている。だからこそせめて、彼の我儘は聞いてあげたいのです」

悪魔の問いに答えた千年樹は、ちらとまた誰も眠っていない墓標に目を遣った。ナイツェルは未だに涙を流したまま、母親に甘える幼子のように継母に抱きついていた。
ヴィギルは終に何も言えず、ただ俯いて肩を振るわせるしか出来なかった。その様子を見て、トレーケルはまた哀しそうに微笑んだ。

「貴方を此処へ呼んだのは、お願いをしたかったのもあるのです。もしオフィーリアが私の事を忘れても、私の話をあの子にしないであげて下さい。……どうか、お願いです」

悪魔は下唇を噛み締めた。あの心優しいシスターの為に立てたあの日の誓いが、今になって己を苦しめる事になるとどうして予想出来ただろう。血の味が口内に広がり始めた頃、漸くヴィギルは静かに口を開いた。

「……約束は、出来ない。俺はオフィーリアの備忘録。俺は彼女が求めた記憶を、ただ伝えるだけだ」

その時漸く、千年樹の目がぴくりと見開いた。そして今度は今にも泣きだしそうな顔で、悪魔に向けて微笑みかけた。
 話が終わったと踏んだヴィギルは、二人の天使に背を向けて教会へと歩を進めようとした。
それをまたトレーケルが呼び止めた。今度は謝罪や頼み事ではなく、一つ忠告をしたいとの事だった。

「あの子が首に提げている金のロザリオは、私とトームが力を込めたお守りです。何が起こっても、絶対に外させないで下さい。あの子と、そして貴方を守る為にも」

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