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【Dear my Amnesia】第七話

第七話 シスターの備忘録

 悪魔ヴィギルは頭を悩ませていた。
昨夜初めてトームと顔を合わせた際、酷い食欲に駆られていたのは記憶に新しい。
しかし翌朝、仕事へ向かう前の挨拶にとまた神父が部屋に入ってきたが、昨夜のような食欲は全く沸かなくなっていた。
こちらの正体は依然悟られていないように思えたが、やはり警戒されて守護の術でもかけているのやも知れない。
そう考えると不安が募り始め、トームが仕事に出たのを見計らって部屋に入ってきたオフィーリアにすぐ打ち明けた。

「でも、怪しんでいるようには全然見えなかったよ? 蜘蛛さんも全然気にしてなかったし……」
「……此方の思惑は、全てお見通しという事かも知れないな」
「もう、考え過ぎだよ」

だがこの悪魔にとっては恐ろしい最強の祓魔師でも、オフィーリアにとっては少し抜けた所のある優しい兄である。
果てには完全にこの男を女として見てしまっている始末だが、それだけは彼女もヴィギルに言えないでいた。
 ヴィギルはトームに対して、少しでも慣れたらこの教会に居た「ラシー」という男について訊こうと思っていた。しかし此方の素性が知られているやも知れぬ今、そんな事をすればフラッセオの事と勘違いされて攻撃される可能性も低くはない。
まだ神父は信用すべきではないという結論に至ったところで、ふと昨夜彼と話すのに使ったノートが目に入った。

「ところで、少し気になったんだが……俺にくれたこのノートを使って、日記を書こうとは思わなかったのか?」

 備忘録になると誓った手前今更そんな事を訊くのはどうかと考えたが、健忘症の対策として必要な事だと自分に言い聞かせた。
オフィーリアは少しだけ悲しそうな顔になって、暫く言い淀み、ヴィギルに苦笑して説明を始めた。

「……何度か書いてはみたんだけどね、何処にしまったかすぐ忘れちゃうからもう諦めちゃった」
「なら、君の兄さんに預けてもらえば良かったんじゃないか?」
「いいの。お兄ちゃんに預けたら、読まないでって言っても勝手にこっそり読まれそうだし。備忘録はギールさんがしてくれるんでしょう? そのノートは貴方が好きに使って」

悪魔は少しだけ、申し訳無さそうに肩を落とした。恐らくこのノートも、兄のトームが健忘症の哀れな妹の為に買ったものだろう。
そんなものを自分が使ってしまうのは気が引けたが、声を出せば確実に男である事がばれてしまう。他に方法は無いだろうと諦めるしかなかった。
 兎に角この少女の備忘録になると決めた以上は、その役割を真っ当しなければならない。しかし、それには一つ彼女に約束してもらう必要がある。
オフィーリアが決して納得しない事は分かっていたが、それでも言っておかなければならないとヴィギルは確信していた。

「オフィーリア、俺が君の備忘録である事は、あの天使や君の兄さんはまだ話していないか?」
「うん。そんな時間も無かったし……どうして?」
「出来ればそのまま話さないでいて欲しい。上手く言えないんだが……君の兄妹はどうにも優しいみたいだから、君が忘れていても敢えて教えていない事もあるんじゃないかと思うんだ」

オフィーリアは目を見開いた。その表情は、少しだけ哀しそうに見えた。
確かに彼女は毎晩眠る前に、兄のトームにその日あった出来事を全て話していた。
しかしそのトームから、オフィーリアに先日あった事を聞かされた事は殆ど無かった。それは仕事で忙しい故なのだろうし、「聞かされた」という記憶すらも忘れている可能性も高い。
だが悪魔の言葉を聞いて、「忘れておいた方が良い」と判断して敢えて教えられなかった記憶もあるのかも知れないと思ってしまった。シスターは何も言えず、ただ口の端をぐっと下げて黙っているしか出来なかった。

「無論それを分かった上で、君が思い出す必要が無いと言うのならこの話は終わりだ。だがそれは、きっと本意じゃないだろう? 君の兄さんやあの天使に俺の”意味”を知られてしまったら、きっと口止めされる事もあるだろう。最悪、聞く耳も持たずに祓われるかも知れないな……」
「そんな……!」

 その時、コンコンと窓を叩く音が聞こえた。
振り返るとそこには訝しげな顔のナイツェルがシスター服の悪魔をまじまじと見ていた。

「何でそんな格好してるの?」

オフィーリアに窓を開けてもらうと、幼い天使は開口一番に呆れた声でそう訊いた。
事情はこの天使も知っている筈なのだが、やはり最初からヴィギルが男と分かっている者からすれば異様な光景に見えるらしい。
一先ず茶菓子を出そうと厨房へ向かう姉貴分の後ろについて、ナイツェルは部屋を出る直前に悪魔に向かってべっと舌を出した。
どうやら今自分がこの教会に居る間だけは、オフィーリアを独り占めしたいらしい。
仕方無いとヴィギルは溜息を吐いて、袖の下から蜘蛛を這い出させるとオフィーリア達の元へと向かわせた。

「お姉ちゃん、あいつに何もされなかった?」
「されてないよ。大丈夫だって」

 厨房で茶を沸かしているオフィーリアは、ナイツェルの過保護な問いに思わず苦笑した。
兄と同様に此方を心配する妹分を見て、先程のヴィギルの言葉が頭の中でいつまでも回っている。

「…ねぇ、ナイちゃん。最近までこの教会に他の人が居たって本当?」

決心してナイツェルにそう訊くと、天使は一瞬だけ悪戯がバレた子供のような顔をした。
敢えて「ラシー」と言わなかったのは、ヴィギルの正体を知っているナイツェルにとってフラッセオの名も知っている可能性があり、彼の入れ知恵である事を悟られてあの悪魔を責め立てる事が予想されたからだ。
ナイツェルは少しの間口をもごもごとさせて目を逸らすと、重い口を静かに開き始めた。

「……居たよ。でも、ぼくあいつ嫌い」
「どうして?」
「最低な奴だもん、そいつの話やめようよ」

ナイツェルの証言は、先日ヴィギルから聞いたトームの証言とはまるで違っていた。
だが確信した。あの悪魔の言っていた通り、忘れた方が良い事は兄も妹分も話そうとしないのだと。
それが優しさ故のものと知っているオフィーリアは、「そっか」と苦笑せざるを得なかった。蜘蛛を介して会話を聞いていたヴィギルも、オフィーリアを憐れむ感情とナイツェルへの同情が拮抗してしまっていた。
 ふと、ナイツェルが少し席を外すと言って厨房を出た。此方へ向かって来るつもりだと気付いたヴィギルが慌てて蜘蛛を隠すと、丁度そのタイミングで幼い天使が烈火の如く怒りを露わにして部屋に入って来た。

「おい悪魔! お前、お姉ちゃんに何を話した!?」
「な、何を……?」
「答えろ! お姉ちゃんに何を言った!」

どうやら彼女も、ヴィギルの弟フラッセオがこの教会に居た「ラシー」という男と同じ愛称である事は知っていたようだ。
下手な誤魔化しや黙秘でやり過ごせないと覚悟を決めた悪魔は、逆にこの天使に鎌をかける事にした。

「……弟を探していると言ったら、愛称がミサに来た老婆から聞いた名前と同じだと彼女が言った。その反応、この教会に居たのはフラッセオなんだな?」

途端、ナイツェルは押し黙った。そしてぎりと歯を食い縛り悪魔を睨みつけると、その目からボロボロと涙を零し始めたのだ。
思わぬ反応にヴィギルはギョッとしていると、幼い天使は泣き叫びながら怒鳴り声を上げた。

「神父様が、悪魔なんか教会に置くもんかぁ!」
「わ、分かった! 俺が悪かった!」

妹分の泣き声を聞いて、オフィーリアが茶菓子を持ったまま慌てて部屋に飛び入ってきた。
慌てて弁明しようとしたヴィギルだったが、彼女の顔を見ていくら言葉を連ねても無意味だと本能的に悟った。
悪魔が妹分を虐めたと判断したシスターはトレイに乗せていた分け皿を投げつけ、それが見事脳天に命中しヴィギルは気を失ったのだった。
 目を覚ました頃には、もう既にナイツェルは帰ってしまっていた。 彼に付き添っていたらしいオフィーリアが、申し訳無さそうな顔で覗き込む。妹分の為とは言え、やり過ぎてしまったと頭を下げた。
悪魔は何も言わず、壁を這っていた蜘蛛を呼び寄せる。気を失っている間に、眷属が見聞きした事を確認する為だ。
 ヴィギルが気を失った後、ナイツェルは結局帰るまでこの教会に居た「ラシー」については何も話さなかった。
オフィーリアも厨房で尋ねて以来何度も訊くような事はせず、ただこの悪魔の容体をずっと気にしていたようだ。
確認し終えたヴィギルは、今回の事で何も情報が得られなかった事に内心落胆しながらも、シスターにある質問を投げかけた。

「……それで今朝の話だが、どうする?」

オフィーリアの顔が強張った。どうやら彼女も、未だに結論を悩んでいるようだった。
忘れておいた方が良いと思われる記憶がある以上、オフィーリアの意思無しに今すぐに昨日の出来事を教えられないと悪魔は考えていた。
その結果自分の誓いが無意味なものになるとしても、やはりヴィギルは彼女の意思を尊重したかった。
シスターは両手の指をもじもじと絡ませると、暫く黙り込んだ後に意を決してこう言った。

「……教えて欲しい。昨日ギールさんにあんな事言ったけど……やっぱり私、忘れたくないっ……!」

あんな事というのは、恐らく健忘症にも意味があると言っていた事だろう。
ただの強がりでしかなかった少女の言葉は、悪魔の存在意義を確かなものにしたのだ。
ヴィギルは微笑み、備忘録として昨日起こった事を全てオフィーリアに話したのだった。

「天使長様が? 憶えてない……どんな人だったの?」
「高圧的で危険な奴だ。魔王城に攻め入った時も、俺が誰も襲ってないと言っても聞く耳を持たなかった。配下の天使達も、奴が恐ろしくて逆らえないといった感じだったよ。君の兄さんも嫌そうな態度を取っていたから、君は関わらない方が良い」

シスターは少し困惑したような表情をしていた。そんな男が天使長など務まるのかと言いたげだった。だが悪魔のヴィギルにもその詳細は分かっていない。ただ断言出来るのは、天使長ホッフェルは話せば分かるような慈悲深い者では全くないという事だけである。
 オフィーリアは溜息を吐くと、ヴィギルに少しだけ寂しそうな笑みを向けた。

「隠さず教えてくれてありがとう。お兄ちゃんやナイちゃんが、私にこの話をしたくなかった理由がやっと分かった。私はすぐ何かを忘れちゃうから、色んな事を知りたくなっちゃうの。それにお兄ちゃんもナイちゃんも過保護だから、危ないって言っても私はきっと聞かないと思う」

健忘症故に強まる好奇心が危険感を薄めてしまい、興味を持たせてしまうならいっそ何も言わない方が良いと判断させてしまったのだと少女は言った。
視線を落とすオフィーリアの瞳が、悲しみに揺れる。ヴィギルはその頬にふと触れたい衝動に駆られたが、踏み止まって微笑み返した。

「君も、勿論君の兄さんや妹も悪くないよ。君は間違いなく愛されているから、その事実は何度忘れようとも伝え続ける」
「ありがとうギールさん。貴方の事は誰にも言わないから、これからも私が何を忘れてしまったのか教えてね」
「勿論だ。俺はその為に此処に居る」

オフィーリアは、今度こそ嬉しそうに微笑んだ。

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