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ライターに必要なことはすべてゴールデン街で学んだ(コエヌマ)

この記事は、月吠えの別アカウントで以前に投稿した記事です。本アカウントでも、ライターの方向けの記事の需要が多いと感じたので、編集して投稿します。

2009年からフリーのジャーナリストとして活動を始めた僕は、2012年にゴールデン街でバーを開いた。物書き業が安定してきたので、新しいことを始めたかったのが理由だ。ディープなこの街で、面白い人や話と出会えれば、仕事のネタにもなるのでは、という魂胆もあった。

実際、たくさんの出会いがあり、数えきれないほどの経験や気づきを得られた。それまでの三十数年間、自分がいかに狭い世界で生きてきたかを痛感させられた。

またゴールデン街で過ごした時間は、肝臓へのダメージと引き換えに、人としての生き方、さらにはフリーの物書きとしての生き方に大きな影響を与えてくれた。今回は、僕がこの街から学んだことについて書く。


したくないことはしないでいい、合わない人と付き合わないでいい

サービス業ではよく「お客様は神様です」と言うが、ゴールデン街は少々違う。お客さんとお店の立場はあくまで対等で、お店側は「気に入ったら来てくれればいい、気に入らなかったら来なくてもいい」というスタンスなのだ(もちろん、すべてのお店がそうではないが)。

マニュアル化されたチェーン店とは異なり、お店ごとにコンセプトや方針や規律があり、店主やママの人柄もそれぞれ。お客さんも十人十色なので、どうしてもお店と合う・合わないが出てくるが、その溝を無理に埋めようとしないのがゴールデン街なのだ。

と言っても、お店におもてなし精神がないとか、サービスがおろそかとか、そういうことでは決してない。まずは来てくれる人を受け入れ、歩み寄ろうとするが、お店の方針に従わない、空気を壊す、という人には遠慮なく注意をする。場合によっては出禁にすることもある。

ある店のママは、偉そうな振る舞いをした一見の客を「帰れ!」と一喝し、その客が置いていこうとした5000円札を「いらねーよ!」とライターで燃やして投げつけたそうだ。その客はどこかの企業の重役らしく、店を気に入ってもらえれば、長期的にたくさんお金を使ってくれただろう。ビジネス的に考えると、大事にすべき取引先であるが、ママには関係なかったのだ。

僕は物書きとしてデビューしたばかりのころ、どんな仕事でも受けていた。フリーランスは収入が不安定なため、無茶な要求や条件に応じてでも、仕事があるという状態をつくり、安心感を得たかった。

しかし、何でも言うことを聞く都合が良いやつと思われたのか、クライアントの無茶ぶりは加速し、僕は消費され消耗し続けた。フリーになったのに自由はなく、社畜だった会社員時代と何も変わらなかった。

そんなとき、ゴールデン街で店主やママの堂々たる振る舞いを見て、僕もこうありたいと強く思うようになった。「僕のことを気に入ったら仕事をください、気に入らなければくれなくて結構」という風に。

これは、フリーになった当初は考えもしなかったことだ。フリーとして生きるなら、仕事を選んではいけない、と思っていた。飲食店でいうと、どんなお客さんでも受け入れ、多少合わなくても我慢して対応し、「また来てくださいね」と笑顔で言う。そうしないと、収入的にやっていけるはずがないだろうと思い込んでいたのだ。

けれどそうしなくても、ゴールデン街の人気店はいつもにぎわっている。店主もママも、お客さんも生き生きとしている。物書きだって同じなのだ。自分の気持ちやルールを最優先しても、十分に生きていくことができる。なぜなら、自分らしさは個性になり、武器になり、それを好きになってくれる人が必ず現れるからだ。

すべての客に選んでもらえなくてもいい。自分を殺してまで、たくさん稼ごうとしなくてもいい。自分らしさや尊厳を大事にした方が、よっぽど生きやすく楽しい。


無駄のなかにこそ価値がある

ゴールデン街を訪れるお客さんは、年齢も職業も経歴も、考え方も国籍も実にさまざまだ。店主やママ、スタッフもそう。まさに人種のるつぼである。そのなかで、多くの人とひざを突き合わせて対話したことが、僕を大きく成長させてくれた。

人は普通に生活していると、限られた世界のなかで行動しがちだ。僕もそうだった。会社員時代はいつもの電車に乗り、いつものオフィスの席で、いつものメンバーと仕事をし、休日はいつもの友人と遊んだ。

フリーになっても、やり取りするのは取引先のいつもの担当者くらい。取材でいろいろな人に会う機会はあったが、大抵はその場で終わりだった。だがゴールデン街に店を構えてからは、一気に世界が広がった。

例えば、客として来店した、東日本大震災で被災した青年が話す被害や現地の状況は、メディアを通じて知る情報とはまた違い、圧倒的な生々しさがあった。彼が「合コンで被災した話をすると、心配されて主役になれるんですよ」と、笑いながら発したブラックジョークも心に刺さった。

人と生身で触れ合い、言葉やしぐさや表情などを五感で受け止めることで、源流から湧き出したばかりの一次情報として伝わってくる。僕らがメディアを通して得る情報は、余計なものをそぎ落とされ、加工された二次情報だ。わかりやすく、読みやすくなっているが、その過程で失われたもののなかに、ものすごく面白いものや、価値あるものがあったかもしれない。

果物の栄養は皮に近いところに詰まっていると言うが、ゴールデン街での酔客との交流のなかにも、「普段なら捨てられてしまう栄養素」が詰まっていることもあるだろう。それをたくさん食べてきたからこそ、平凡な僕でも、物書きとして何とか生き残れているのだと思う。

もちろん、不毛な雑談だけで終わってしまうことも多々ある。確実に良い話が聞ける有料セミナーに参加した方が、勉強や情報収集という観点では効率的だ。けれど、物書きに必要な情緒性やクリエイティブ性は、生産性や効率だけを追求していては養えない。多様な人々が集い、一次情報があふれる無駄のなかに、つまりゴールデン街のような空間にこそ、それらはあるのだと僕は確信している。

「ゴールデン街が近くにあっていいな」「自分は地方在住だから行けない」と思う方もいるだろう。まったくそんなことはない! 皆さんの自宅や職場の近くにも、「ゴールデン街的」な場所は必ずあるはずだ。飲み屋街かもしれないし、銭湯や喫茶店やライブハウスかもしれない。ぜひそういった場所を見つけてほしい。

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