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お仕事小説部門|「あなたの話し相手になります。100円/分」第五話

「やらされてきただけなんです。ちょっと耳が良かったからって、親が調子に乗って」
 伏し目がちに、黒く、水分をふんだんに含んだ毛先を触る。彼女の感情は十分動いていた。しかし、やはり声を荒げることはない。これが本人のキャラクターなのか、はたまた無気力による鈍りなのかは分からなかった。ただ、そこには確実に葛藤するものが見え隠れしている。
 もどかしさを感じながら、わたしはどう声をかけていいか判然とせず、「期待してたのかなぁ」などと腑抜けた相槌を打つ。それに対して彼女は、「自分たちができないからね」と表情かたくつぶやいた。

 両親とはあまり話ができていないのだろうか。理解し合っているようで、本当は互いに不干渉になっているだけなのかもしれない。

 そうは言っても、無責任な憶測を言うわけにもいかなかった。
「英語ができなくて困った経験があったのかもね。ほら、子どもには同じ思いをしてほしくないって人が多いから」
 わたしは近くに置いていたマグカップに手を伸ばした。口元をマグカップで隠しながら、画面の向こうにいる彼女の表情を伺う。コーヒーは淹れたときより苦く感じた。

「ひろせさんも、そうなんですか」
 彼女は、「気にしないで飲んでね」とわたしに促されるまま、いくらもせず自身のテーブルに置いていたジュースを口にした。
「ううん。子どもはまだ3歳なの。幼稚園に行ってて」
「習い事はしてないんですか」
「してないよ。幼稚園で週1回、英語の先生が外部から来るけど。でもほんとちょこっとなの。でもまあ、本人たちも長くは集中できないし。きっとちょうどいいんだと思う」
 子どもが通う幼稚園は、英語の時間にネイティブの外部講師を呼ぶことが売りだった。しかしそれが20分/回なのか、30分/回なのか、入れてしまえば一切時間を気にしていなかった。

「お子さんは何て言ってるんですか」
「英語の時間は『たのしい!』って言ってたかな? 外から別の先生が来て楽しい、くらいの意味だろうけどね」
 毎週木曜日の迎えの際、子どもが英語の時間の話をしてくるときもあるが、話題にすら上がらない日もある。どちらかと言えば聞かれない日が多い。最近はちょうど、お友だちとのごっこ遊びに夢中になっている。
 この親にしてこの子あり、といった有様だ。


「ひまりちゃんは楽しいと思ったことはない? 別に英語でなくてもいいんだけど。何か好きなこととか教えてよ」
 わたしは彼女の本懐に触れたかった。幼稚園児でなくとも、子どもはみな好きなものを通して大きくなる。

「忘れました」
「思い出してみて。わたしが子どものころを思い出すより早いと思うから」
 やや自虐っぽい語り口で誘うと、「そりゃそうですよ」と彼女はにやりと笑顔を見せた。
 「言うねえ!」と、わざと目を大きく見開いたわたしに、彼女はまたケラケラと笑う。
 その顔に、わたしは密かに安堵した。


「えーっと、もう思い出しました」
「うそ。早い!」
 澄ましながらも競う様子に、本当は無邪気な子なのだと知る。

「イラストです」
 雑談の時間が残り10分を切ったとき、彼女はようやく打ち明けてきた。
 わたしが「どんな絵を描くの」と話を膨らませようとしたとき、彼女はその間も与えず、「できたって、何もならないですけど」と卑下する言葉を滑り込ませた。

 互いに唇を固く結ぶ。しかしそれは一瞬だった。謙遜をはるかに通り越した言葉たちに、わたしは立ち向かえるようになっていた。
「子どもがね、予防接種の注射で手が付けられないほど泣いていたとき、看護師さんが新幹線の絵を描いてくれたの」
 わたしは彼女に、ある日の小児科での出来事を話した。家から持ってきたおもちゃでも、先生がくれた”できたねシール”でもだめだったとき、泣き止ませてくれたのは看護師さんの絵だった。子どもに、「何色が好き?」「これなんだか分かるかな」と話しかけながら目の前で電車のイラストを描く。「次は何色?」「次はどこに描く?」とどんどん子どもを引き込むので、子どもも泣きわめいてる場合ではなくなり、「緑」「赤」「そこに書いて」と次第に言葉を返すようになった。最終的に、看護師さんが新幹線を書いてくれたところで、機嫌が戻り、癇癪は収まった。
「学校の先生や保育士さんなんかは、絵の試験があるし、それに試験のためじゃなくたって、その看護師さんみたいに子どもを励ますために絵を描く人もいる。絵が描けることは立派なスキルだと思うよ」
 彼女は意外な顔をしていた。
「ほんと?」
「うん。それに子ども相手でなくとも、絵を描いて説明する方が分かりやすいことは多いし、探せば、メインの仕事でなくたって色々あるかもしれないよ」
 彼女の瞳に光が入る。聞けば、両親にも先生にも「イラストだけで食べていくのは難しい」と言われたことが引っかかっていたらしい。大人たちの言わんとしていることは理解できるが、そんな話をこの年齢の子にすることに認識の差異を感じた。

「でも、何かと組み合わせればいいんですね」
 彼女はこんな雑談の中に活路を見出していた。急にベンチャー企業の社長のような口ぶりで物を話すので、わたしはおかしくなって、笑いながら言った。
「面白いね。でもその方がつぶしがきくかも」
「つぶし?」
 わたしは再び、ああ、えっと、と口ごもる。
「今雇われているところを辞めても、またすぐに別のところで雇ってもらえたり、自分で仕事を始められることかな」
「へえ」
 冷静な感嘆の抑揚に、一定の興味を感じる。お花屋さんだとかスポーツ選手だとか言うはずの年齢の子に、誰がこんな話をしただろう。彼女は再就職に悩むママではない。わたしとは違うのだ。

 夢のない話は続く。わたしは雇われのアニメーターを辞めた友人を思い出していた。
「あえて絵を仕事にしない、っていう人もいるよ。仕事にすると、嫌いになっちゃうかもしれないから」
 案の定、「何で?」と返ってきた。真剣な眼差しに、わたしは一度持ったマグカップを置いた。
「仕事にすると、好きなものばかりを書けるわけじゃないからかな? 書きたくないものを書かないといけなくなったり、忙しさから丁寧に絵と向き合えなくなったりしていくんだよね」
「へえ、そうなんですか」
 彼女の興味は続いていた。そんな彼女が、好きなものをまた好きでいられなくなることだけは避けたかった。

「それに」
「うん」
 目にかかった前髪を耳にかける。わたしは彼女を意識して話をした。
「仕事にしてしまうと、絵が上手な人をたくさん見ることになる。そんな中で自信を失くしたりするかも」
 彼女は一呼吸置いてから、「少し、分かるかもしれない」と話した。


 それから彼女が急に「小児科医になる!」と言い出すまで、時間はかからなかった。
「お医者? すごいなぁ。大学の入試が難しそう」
 自分が受けるわけでもない試験を想像して、気が遠くなる。
「でも、どこででも働けるから、つぶし? もきくでしょ。それに絵を描きたいことも内緒にできる」
「内緒にしたいの?」
「うるさいじゃん、みんな」
 彼女はジュースが入ったグラスを握りしめ、滴る結露に指を濡らした。

「最近は何か描いた?」
「いえ、描いてないです。なんにもならないと思って。でも、またやってみようかな」
 彼女はそう言って、はにかみながら目を画面の外へ逃がした。


「そろそろ時間ですよね。わたしも課題があるので、これで今日は終わりにします」
「今日はありがとうございました! またお話しできたら、今度はイラストを見てみたいな」
 彼女は、ふふっと笑って、「考えておきます。じゃあまた」と言って切った。

――このビデオチャットは終了しました。


 彼女の笑顔を最後に、画面は切り替わった。「サービス向上のため、アンケートにご協力ください」と出たポップアップ画面を無視して、わたしはパソコンを閉じた。ふう、と勝手に息が漏れる。時刻はちょうど10時を回ったところだった。

――ひまりちゃん、小学5年生、英語の学校(国際バカロレア?)、現在不登校。無気力型。優秀だが周囲も優秀なせいか自己評価低め。絵を描くことが好き。

 わたしは準備していたノートに彼女のことを書いた。

――聞かれたこと:「学校って、行かないといけない?」

 ペンを持つ手を止める。無意識に、彼女の苦しみを反芻する。
 この仕事をしていると、どうしてもゴールをカウンセリングの先生と同じ視点を目指してしまう。実際に、カウンセリングに類似したサービスを求めてくるお客さんもいるが、それではだめなのだと今回、彼女が教えてくれた。
 もう予約してくることはないかもしれないのに、彼女の行く末に思いをはせる。

 次の予約は11時だ。それまでに、洗濯と夕食の下準備を済ませなければならない。わたしはマグカップを持って、重たい腰を上げた。

(第六話へ続く)

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