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#09 INTERVIEW コピーライター/LI JING

道は辿るものではなく、切り開いていくもの。 


はじめに。

こんにちは。今回は、コピーライター・LI JING/李晶(りしょう)さん。

まずは、彼女が出掛けた仕事の一部をご紹介。※画像をクリックすると詳細が見れます。

(上)UNIQLO Greater China Advertisement Copywriting &Concept Book & Movie Narration
(下)Panasonic Quality air for life Slogan , Concept


李晶さんがどんな人物かというと、簡単に表現すると、猛烈に仕事好きな美人コピーライターさんだ。面倒見が良く、人情に熱くて、とても優しい人。
今年の2月に中国へ帰国したそんな彼女。帰国後のホテルでの隔離期間中、やや時間を持て余し始めていた頃、話を聞いてみた。今回は、もともとは事務職勤めだった彼女が、有名クライアントのコピーを手掛けるまでのお話である。


01 / 学生時代と、はじめて感じた挫折。


常にトップの成績だった小学生時代。中学受験と人生で初めての挫折。

──こんにちは。本日はよろしくお願いします。では早速、学生時代の頃から、聞かせてください。李晶さんは、中国の湖南省で生まれ育ったんですよね。幼い頃は、どのように過ごしていましたか?
「そうですね。小学生のときは、テストはいつも一番で、先生の言われたことは難なくこなせる子。つまり超優等生でしたね。
とにかく負けず嫌いで。そのころ、2番とかありえないって思っていたような子供でした。それが小学生時代のわたし。けど、中学受験に失敗したとき、そのプライドが砕けたんです。」
──失敗を?
「そうです。絶対に受かると思ってた中学の受験は落ちたんです。最後の質問を間違えました。きっと、今思うと思い上がっていたんですね。で、みんなから褒められて育だったから、プライドが高かったんです。そのために、わたしの両親はそのいい中学校へ行かせるために高額の入学金を支払ってくれました。」


挫折から、2番でもいいと思えるようになった。

「成績がよければ入学金不要だったんです。きっと、そのころの家の貯金9-8割のお金だったと思います。成績優秀者に与えられる免除を受けられなかった私に対して、その中学入学を、お金で買ってくれたってことです。とても感謝しました。その挫折で、自分より優秀な人はいっぱいいることを知ったし、自分ができないことを受け入れることの大切さを知りました。その挫折と、両親への感謝が、今のわたしという人間の大きいところを作ってると思います。」


学生は“恋愛タブー”とされていた、90年代の中国。

──学業以外はどのような学生時代でしたか?
「そうですね、勉強以外だと、恋愛してました。中2のときに告白されてできた恋人がいて。学校帰りに彼とゲーセン行ったり、ビリヤードしたりしてました。実は、その頃の中国では学生の恋愛はタブーだったんです。学業の邪魔になるからという理由で。古い考えですよね。」
──えっ恋愛しちゃダメなんですか?
「そう。90年代の中国は、とても保守的だったんです。私は成績が良かったから、当初先生は優等生として扱ってくれていました。そして付き合ってた彼も成績トップクラスの人でした。」
──学校で優等生とされてる人がタブーを破るのは、なんだか意外に思えますね。
「はい。わたしは優等生の一人だったけど、納得が出来ない限りは、私は先生であろうとも指示に従わない子だったんです。とっても頑固でしたね。たぶん今もそうだけど(笑)。すぐに付き合ってることは周りにバレて、両親も先生からも猛反対されました。本来なら、退学処分ものの大問題。でも成績優秀だったから、許されてたんですよ。優等生であり、超問題児でしたね(笑)。」


02 / 日本人は“鬼”だと思ってた。2人の恩人との出会いで、価値観が変わった時。


大学進学と、日本語と出会い。

──その頃までは一度も日本には来てないと思いますが、その頃、日本をどういう風に見てましたか?
「そうですね、実はかなりネガティブなイメージを持っていました。その頃は戦争が終わったばかりということもあったと思いますが、当時放送されてた日本軍のドラマでのイメージはとても攻撃的で、まるで“鬼”のように描かれていたんです。だから私含め、まわりの皆も、日本人は攻撃的で怖い、というイメージがありました。きっとその頃の中国は、とっても保守的で愛国心を学生に注ぎこんでる時期だったんでしょう。だから高校生までは、日本に対して知識もなかったし、関心はありませんでした。」
──なるほど。その流れだと、確かに全く日本に関わるきっかけはなさそうですね。
「はい。けど大学進学のときに、言語学科を選択するタイミングがあって。英語か日本語か2択だったんです。わたしは語学は英語しか学んでなかったから、第一希望は英語学科で、第二希望は日本語学科を希望したんです。(日本語は選択肢がないので仕方なく選んだ感じで)結局、第一希望の英語科の希望者が多く、選考にもれて日本語学科になってしまったんです。」
──それが結果、日本に関わるようになったきっかけになったんですね。


日本のマンガやドラマで、植え付けられた幸せの定義が変わる。徐々に日本のイメージが変わっていく。

「大学入学した前後だったと思うんですけど、日本ブームがきたんですよ。ドラマとか漫画が、若者の間で大流行したんです。大学内でも日本のドラマや漫画が好きな人はたくさんいて、私もめちゃめちゃはまりましたね。授業でも、ドラマ鑑賞の授業もありました。その頃見たものだと、『東京ラブストーリー』、『GTO』、『ロングバケーション』。漫画だと『スラムダンク』、『聖闘士星矢』、『ドラゴンボール』・・そうそう、『ワンピース』も大好き!」
──ロンバケ!懐かしい〜。中国で当時そんな人気になっていたとは知りませんでした。
「ものすごく人気がありました。私のなかで、それのなにが良かったかというと、今までに触れたことのなかった価値観がそこにあったからなんです。仲間との友情や、青春のストーリーにとても惹かれました。
その頃の中国は、とにかく勉強。“いい大学いって、いい成績とって、優秀なだれかと結婚して子供を産む” という幸せのストーリーが、唯一の皆が目指すものとされていたんです。けど、その日本の漫画やドラマにあったのは、夢のために頑張る主人公や美しいラブストーリー。それがとても魅力的で、面白かった。周りでも日本のタレントとか雑誌で紹介され始めたり、徐々に日本という国がポジティブになって、私自身も、日本を好きになりはじめました。」


03 / 夢のために頑張る2人の日本人が、日本への道を切り開いてくれた。


日本語や日本の文化を教えてくれた、八田林一郎さんと、JICA長田真里亞さんとの出会い。

「初めて日本人とのコミュニケーションしたのは、中国語を教えるアルバイト。大学の間、三年間しました。内容は、湖南省の平和堂(百貨店)の新しく来た店長さんに、中国語レッスンする仕事でした。それで出会ったのが八田さん。とってもいい人で、こちらが中国語を教えるアルバイトだったんですけど、半分の時間を日本語を教えてくれたんです。日本語だけじゃなくて、いろんなことを教えてくれた人です。20歳も年齢が違うのに、こんな小娘を“先生”と呼んでくれるところとか、年齢で人を判断しない、尊敬しあえる人でした。それでアルバイトが終わった後もプライベート含めてとても親しくさせてもらいました」
──レッスンのアルバイトなのに、日本語を教えてくれたんですか・・とてもいい人ですね。
「はい、日本語だけじゃなくて、日本の文化とか生活とか考え方とか教えてくれたり。あと、あるときは、日本語スピーチコンテストに参加したときに彼に電話したら励ましてくれたんです。“普通とおりで話したらいいんですよ”と。そんな感じで、まるで友人のような存在でサポートしてくれて、とても嬉しかったことを覚えています。そのおかげか、コンテンストは1位とることができました。」
──素敵なエピソードですね。八田さんのおかげで、勉強の成果はあがりましたか?
「はい。ものすごく。日本語能力試験が、大学一年生の頃は合格ギリギリだったのですが、彼の家庭教師のアルバイトを始めてからは3年生でTOPになれたんです。ほぼ満点の成績でした。」
──なんとTOP!すごい上達ぶりですね。
「もう1人の恩人は、大学三年生のときに出会った、長田真里亞さんという女性。当時27歳で、JICAの海外協力隊の隊員として、派遣されて湖南省に来ていた方です。日中国交正常化30周年の年に、JICAは中国でコンテストを行って作文を募集したことがあって。それを指導してくれたのが長田先生だったんです。彼女自身も夢を持っていて、中国の楽器を真剣に勉強したりしていたんです。こんな若い女性が、低賃金で国の発展のために捧げている姿がとてもかっこよく見えたし、感動しました。彼女のようになりたいと憧れもあったんだと思います。そして、その彼女のおかげで、そのコンテストで賞をとることができて、その特典として初めての日本へ行くことができたんです。日本への扉がひらけたのは、この2人のおかげだと思っています。」


楽しかった、初めての日本。もっと日本が好きになる。


──初めての日本はどうでしたか?
「とても楽しかった!最初は東京へ行って、そのあと福島のJICAへ行ったりしました。滞在はホームステイもして、日本の家庭の体験させてもらったんです。初めてそのときに畳を見ました。
──食事はどうでした?
「初めての日本の食事は、ホームステイ先で出された朝ごはんだったんですけど・・。味噌汁や海苔とか、まるで味がしなくて衝撃をうけました(笑)。食べ物?って思いましたね。中国は朝からでも辛い麺を食べていたので。でもホームステイ先の方が作ってくださったものだったので、頑張って残さずいただきました。」
──(笑)。

初めて行った日本。JICA 二本松にて。中国人の先生と若い隊員たち 【JICA二本松】 https://www.jica.go.jp/nihonmatsu/index.html


04 / “一生好きなことに携わる仕事ができる幸せ”。

貿易会社の事務職に就職。なにをしたいかを悩んでた時期。自問自答する日々。その頃に出会った、日本人。

「6年間遠距離してた、付き合っていて恋人が大学院生で、卒業したら一緒になろうと思っていました。その彼がその頃、南京にいたので、南京にあったアパレル系の貿易会社に就職したんです。」
──その会社は、日本に関係のある会社なんですか?
「いいえ、入社した会社は、日本に行くチャンスはない会社でしたね。当時、日系の会社は本当に少なくて。特に南京は歴史上、日本の会社はほぼありませんでした。仕事の業務的にはCEO の秘書をしていました。」
──具体的にはどのような仕事を?
「書類の整理やアポ取り、クレームの対応とかサポートや管理、マネージメントをしていました。工場ももっていて、イトーヨーカドーやZARA、H&Mとか服の生産をしていました。オリジナルブランドももってました。社員8000人くらいの大きい企業でしたね。」
──仕事はどうでした?
「業務自体はとても簡単で、すぐにこなせるようになりました。けれどその分、『私は輝いてる?成長してる?』という自問自答する日々でもありました。チャレンジはそこになかったから。日本語もつかうのは一部でしたし。定番化する業務に、充実感を全く感じてなかったんです。そんなあるとき、受注先のアパレル会社の社長さんが現場監督をしに、南京に訪問してきました。彼が滞在中の期間、秘書に配属されることになったんです。」
──どんな方だったんですか?
「75歳くらいの日本人の男性の社長で、床枝さんという方でした。こんな高齢で、海外で向上の現場に来るなんてすごい、と思いました。中国だったら60歳すぎたら定年でゆっくりするのが普通なんですよ。体とか大丈夫なんですか?と、あるとき気になって聞いたことがありました。すると彼は、『工場のミシンの傍で死ねるならば、そのまま倒れてもいいんだよ』と笑って言うんです。こういう生き方があるんだ、と驚いたのを覚えています。一生すきなことに携わっていく生き方。とてもかっこいいよく見えました。」


05 / “あなたには可能性がある”。 第三の恩人、西克徳さんとの出会い。

2006年、デザイン会社の社長との出会い。通訳を頼まれる。

「貿易会社に2年くらい在籍していた頃にもう1人、人生での大事な出会いがありました。そう、社長の西さんですね。」
──ついに登場しますね(笑)。聞かせてください。
「大学院1年生の頃に、仲良くさせてもらっていた、上田尾一憲さんという留学生がいました。あるとき彼から久々に電話がかかってきて、『いま南京に来ています。会いませんか?』と言われたんです。『もちろん』と応えて会いにいったら、その社長をつれていました。それが西克徳さんでした。」
──気軽な感じで上田尾さんと2人で会うつもりで行ったら、社長もいた、ということですね。
「はい。邱永漢の社長会社の訪問をするから、通訳をしてほしいとのことでした。
もとは上田尾さんが通訳だったのだが、やや自信がないからと、急遽依頼されたんです。3人で会社訪問っした。それで通訳をしました。それで何故か、西さんに気に入られんですよ。会社訪問が終わって、そのあとに喫茶店で勧誘されたんです。「邱永漢先生と北京でデザイン学校をつくる予定です。協力してくれないか」と言われたんです。」
──会ったその日に。突然ですね(笑)。
「突然すぎて、『何故わたしなんですか?』と聞くと、あなたは通訳はもったいないと言われたんです。『でもわたし、デザインまったく知識ないです』あなたには可能性がある。と行ってくれた。その言葉に、強い信念を感じて感動しました。
当時、もともと秘書がつまらないと思ってたんです。時期、初めて出会ったのに
1時間くらい説得されたけれど彼と南京にいたかったから、タイミングじゃないと思って、そのときは断りました。」

その2年後、再度電話がくる。西克徳さんと一緒に上海にデザイン会社をつくることに。

──でもそのあと、また西さんから勧誘をうけたんですね。
「そうです。その1年後にまた、南京にきた西さんと上田尾さんがきたんです。電話がきて、今度は『上海にデザイン会社つくるよ。一緒にやらない?』とまた説得されました。その頃、ちょうど彼が大学院を卒業するタイミングだったから、その話を受けることにしました。西さんと一緒に広告のデザイン会社をつくることを決意したんです。」


06 / 2回目の日本で、何もできない自分を知り、上海オフィス設立。コピーライターへの道を歩み始める。

ホノルルインク(現:グランドデザイン)でインターン。

「西さんと上海に会社を作ることになって、デザインや広告のことを何も知識がなかったので、日本の西さんの会社『ホノルルインク』で2ヶ月間、インターンをすることになり、日本へ行きました。」
──2回目の日本、初めての海外生活はどうでしたか?
「全てが初めてだらけの経験で、電車にのったこともなく、乗り方もわからない。到着して2日目にはホームシックになるし。最初の頃は本当にだめでしたね。あと、中国では21時以降は女性は出歩かなかったから、その時間まで会社にいることにも慣れなくて。」
──そうだったんですね。我々日本人からすると、普通のことが、全てが初めての経験だったんですね。
「しかもわたし、かなり方向オンチなんです。それで、当初は西さんに半分呆れられていましたね。あとから聞いた話だと。」
──(笑)仕事の業務はどうでしたか?
「私、日本では何も出来ない人になっていたんです。つまり、中国では日本語が喋れるという特技があったけれど、ここは日本。日本語は皆話せるんです。私はそれで何をしたらいいかわからなくて、西さんに相談しました。そうしたら『自分でさがしてみて?』って言われたので、とりあえず雑務をやっていました。そのとき、私は当時27歳でした。だんだんと業務にも慣れて。終わる2ヶ月が経つ頃には、帰りたくないくらい、楽しくなっていましたね。帰国後、本格的に上海の会社の設立を進めました。」


2008年10月 ホノルルインク(現:グランドデザイン)上海オフィス 設立。

──2008年に、ついに上海オフィスができたんですね。
「はい。最初はプロデューサーのような仕事を任されていましたが、仕事をまだ理解できていなかったから、実際は出来ていませんでしたね。雑務が中心で、プレゼンシートの翻訳とかクライアントへのプレゼンターを担当してました。上海のデザイナー3人からスタートしました。業務は、博報堂案件とか電通のクリエイティブの競合の参加から始動しました。」

コピーを書くようになって、言葉は“力”をもっていることを知る。

「独立的な案件のアシスタントを担当したり窓口業務をしていました。その頃からコピーをかき始めたんです。そのときに、人生ではじめてコピーというものに触れました。それで文字には力があることを知ったんです。そのことにとても興味をもちました。実践しながら訓練していきましたね。日本のコピーライターさんに、その考え方も学んだりして。中国語のときはどうしたらいいのかを実践をつみながら仕事していきました。スピード感、いいコピーも書きたいし、でもスピードも大事だし。中国人にしかわからない表現といつのも大事です。それらの掛け算をどう効率よくこなせるかを模索して、日々とにかく必死でこなしていましたね。そうしたら、徐々に余裕がでるくらい書けるようになってきたんです。」
──これから、どんなコピーライターになっていきたいですか?
「言葉の表現力はもちろんだけど、それに哲学思想、人生体験が掛け合わさったようなコピーを書くことを目指しています。」
──最後に。今後の展望みたいなものはありますか?
「模索中だけど、JIICAの長田先生のように、自分だけじゃなく他人のために生きれる人になりたいと思ってます。」

──ありがとうございました!



ほか・手掛けた仕事

re:me  Advertisement Copywriting &Concept Book & Movie 
※画像をクリックすると詳細が見れます。



07 / まとめ。

さて。皆さんの思う、幸せな生き方って、なんですか?

「いい大学へいって、いい会社に就職して、結婚。」それが一番の幸せとされていた90年代の中国で生まれ育った彼女は、それが幸せだと思って生まれ育った。
色んな出会いによって、その価値観が変わり、その頃の中国の幸せの定義からは程遠い生き方を選んだ李晶さん。

彼女から聞いた、古い中国の考えや価値観にはとても驚いたけど、日本好きですと言ってくれる彼女のような人を、我々日本はもっと増やしていかないといけないし、大事にしていかないといけないと思う。

彼らがもっと働きやすい国にしよう。
戦争が終わって時代が移り、次の世代が誕生している今、世界の価値観は日々変わり続ける。国際的な問題はまだまだ尽きないけれど、インターネットや様々な技術の発展によって、近年、国境がどんどんなくなりつつある。そのような時代に、いろんな人に出会い、価値観や考え方を共有していくことが、世界の文化の発展や人間自身の成長につながっていくと思う。
このnoteが、その一歩に繋がっていけたらなと思えたインタビューでした。ありがとうございました。


Li Jing    PROFILE
中南大学 日语・大学卒業 経済法・大学院生卒業
出身 :湖南省邵陽市/生まれ:1981年 /尊敬する日本の起業家:松下幸之助さん、稲盛さん、柳さん これに出会えてよかったと思う分野やジャンル、人:八田林一郎さん、長田真里亞先生、西克徳さん。


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