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短編写真論
はじめに
写真で銭を稼いでない私が写真について論じることは甚だ僭越であるが、自身の写真活動の指針を明確にするにしても、巷の扇動者の影響を受けないためにも重要であるため端的に整理しておきたい。所々で生じると思われる言葉足らずな理論は後々に追求できたらいいと思う。
なぜ写真を撮るか
多様な撮り手
写真を生業にして撮る人がごく一部であることは周知の事実である。趣味で写真をする人が比較的多いだろう。高性能な機材と編集ソフトの普及によって、写真を見て撮影者が何者かを判別することは難しい。しかし、大多数の人にとっての写真は芸術ではなく、栞や付箋のような備忘録だ。美麗で鮮明な写真は用途の限られる造形物に過ぎないが、記録として価値のある写真は写真という形態を超越した媒体として多様な利用価値を内包する。
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芸術として
感性のままに撮った写真が満足する完成度である時、誰かに写真を批評してもらいたくなるし、撮影することが楽しくなる。その欲は撮影技術の向上をもたらす。自分なりの表現とは多数の選択肢から意図して選ぶ表現であり、個性や偶然と合わさって唯一無二となる。したがって自身の写真へ抱く所有欲が高まるのだ。それは次の写真への期待値が上がることを意味する。
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習慣として
写真が増えていくと管理が必要になる。データの場合はHDDを圧迫するし、フィルムの場合はファイルが部屋を占有し始める。整理する過程で過去の写真を見返していると、独自の人生を歩んでいることを実感する。そして後から手にしたくなるような写真を撮らなければと思い始める。景色を観ること、写真を撮ること、現像して見返すこと、それら一連が写真の醍醐味である。特に見返すことについてはどうしても疎かになりやすい。撮影枚数が膨大であれば尚更だ。印刷は撮った写真を振り返る手段として理にかなっている。プリントされてようやく写真と言える、という考え方があるのも不思議ではない。引き伸ばすとなれば、鮮明で繊細な像が必要であり、暗室に閉じこもる頃には写真が生活そのものだと言っても過言でなくなる。
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撮影プロセス
目的
目標やテーマと言い変えても差し障りない。シャッターを切る瞬間には必ず撮るべき対象へレンズを向けているはずだ。三脚を据え置いて待ち構えようが、唐突な出会いに慌てて構えようが、撮る体制が目前の景色とそれに呼応して高まる感情との二者間で成り立つことは共通している。つまり、何を撮るのか、それだけがシャッターを切る上での障壁である。迷いがあるなら家を出る前に一つテーマを設けるといい。慣れればテーマに縛られない記録を撮ることができるようになる。
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方法
何を撮るのかを事前に決めなくなる頃には撮らないことを意識し始める。数歩進む度にカメラを構えているときりがないからだ。シャッターを切る過程に制限を設けると自分の視点そのものが変化し、新鮮と思える景色を発見することができる。すると撮影枚数が増えていくため、また制限を設ける。悩みながらそれを繰り返しているうちに、自分にしか観えていない景色を捉えていることがある。
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条件
機材の違いによって写真に差が生じるのは確かだが、撮影条件による影響と比べれば深刻な差にはなり得ない。当たり前のことだが、道具にこだわる以前にその使い方を修めることが先決だ。環境要因に対応するために極限状態で写真を撮る場合、機材への拘りは生まれて然る。つまり、人間の生活圏にて肉眼で容易に捕捉できる被写体を撮影する場合は機材に依存しない。半世紀前のフィルムカメラ程度の性能で足りる。カメラやレンズのみならず、昨今における製品の優劣なんて瑣末な違いの拡大解釈に過ぎない。任意の条件を設定して撮ることさえできれば自由に写真を楽しむことが可能だ。
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結果
撮影した写真を確認していると喜びを覚える瞬間がある。この目で観た偽りない現実の美しさを証明するためには像が必須だからだ。ここでは色彩、明暗、形、動き、焦点や視野など、自分がその時魅了された要素がそのまま表現されていることが重要だ。そしてそれは撮影条件によって必然的に決定される。さて、昨今ではデータを後から加工して魅力的な写真に仕上げる手法も浸透している。それはよくフィルムの現像やプリントにおける補整に例えられるが、使い方によっては現実を軽んじる癖が染み付いてしまう。固定された手法に基づき、撮影から起算して一方向的に額縁へ収まるならば必然性が担保され、切り取られた美しさに一定の信頼が生まれる。しかし、その一枚に対して都合よく多次元的に印象を操作された写真から連想される現実が真であるかは疑わしい。他人からは何を変えているのか分かりづらい点が尚更信頼を害する。加工で得る喜びは写真とも現実世界とも無関係であるゆえ、これ以上触れることはない。撮影した写真が気に入らないなら、いつ再び訪れるか分からない機会に備えながら現実世界を彷徨うしかない。
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写真とは
写真とは記憶を実体化した記録である。より良い記録とは噓偽りが混ざっておらず、後から遡って整理ができ、未来に繋がる余地があるものだ。そのためには撮影する時、その場での記録に徹するべきだ。記憶に基づいて編集したものは記録ではなく、加筆された記憶に過ぎない。
充実した生活、実りある人生と言えば抽象的で、いくら考えても正解が思いつかない。しかし、写真を撮る生活、写真に捧げる人生がどうあるべきかを考えると輪郭は見えてくる。自分がやりたいこと、行きたい場所とその旅路での喜怒哀楽をひたすらに記録し、死を前にして見返し、棺に入れる写真集を創り上げる。あわよくばそれを誰かが受け取ってくれれば、不完全でも完璧な人生だろう。
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