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僕が僕であるために
当たり前だけれど、社会は金を第一として動いている。
金があるところに人が集まり、人がいるところに金が集まる。要不要の是非は関係なく、不確実を避ける動きをしている。一方、この数年で人々の生活様式が大きく変わっているのは既知の事実だ。
僕はこの変化を大きく二つの流れに分けて捉えている。貧困層が生きるための生活水準、医療や教育の改善などのベースアップ的側面が一つ。もう一つがより楽に快適に生活するための実験的側面だ。どちらも本流は技術開発に依り、技術がある程度平準化している現在、データや資源を持つ企業や国が覇権を握っている。それらが主導となり、昨今の人間社会は確実に便利になっている。
僕もそんな便利な技術の恩恵を受けて何不自由なく生きてきた。周りの人間ももちろん同じだ。特に近年はみんなが同じデバイスを持ち、同じデータを取得して共有している。また、それが良しとされている。似たような人間が増えて、時には容姿にまで還元される。
いつしか僕は他人と同じであることに気持ち悪さを抱くようになっていた。歯ブラシを共有するような嫌悪感だ。意識的に他人と違うことをしているうちに、それが習慣となり、他人を見なくなり始めた。
人と比較して優劣をつけることは豊かと言えるのだろうか。自己肯定するためのコストが高まることに持続可能性はあるのだろうか。金があれば人間としての価値も高まるのだろうか。金を得るための時間と未来を変える時間ではどちらの価値が高いのだろうか。
自分の人生の価値は何に掛かっているのだろうか。
僕が満足するために。僕が僕を認識するために。
そんなことばかり考えている。
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