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文章をかくこと

 中学生の頃から部活の時につけていた練習日誌が、高校生の頃にだんだんと日記のようなものに変化していき日々頭の中で悶々と考えているあの、黒い糸がぐちゃぐちゃに絡まったような感覚に耐えきれない時、全部言葉にして書き出してしまえばその絡まった糸が多少解けていく気がしてそれが気持ちよかった。
だから文章を頻繁に書くようになった。


 noteに投稿するようになり誰かに見てもらうということで私の感じたことや見たものがどの言葉を使えば伝わるのか考える必要がある。伝えるためにひとつずつ言葉を選んでいく作業が面白いな、と最近気づいた。



いずれは旅日記のような記録物だけではなく、社会に対して思うことや旅を通して自分の考えたことなどを誰かに伝えれるようになりたいとも考えている。


 ところで私は何かを発信することは、それに伴いある程度の責任を背負うことになると考えており、今の私には自分の考えをはっきり提示できるほどの自信がない。


その理由は主に2つある。

 1つは、自分の意見を提示する際に伴う事実や根拠に対しての知識が乏しすぎるということ。だから自分が発言したことに対して責任を負える自信がない。

 もう1つは私の書いた文章によって誰かを傷つけてしまうことがあるかもしれないから、ということ。
もし一度に幾人か分の人生を歩むことができて、その時の経験や置かれた環境によって色んな立場からものを考えたり、色んな人の気持ちが理解できたりするのなら状況は変わってくるが、そんなことはできないので私の経験だけから生まれた偏った考えによって書かれた文章で誰かを傷つけてしまう事もあるのだろう、と考え不安になる。

 だから自分の考えを書いた文章を公表することは単純な恥ずかしさとは別に、とても勇気のいることだと思う。


 自分の発言に自信を持てるようになるために、これからも何に対しても学んでいく意欲を忘れたくないと思う。
そして多角的にものを考えるようになるためにも、なるべく色んな人の気持ちに寄り添えるようになるためにも、できる限り巡ってきたチャンスは逃さないようにすること、人生の中での経験や体験を豊かにしていくこと、信頼できる人の意見に耳を傾けるようにすることを忘れたくないと思う。

お友達が撮ってくれたお気に入り


 たかだか20年しか生きていない私はまだまだちっぽけで何も知らない。死ぬまでどれだけ本を読んでもどれだけの人に出逢っても、どれだけの場所を訪れてもそれでも尚、世の中のことを判ることなんて到底できないのだろうといつも図書館にある膨大な数の本をみては思う。


 なんだか話の出口がどこへ向かっているのかわからなくなってきた気もするがとにかく、自信がなかろうが、誰かを傷つけるかもしれないと不安になろうが結局最後には私は自身の欲望の通りに行動してしまう自分勝手な人間だ。


だからこれだけ不安やら責任やらとぼやいていても、しばらくすれば自分の考えと偏見にまみれた文章を晒しているのだろう。


そこに至るまで、もしかしたらその後も、周りの人に意見を求めたりして沢山お世話になると思うが、どうぞよろしくお付き合いくださいということだ。
いつも仲良くしてくれる皆、本当にありがとう。



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