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異世界に行けなかった俺の半生。

こんにちは!ブログアフィリエイターのatchk(あっちいけい)です。
本業は、港で輸出の貿易事務をやっています。

ブログでお世話になっている方、X(旧Twitter)でお世話になっている方。
あっちけい?
あのマスクとか被ってる変な奴?こいつ何なのよ?
まあ、そんな印象かと思います。

そんな中でも、私という人間が気になった方がいた時のために、プロフィールを書いていたら、ちょっとした自伝っぽくなってしまいました。

我ながら、なかなか波乱万丈な人生を歩んできたなと。

実際のところ、そう大した人間ではないんですが、一所懸命書いたのでお時間があればぜひ最後まで読んでみてください。
私の事を、もう少し深く知ることができるかもしれません。

それでは、最後までお付き合いいただけると幸いです。


祝生誕 - 幼少から短い学生時代。

小さい頃はそこそこ何でもできたスポーツ少年


東京都武蔵野市で生まれ、千葉県で育った俺は、小さい頃からスポーツも勉強もそこそこできた。

小学6年の時なんかは、バレンタインにチョコを23個ほど貰うなど、学校でもかなりモテた。はず。

加入していた少年野球チームでは、もちろんレギュラー。
5番ファーストを任されていたし、得点圏では皆んなの期待に応えるスラッガーだった。

俺が住んでいたのは、千葉県のいわゆる団地。
当時は本当に多くの人が住んでいたし、子供も多かった。

悪いことをすれば、親じゃなくてもぶっ叩かれたし、まあよくある昭和の子供時代を送っていたんだ。

隣町への引っ越しから始まった中学生活

中学に上がると、親が隣町に戸建ての家を買った。
団塊世代、夢のマイホームってやつだ。

生まれ育った町から、そう遠く離れているわけでもなかったので、何の抵抗もなく引っ越しは決まった。

まあ、今考えると引っ越さずに、進学していれば良かったのかもしれないけどね。当時は広い家!自分の部屋!ペットが飼える!なんて、家族みんなで喜んでいた。

隣町の中学に進学しても、学校の成績は引き続き好調。
新しい友達も少しずつ増えていき、新しい町にも慣れてきた。

やる気十分な俺は、塾でも必死に勉強を続け、ピーク時は全国模試で偏差値72を叩き出す。

勉強の方は絶好調!
しかし、入部した野球部では背番号をもらえないどころか、試合にすら出してもらえない日々が続いた。

来る日も来る日も坂道ダッシュ。とにかくやるのは体力作りばかり。
成長が早い方じゃなかったので、体が大きい子達にはなかなか勝てなかった。
悔しかったけどね、納得はしてたよ。

中学2年になると、周囲も頭角を表してくる。
氷河期世代の受験戦争が始まると、勉強が面倒に感じ始めた俺の成績は、徐々に下がり始めた。

この頃から、母親が暴力を振るいはじめた。

新しい家に引っ越してから、ほとんど家に帰らなくなった父親。
たまに家にいると思ったら、二日酔いで一日寝ている。
そんな母親の蓄積したストレスが全て俺に向かったんだろう。きっと。

母親曰く、「80点未満は絶対許さない」とのこと。
どう許さないのか。とにかく引っ叩かれるんだよ。
79点でも容赦なく引っ叩かれる。

子供ながら、これは理不尽だ!と思ったけど耐えた。
子供の狭い世界観では親が全てだったからね。

下手に全国模試で結果を出したばかりに、こんな酷い目にあったよ。
親の期待も度を越すとこうなる。
みんなも気をつけてほしい。

成績以外の部分でも、母親の暴力は日常茶飯事になった。
やれ返事がない、やれ起きるのが遅い、寝るのが遅い。
母親が気に入らないことがあれば、すぐ叩かれた。

顔を腫らして学校に行ってるんだから、先生も少しは気にしろよと思ったよ。
社会を知らない俺は、それが普通なんだと諦めて我慢していたが、気力はダダ下がり。

部活や塾もサボりがちになり、親の目を盗んでゲーセンで遊ぶようになった。

我慢の限界、そして…。

ある終業式の夜。
成績が下がったことを理由に、母親から裁縫用の定規で殴られた。

L字に作られた1mのプラスチック製定規」で叩かれると痛い。

マジで痛い。

赤く腫れるどころか、叩かれた場所に血が滲んで身体中が紫色になった
ついに俺の不満は爆発。と言っても殴り返す度胸は無い。
かと言ってこのままこの家にいたら、俺は殺されるかもしれない。
俺は逃げた。
母親から逃げた。
夏期講習代を持ち出し、2週間家出した。

家出した時の話は詳しく書かないが、親がほとんど帰ってこない同級生の家で過ごし、そこで完全にグレた

今考えるとその同級生の家もネグレクトだった気がする。





中学3年から高校2年にかけては、まさに暗黒の時代だった。
親に不満があるなら、ちゃんと向き合えばよかったのに、そうもいかなかったんだよな。
母親には恐怖を植え付けられているし、教師陣もどこまで味方になってくれるのかわからない。

自分の身を守る術は暴力しかなかった。
殴られたら殴り返す。
舐められたら一方的にやられる。相手が友人だろうが殴り返した。
たまに負けてボコボコにされたりもした。
その名残で、今でも鼻が曲がっている。

そんな俺にも、高校受験が訪れる。
そもそも高校に進学する気は無かったんだけど、仲が良かった友人が高校に行くと言うので、俺もついでに同じ高校を受験する事にした。

中学2年までの勉強のおかげで、偏差値50くらいの公立高校に何とか合格。
しかし、入学初日から高校でイキって大暴れ。アホすぎる。

高校生になっても、親とはろくに話しをしなかった。
家では、2個下の妹と話すくらい。

あ、そうだ。
妹について話してなかった。
俺には2個下の妹がいるんだ。

妹は引っ越し先の新しい小学校で、酷いいじめを受けていた。
さすが千葉のクソ田舎のクソみたいな小学校だよな。

妹が小学校でいじめられていることを知ったのは、俺が中学2年だった頃。
妹が中学に入学すると同時に、いじめていた奴らにお仕置きしたよ。
具体的な手法は内緒だ。

俺が卒業する際、一個下の後輩(暗黒仲間の女の子)に「妹を面倒を見てやってほしい」とお願いしておいたので、いじめは完全に撲滅。

その後、妹は覇気を取り戻し、3年生に上がると軟式テニスで全国大会に出場するなど大活躍。
強豪校からの誘いを受けて、順風満帆な高校生活を送った。

俺とは全く対照的だよな。
ホントによかった。

話を戻そう。

高校2年のある日、母親が「車で食事に行こう」と誘ってきたんだ。
日頃から会話も無いのになんで?と思ったけど、腹が減ってたからホイホイついて行ったよ。

そしたらさ、母親が対向車線に飛び込もうとするんだよ。
車がビュンビュン走っている国道で、何度も何度も躊躇いながらハンドルを動かす母親。

グッグッ。キュキュッ。
死へのスキール音。

いや、待てよ。
まだ死にたくねえよ。

緊迫した車内。
運転席の母親に俺は…
「まだ死にたくないからやめてくれ」と言った。

意外だけど、何故か落ち着いていたんだよね。



「そう」
と母親。

やっぱり母親は死のうとしていたみたい。
俺と一緒に。

この頃の家庭内は最悪だった。
毎日誰かが怒鳴り声を発していた。
新築だったはずの「夢のマイホーム」はボロボロ。
母親にも限界が来ていたんだろう。

しばらくまともに見ていなかった母親の顔。
まだ若かった母親の髪は真っ白になっていた。

その後、無言で食事をして家に帰ったら、「学校が合わないなら辞めたらいい」と言われて、そのまま高校に退学届を提出した。

これが俺の学生生活の終わり。

若人は海外で何を学ぶ。涙のホームステイ。

俺の趣味?バイクです。

高校を辞めてからは、特にやることもなく、中学時代の同級生と遊んでいた。
暗黒時代の先輩や同級生とは、距離を置いて疎遠になった。

疎遠になった理由は、単純にうざかったから。
金、喧嘩、金、喧嘩でバカみたい。

暗黒時代の同級生や先輩とは、大人になった今でも疎遠だ。
今、何をやっているのかも知らないし、知りたいとも思わない。

この頃はバイクが趣味で、中型の免許を取ってTZR250「R」を購入した。
時給650円。イトーヨーカ堂の「文房具・おもちゃ売り場」のバイトで稼ぎながら、24回のローン。

V型2気筒の新型だ。
並列2気筒の後方排気とはワケが違う。

夜な夜な13号地(今のお台場周辺)に走りに行ったり、50ccのレーシングチームに入り筑波サーキット(東コース)でレースをしたり、仙台ハイランドの4時間耐久レースに参加したり、それはそれはバイク三昧な日々を送っていた。

この頃はキラキラしていたね。
暗黒時代とお別れして本当に良かったと思う。

そんな感じで仕事もせずにバイクで遊んでいると、ある日母親から「海外に行ってみたらどうか」と言われた。

母親が勤める社会福祉法人の伝手で、交換留学対象に俺の名前が上がったらしい。

この頃になると、母親は普通の母親になっていた。
くだらない事で俺に当たることも無くなっていたし、家庭内暴力も無くなった。
だから俺も許したよ。
普通に話し、普通に笑えるようになってたんだ。
普通って素晴らしいよ。マジで。

酒を飲んで帰ってこない父親は知らん。

そんなわけで、暇を持て余していた俺は、2ヶ月間の海外留学を快諾し、一人ニュージーランドに旅立った。

武器は和英辞典一冊。俺はニュージーランドの地に降り立った。


たどり着いたオークランドの地は、俺にとって何もかもが新鮮だった。

日本を夏に出たのに、こっちは冬。

見渡しても日本人は俺しかいない。

今考えると、英語も話せないのにすげえなと思うけど、そこは若さで何とかなるもんだ。

ニュージーランドは治安も良いしね。

そういえば、空港でいきなりカップラーメンを、一箱丸ごと没収されたことを思い出した。
何を言っているのか分からなかったけど、肉の持ち込みができないらしいことはわかった。クソ残念。

ホームステイ先への移動前に、マオリ族の儀式を受けないといけなかったりで、少し面倒だったが、儀式で礼儀を欠くと、殺されても文句が言えないと言われていたので、大人しく従った。

この時からニュージーランドで何度も歌ったマオリ族の「ポカレカレアナ」は今でも歌える。
大人になった今聴くと涙が出る。

ホストファミリーのガードナーさん一家

ホストファミリーのガードナーさん宅は、
映画みたいな、白くて大きい平屋の家で驚いた。

玄関先でおばあちゃんが「ロッキングチェア」に座ってそうな家。

日本のお土産だと言って「梅干し」をあげたら、ガードナーさんが酷い顔をしながら「オーマイ!!」と言っていた。
「オーマイ」は「オーマイガッ」の小さいバージョンらしい。

寝る時は、外からゾンビが来るんじゃないかと真剣に恐れた。
ガードナーさんは大丈夫だと言っていたけど、笑っていたから絶対に大丈夫ってわけじゃないんだろう。

映画では、安心したやつから先に死んでいく。
襲われないように気をつけなきゃね。

ガードナーさん宅は、奥さんと二人の娘さんの4人家族。
お姉ちゃんは俺の一つ上、妹は俺の一つ下。
そして二人とも金髪の超美人。

これは国際結婚への布石!?
とちょっとだけ期待したけど、日本人はかなり幼く見えるらしく、俺なんて眼中になさそう。
結局、金髪美人姉妹からは、弟としてしか扱われなかった。

何とかコミュニケーションを取ろうと、和英辞典を片手に意思の疎通を図る。

妹のメリサが人懐っこくて、ちょっと好きになり、彼女がボーイフレンドを連れてきた時に嫉妬したりもした。若いっていいね。

ニュージーランドの学校や街を楽しんだし、3日に一度はパーティーを楽しんだ。

一日の食事ルーティン。

「朝食」⇨「モーニングティー」」⇨「昼食」⇨「アフタヌーンティー」⇨「夕食」⇨「アフターディナーティー」

3食の間に大量のお菓子を食べる生活には驚いた。
体重も増えるってもんだよ。

そうやって生活していくうちに、だんだんみんなと意思の疎通ができるようになった。
相手の言葉を理解しようとすれば、単語や言葉の流れが頭に入ってくるんだ。
そのうち勝手に口から英語が出てくる。すげえ。

驚いた時は「おーう!!」とか、話しの合いの手に「あーはん?」とか言っちゃう。それも自然に。元ヤンなのに!!

帰国後も少しの間は、英語を得意げに話していたけど、今は全部忘れた。
日本語以外話せない。なぜだ!。

たまにニュースで日本の出来事が流れてきたけど、遠い島国の出来事の様に感じていた。それくらい海外から見ると日本は小さい。

そんな小さい島国の自分は、なんてちっぽけな存在なんだろうと考えた。

ニュージーランドで出会う人出会う人みんな芯があって、ちゃんと色々なことを考えている。それに比べて俺はなんだ?
何か先のことを考えているのか?

色々打ちのめされたけど、よく考えたら周りはみんな大人だったんだよね。
そりゃ俺より色々考えてるよな。

生意気でも所詮は10代。ホームシックにかかる。

帰国予定近くになるとホームシックにかかり、日本食が食べたい、家に帰りたいとメソメソ考えるようになった。

16歳だもんな仕方ない。

帰国する前日、家に電話したんだ。

電話口の母親に「ありがとう」と一言伝えたら涙が出た。

話したいことはたくさんあったけど、泣いて会話にならなかった。

母も泣いてた。

そして、帰国したんだ。

帰国。そして和食料理人の修行を始める

海外留学したことで日本という国に興味を持った

帰国してからというもの、母とは何でも話せる仲になった。
まあ色々あったのは確かだけど、俺だって悪い。
母にこれ以上辛い思いさせる必要もないだろう。

高校は早々に辞めちゃったけど、これからの人生でやり直していけばいい。
若さは力だ。何だってできる。
高校に入学し直してもいいし、大検をとって大学受験したっていい。
どんな方向に進むにせよ、もう過去のような馬鹿はやるまい。

その頃の俺はといえば、相変わらずバイク三昧の日々を送っていたけど、心持ちはちょっと前向きになっていた。
海外から自分を見つめ直したことで、自分が住んでいる「日本」という国に興味を持ち始めたからだ。

そんなある日のこと。

父親から突然「和食の調理をやってみないか」と声をかけられた。

家にいないので、あまり話す機会がない父親だったが、もう親に反抗するような気分でもない。きっと反抗期が終了したんだろう。

海外から見た日本って面白いんだよね。
文化は独特だし、内向的な面はあるけどこだわりが凄かったり。

俺は和食を作ってみたいと思ったんだよね。
「そろそろちゃんと働き始めなきゃな」って気持ちもあったんだと思う。

職人仕事はキツイとは知っていたけど、高校を中退している以上、手に職を持つってのも選択肢として悪くない。

「職人」……うん。かっこいいじゃない?

で、修行先を見つけてくれるという、父親の知り合いの料理屋さんを手伝うことになった。

このお店、千葉の片隅にあるのに高いんだよね。料理の値段が。
フグとか出してるし、この板前さんも只者じゃないんだろう。

でも、料理を教わったわけでもないし、ここでは特に語るようなこともないかな。
ひたすら洗い物と掃除をやっていたよ。
奥さんが忙しい時はホールを手伝ったりね。

俺と同い年の娘さんがいて、ちょっといい感じになったりしたけど、それはまた別の話。眼鏡が似合う可愛い娘だったな。

その店では火曜〜日曜の週6勤務。
1日8時間で2週間ほど手伝ったんだけど、無償奉仕とわかって精神的にショックを受けた。おい金よこせよクソジジイ。

あ、そうだ。

念のため伝えておくけど、俺が和食を学んだのは、赤坂にある懐石料理とかのエリート街道ではない。

「吉兆」とか「なだ万」から一歩引いた、創作料理・会席料理が混ざったようなレベルの店。

最高級ではないけれど、安いわけでもない。
そんな感じの店で修行してきた。

バブリー全開!巨大生簀の会席料理屋

紹介された修行先は東京都品川区の会席料理屋。
プールみたいなデカい生け簀が4つもあるバブリーな店構え。

マダイやトラフグ、ヒラマサやヒラメなんかが所狭しと泳いでいる。
ヒラマサみたいな回遊魚が泳いでいる時点で、生簀のデカさを感じてもらえると思う。

どでかいタカアシガニがいる生簀に入る時は怖かったね。
ハサミの力が強いから、指なんて挟まれたら簡単に持っていかれるって聞かされていた。やべえだろ。
やられたら労災効くんだろうな。おい。

ここでちょっと説明しておこう。
板前の序列についてだ。

「追いまわし」から始まり→揚げ場→焼き場→八寸場→向板→脇板&脇鍋→立板←→煮方→親方
右に行くほど偉い。

煮方と立板の関係は、店によって変わることもある。
俺の修行先は「煮方」が、親方に次いで偉い「二番」だった。

その店の板前は総勢10人。
俺はもちろん一番下っ端の「追いまわし」からスタート。

下っ端板前の待遇は超絶ブラック。
勤務時間は9:00~22:00、残業手当なしで給与は12万円/月のボーナス無しだった。

これでも大手企業の資本が入った料理屋さんだぜ。
安いよね。ヤバいよね。黒いよね。

もっと貰えないのかと、試しに聞いてみたんだけど、
「料理を教えてもらって、金までもらえるんだから、ありがたい話じゃないか」だと。

そんなわけあるか。クソ。

業務内容は主に、先輩が使った調理器具の洗浄、米研ぎ、おしんこ盛り付け、その他雑用全般。

「洗い物に出てくる調理器具に残った食材を味見して、勉強しとけよ」
八寸場の先輩によく言われていた。

うるせえよ。お前洗い物出しまくるんじゃねえよ。
全く効く耳を持たない俺。

業務終了後は「ボンスター」で鍋を磨いたり、先輩の足袋を洗濯したりと、翌日の準備もしなければならなかったから、帰るのはいつも終電。

昼も夜も休憩なんて殆どない。
洗い物や雑用ばかりで、料理なんて教えてもらう暇はないし、週一の休みは疲れ切って遊びに行く事もできない。

身近な友達が、学生生活を謳歌しているのに、そんな環境が耐えられるわけがないよね。

わずか3か月で先輩と喧嘩して、早々に退職した。

喧嘩した理由は以下の通り。

偉い人(煮方)が、彫刻刀でカボチャに菊の花を彫るのを見かけて、すげえええ!と感動。質問攻めにしたら、何故か教えてくれることになったんだよね。

で、煮方と一緒にカボチャに菊の花を彫っていたら、八寸場の先輩が嫉妬

煮方に見えないところで、俺に蹴りを入れてきやがった。
軽くだけどね。

「偉そうに彫り物なんて教わってんじゃねえ」って。

八寸場の野郎、元々偉そうで嫌いだったから、頭にきて思いっきり蹴り返したら大問題に発展。

先に手を出した八寸場の先輩は、すぐ俺に謝ってきた。
で、やり返した俺も親方に反省を促されたが、仕事がキツイし、やる気も無くなったので「辞めます」と言ってそのまま退職したんだ。

我ながら忍耐力のないガキだと思う。

勝手に退職して少し経った頃、父親の知り合いの板前さんから、別の料理屋を紹介すると連絡があった。

あんな義理を欠いた、酷い辞め方したのに。

板前はキツイから嫌だと言っても、「良いところだから挨拶だけでも行ってこい」と辞退させてくれなかった。

仕方ないから挨拶に行ったんだよ。
断るつもりで。

小規模ながら有名店。神田の料理屋さん

挨拶に行った先は、千代田区神田の駅前。

挨拶だけで終わらせようと思ったんだけど、すごく優しい親方だったんだよね。

そのお店の板前は、親方、煮方の二人だけ。

もう一人若い人がいたみたいだけど、辞めちゃったらしい。
理由は知らない。

そのお店の親方と色々話してみたら、すごく雰囲気が良かったから、修行し直すことにしたんだ。

流されやすいと思うよ。実際。

新たな下っ端板前の待遇は、勤務時間10:00~22:00、残業手当なしで給与は22万円/月、ボーナスなし。

月給10万アップの大出世。

業務内容は主に揚げ場と焼き場、親方のアシスタントだったんだけど、店長も仲居さんもパートさんも、みんないい人ばかり。

みんなが家族みたいだった。

今度は続いたよ。
この環境で続かなかったら、板前に限らず、どこに行っても働けないだろう。

そんな感じで修行を続けるうちに、揚げ物のコツを掴み始めた。

揚げ場は、「鋳物ガスコンロ」と「銅鍋」で揚げる本格派。

腕を上げたくて、有名店を食べ歩いて研究した。
可愛い仲居さんと一緒に。

ま、間違っても、し、下心なんてないんだからねっ!

そのうち、俺が揚げた天ぷらを、たくさんのお客さんが美味しいと褒めてくれるようになり、かなりの数の注文が入るようになった。

天ぷらを美味しく揚げるコツは火力の調整と、水の温度と小麦粉の合わせ方だけ。
シンプルイズベスト。
余計なものは一切入れない。

とにかく、衣と具材が口の中で一緒に溶けるように考えながら揚げる。
衣が口に残ったり、火を入れすぎて具材が固くなるようじゃ半人前。

得意になって、さらに研究していたら、親方がお店のおすすめに俺の天ぷらを入れてくれた。

会席料理屋のおすすめにだぜ?
嬉しかったな。板前として認めてもらえた気がして。

揚げ物ばかりじゃなく、焼き物も頑張った。

「踊り串」や「登り串」が得意になり、バランの切り方を研究して、綺麗に装飾できるようになった。

魚の油の強弱を考えて塩の量を調整したり、火加減も魚が柔らかく食べられるように考えた。

焼き物は強火の遠火が基本

揚げ物も焼き物も、一番おいしいタイミングで火を入れることができるようになったんだ。

おお。なんか職人っぽくなってきたね。

順調な板前生活を送っていたんだけど、ある日を境に親方のことをオヤッサンと呼ぶようになった。

この人から本気で料理を教わろうと思ったんだよね。
本当は「親父」だけど、俺はまだガキだから「親父さん⇨オヤッサン」

修行から3年半が経過した頃、余ったブリのアラで、賄いにブリ大根を作ったら、オヤッサンが気に入ってくれたんだ。

これを機に、オヤッサンから煮物を教わり始めた。

最初は割合で作るものから、徐々に食材と調味料の合わせ方まで教わったよ。

出汁も引かせてもらえるようになった。

クレードルに出汁を入れた小皿を乗せ、オヤッサンに「あたりお願いします」と言って味を見てもらう。

これが怖い。

まじで緊張する。

初めのうちは鰹が強い、昆布が勝っていると毎回注意されていた。

出汁はマジで難しい。店の味だから妥協はない。

ちょっとのミスで、食材が全て無駄になる。

煮方の先輩の協力を得ながら、この難問に挑戦し続けた。

オヤッサンも当然だけど、この煮方の先輩もすごい人。

何が凄いって、味が決まるんだよね。
俺みたいなのは「味がぼやける」ことが多いんだけど、この人たちはバシッと味を決める。で美味しい。

季節の炊き合わせにも挑戦したんだけど、これもまた難しい。

この頃かな?「料理四季報」っていう専門誌に取材された時は、ちょっとうれしかった。
頑張る新人料理人!とかそんな感じの記事だったように思う。

そんな感じで修行を続けていると、オヤッサンから注意されることも少なくなり、だんだん調味料の使い方も理解してきた。

煮魚にたまり醤油を使うとまじで美味い。

4. 若人に葛藤が生まれた。23歳。

5年ほどその店で修行を続けていると、葛藤が生まれてきたんだよね。

オヤッサンや煮方の先輩のおかげで、なんとか板前っぽくなってきたものの、魚をほとんど触っていなかったんだ。

店の規模的に魚の入荷数が少なかったので、圧倒的に捌く量も種類も足りなかった

魚をメインに修行するためには、居心地のいいこの店を出て、修行に出なくちゃならない。

相当悩んだけど、外に修行に出ることを決意したよ。

この頃はとにかく「料理が上手くなりたかった」

オヤッサンと煮方の先輩は、外の水を飲むのもいい経験だと背中を押してくれた。

でも、オヤッサンは少し悲しそうだった。

実の息子のようにかわいがってくれたからだろう。

俺は「必ず後を継ぎに戻るから、待っててくれ」とオヤッサンと約束して店を出た。

あっちけい、わが悔いなき生涯を綴る。④和食料理人編(後編)に続く



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