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開き切らない花を読みとこうとして

お茶とか禅語に感して適当に書く適当な感じのテキトウ文章がこちらになります。
今回紹介する茶席の禅語は「花看半開」=「はなははんかいをみる」です。

花看半開 
酒飲微醺 

というのが原文で、上の句だけを用いることが多そうです。

明代末期の「菜根譚」という人と自然との交わりについて書かれた文章からの引用された、花は半分開いたくらいが見頃、酒を飲むのなら微酔いぐらいでやめておくのが良いという意味の言葉。

字義通りの意味はまあそれはそれで、掛けられた場でそれをどう解釈すればいいのか?というのが気になるところ。

蕾の状態で花入れに入れてお客さんに見せる茶席に合う言葉かなと思います。完全に開いた状態を避けるのは、開ききった花がその後の散る様子や死を連想させるから。

未完成な状態が未来の様子を想像させる、想像させるところに含みがある、未来や生の美しさを想像させる力があるという考え方からです。そもそも満開とは何なのか、満開だから美しいとは誰が決めたことなのか?

個々の花は機械的にプログラムされているわけではないので、花が満開になっているタイミングは存在しない。自然界のどこにも存在しない。人の心の中にしか「満開」なんて言うものは存在しない。

あるいは人の心に「満開」の概念が入ってくる根源となっている、日々触れている情報の源にだけ、あるいはそれを生み出している社会の慣習や通念の中にだけ存在しているのかもしれない。人が勝手に定めた基準を元に、美しい、美しくないを判別して、勝手に定めた基準に達していないからと言って心に愁いを感じたりするのは、とても利己的で、とても他責的だ。

花はそれ自体が美しさを持っている。もしくは美しくなる可能性を持っている。誰かに見せるための写真をわざわざ取らなくとも、自然はそれ自体が美しい。

ひどい雨の日もひどい風の日も、雪の日も、存在そのものが内在的に持つ美しさを味うほうがいい。半開の花の中に未来や可能性を見いだせるだけの想像力であり教養を保ちながら、あるがままを受け入れる心持ちでいたい。

未完成な状態から兆候を見出す力こそ、悟りに近い人、精神的な高みにいる人が持っている良い性質である。

昨今は、音楽に対しても同様の態度でいたほうが楽しいように思っている。爆発力、可能性、未来、歌い手、バンド、演奏者、録音され商業化された「音源」は確かに存在しているけれど、可能性を秘めたまま変化し続ける。

変化の兆候を読み取るだけの教養は、長い音楽の歴史や出来事を知り、深く理解し、文脈の中に身をおくことでのみ身につく。流れてくる点に刹那的な反応をすることなく、文脈の中から音を聞く事ができたら(なんと素晴らしいだろう)

閑話休題、未完成に美を見出すというのは受け手側が持つべき美意識である。造り手側が持つべきではない。進化を内包しない未完成はただの堕落である。造り手側が日曜大工的な雑さやアマチュア的な手抜きに甘んじることは許されない。味を見出すのは常に受け手側であるべきだ。

創り手側には絶頂も未完成も必要ない、ただ進化のみを内包するのがよい。

そんなことを考えながら言葉を読んだ。

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