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サウナ: 無を共有する事の不可能性について

サウナって流行ってる?気の所為?日本だけ?

サウナが流行り始めていると言うが本当だろうか。確かに僕自身が所属するウェブ系ベンチャー界隈の人々のSNSへのポストを見ていると「サウナに行きました」という投稿は増えているように思え、町中のサウナに足を運ぶと確かに以前よりも人が増えたきもするし、「〜のサウナは」とはとか「〜の水風呂が」と語る声も心なしか増えた気がする。少し検索してみると下記の記述が見つかる。

今、面白いのはドイツとニューヨークとロンドンのサウナだと聞きまし> た。 サウナが若者のカルチャーとして捉えられているようです。それが世界同時多発的なムーブメントとして発生している 。
([1] 世界のサウナ事情「日本とドイツだけ異様」二極化するスタイルとは?より引用)

なるほど、記事内容をかいつまむと、世界的に若者のカルチャーになりつつあるらしい。記事内での理由付けとしては

世代交代ですね。都市型サウナが増えて、ひと昔前のサウナから変化している。具体的には「休む」ということに意識的ということです。「休むにはサウナが効率的」という認識が生まれている。そうした動きが世界の様々な都市で発生しているようです。

とある。なるほど確かにマインドフルネスだのなんだと、以前よりも内面のチューニングに人々の心が向いているのかもしれない。外側を改革しようとする動きと、内面をチューニングしようという動きにはトレンドがあるものだと僕は理解しているが、現代はおそらく内面のチューニングを人々が志向する時期なのだろう。

果たして理由は「意識的に休みたい」からだけだろうか?

意識的な休息という要素ももちろんあると思うが、この前サウナに入り開放的な空間で外気浴をした後にボンヤリと考えていたのは、「サウナー」と自称する人々が現れ始め、サウナ界隈が盛り上がり始めている背景には、サウナそれ自体の持つリセットの作用、つまりは、加熱と冷却を繰り返すことによる自律神経のリセット、発汗することによるリフレッシュの感覚がある種の快楽を認識した人が増えたことに加えて、人々がインターネット上に体験をシェアすることを肩肘張らずに行うようになったこの時代においてなお、リセット=無の感覚の体験のシェアが困難である挙げられることかなと思い始めた。シェアの困難性。

困難であるがゆえに、逆説的によりシェアしたくなるのだろう。そして、その困難さは、視覚で捉えられるもの=カメラで捉えられるもの以外はシェアし辛いという、ある種のテクノロジーの限界でもある。シェアする行為は当然、モバイル端末の持つセンサーという物理的な制約を受けるからだ。

サウナ体験=サウナ室による身体の加熱と、水風呂による熱された身体の急速冷却、血管の拡張と収縮がもたらすリセット感覚。「ととのう」とか「サウナトリップ」「サウナトランス」「脳内麻薬」などと形容されるアレである。このアレはある意味、長い時間の座禅で自分とただ座り、自分と向き合った後、足がしびれ、痛み、やがてその痛みの感覚すら失せた後の境地に近い。サウナ室という、外側の世界と隔絶した空間で、ただ座る。ただ座り、自分の身体と向き合う。どうしても向き合わざるを得なくなる。自分の身体の持つ熱量を意識せざるを得なくなる。知覚を行う以外、他の何かしらの思考をする余地のない、研ぎ澄まされた時間、思考の量という意味では、無に限りなく近づく。まっさら=原初に限りなく近づくプロセスとしてのサウナ体験。

サウナ体験における無であり、接近対象である原初の感覚は、個々人ごとに異なっている。理屈としては、純粋に個々人の身体の中の神経の結合が異なっているという物理的事象であると思われるが、難しく考えくとも、感覚値として、個々人別個の思考回路とバックグラウンドを持つ人間なのだから、個々人のまっさらな状態がそれぞれで異なるのは当然であるように思える。そして、原初の状態だけではなく、複雑な思考回路を落ち着かせて、思考それ自体を消し去って、知覚に全えを委ねるプロセスもまた、個々人によって大きく異なるだろう。

巷で言われる「サウナに入る際のお作法」を守ったとしても、同じプロセスは全く異なる結果を産む。沢山の原初=無の感覚が存在する。この無はある種、空集合、ヌル的なものであり、ある特定の値ではなく無という集合なのである。

さて、当然だが、この無は不可視であり、文字に立ち上がることはなく(できず)、現時点では共有は不可能である。それは聴覚や視覚以外のもっと動物的な、感覚器が内在的に持つ原初の状態に依存する。たとえ何かしらの共有行為をしようとも、共有された相手=見る側はその感覚を感じ取ることができないのである。視覚的体験、言語的な体験として汲み取ることができても、空集合から何か実体のあるものを取り出して手触りを得ることは難しいのである。

各位が手触りを表現するために己の内面に紐付いた言葉で語りえる

そして、この共有不可能性。ここにこそ語る余地が存在し、語り合う余地が存在する。数値化、合理化、理由付けを徹底された社会に生きざるを得ない社会において、語る余地のあるもの=個人的な言葉で語る余地のあるものとして存在を許される。社会が古来より引き継いできた語る余地のないもの=超越的なもの=宗教や神を語ることは憚られるが、文脈上の重みがなく本質的に、衝動的に語りたいものとしてサウナの体験が存在し得るといえる。

表現が難しいという点と、個々人の内面に体験の内容が依存するという意味での本質的な共有不可能性が存在し、かつ語る余地の存在するもの、言語化、ストーリー化がなされうり、そして語るもの同士が持つある種の所属感を生み出すものは広まりうるだろう。

サウナもおそらく、そういった性質を持つ体験の一つであると言える。

カジュアルな死の体験、内蔵を含めた肉体の感覚、死のイメージの共有

無の感覚、「カジュアルな死」([2]より)を内包するものは流行ってもよいし、もっと流行るのではないかという感覚がある。他にめぼしいものがあるだろうかと言われると難しいが。

そうすると口から出てくる空気も冷たくなって、全身が頭と喉と心臓だけがつながった管になったような不思議な感覚になる。もう立ちあがれなくなって「この先に死があるのか」とすら感じたり。

血流の感覚や身体の感覚を肌触りを持って感じながら、一回一回異なるリセットの感覚に身を任せる。本来は個々人に一度しか訪れないはずの死を、擬似的に何度も体験する。死のイメージをシェアするという意味では、高所でセルフィーをしたり、高層ビルの合間を飛び回ったり鉄骨の上で前転をしてみたり、そういった危険行為をシェアすることに少し似ている。もちろん、危険行為に関しては、語るまでもなく、蛮勇を競い合う別の性質の行為であり、知性が無くとも実行しうり、シェアしうり、どれくらいの危険があるかという単線的な評価軸で扱われるという意味でも、サウナ的体験とは一線を画する全く別の行為であるのは間違いないが、SNS上でのシェアが広まりやすいという点や、つい見てしまうという点では似ている。人は何処かで「死を忘れないため」に日常の一部に死を取り入れたがっているのだ。

スティーブ・ジョブズのスピーチではないが...、大概の啓蒙的(笑)な人々は人生の短さを自覚せよなんて嘯く。ただ、毎日鏡を見て自分に語りかけるのなんて不可能だから、時間の経過が確実に刻まれる肉体と向き合い、本来知りえない「肉体の死」を感じていることを記録するため、表明するためにサウナの体験をSNSへとシェアしたくなるのだろう。「ととのう」ことで自分と向き合っていますよ。という表明だ。臨死体験の表明だ。みんな向こう側の世界を一度は見てみたいと好奇心で思っているし、それによって老いとか時間の経過を感じることから逃れようとしたり、逆にそれと向き合おうとしたりしている。

どちらにせよ、一人で向き合うことは大変だから、本来不可能であるはずの共有行為をするのだろう。

参考資料

[1] 世界のサウナ事情「日本とドイツだけ異様」二極化するスタイルとは?

[2] サウナで感じる“カジュアルな死”とは? サウナ偏愛クリエイター集団“蒸され人”熱風座談会(前編)

[3] “サ論”から広がる多様なサウナ哲学。サウナ偏愛クリエイター集団“蒸され人”熱風座談会(後編)

[4] “サ法”とは?“ととのえ”とは? 最新サウナ・カルチャー入門(前編)

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